2010年5月23日

『自由をつくる自在に生きる』 森 博嗣 (著)



まず著者による「自由」の定義から。
 自由というのは、「自分の思いどおりになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由」なのだ。
私の中では、まずは義務から解放された状態、それが自由だと考えていたので、この定義は斬新でした。
それと同時に、ちょっとハードルが高すぎるのではないかとも感じました。というのは、色々なことを「思う」(空想する)だけなら誰にも邪魔されることもなく、不可能なことは何もないのですが、思ったことを実現するとなると、他者の権利を侵害したり、他者の自由との衝突のために、思いどおりにならないことが山ほど出てくるはずだからです。色々な「思い」を持てば持つほど、実現不可能な思いの数も多くなり、自由が遠のいていくことになりはしないかと…。

結論からさきに書くと、「人生の目的は自由だ」と僕は考えている。自由を獲得するために、あるいは自由を構築するために、僕は生きている。
私はそこまで言い切るつもりはない(人生に目的があるのかどうかもわからない)ですが、(自分の定義による)自由の価値を重んじる生き方をしている点は著者と同じだと思います。

 腹が空いたら好きなものを食べる。これは「自由」な状態なのだろうか?
(中略)
腹が空いたというのは、肉体的な欲求であり、つまり、食欲は躰による「支配」なのである。
確かにこういうのは「自由」とは違いますね。私が食べることにあまり興味が持てないのは、まさにこの「支配」を感じるからです。本能的な欲求を満たすだけの行為は、無くせるものならむしろ無くしたい、その方が自由だと考えています。

 本来、自分の時間は自分のためにある。何をするかは自由なはずだ。
 しかし、ブログを書くことが日常になると、ついブログに書けることを生活の中に探してしまう。
(中略)
 知らず知らず、ブログに書きやすい毎日を過ごすことになる。
 これは、「支配」以外のなにものでもない。
確かにこれはありがちな罠かもしれないので注意しようと思います。
私の中ではブログは主に自分のための備忘録で、老後に過去の記事を読み返しては悦に入ったり後悔したりする予定です。資産運用と同じく長期間続けることが必要なので、これからも書きたいときに書くスタイルを継続します。

 僕がいいたいのは、「自由」が、思っているほど「楽なものではない」ということである。自分で考え、自分の力で進まなければならない。その覚悟というか、決意のようなものが必要だ。
まあこれは、前述の「自由」のハードルが高いことが原因じゃないですかね。
単に義務から解放されるという意味の自由なら、これほど楽なものはなく、身構えるようなものでもないと感じています。

「食べる量を減らす」ということが一番簡単で確実なダイエットである。それを、カロリィの少ない食品を買わせたり、そもそもカロリィがない食品を作って売ったりする。お金になること、商売になることしか、けっして宣伝しない。そういうものに乗せられて、消費者はどんどん搾り取られていく。
同感です。
著者は1日1食の生活を20年以上続けているけど、まったく健康だそうですよ。

 もう少しだけ、自由を手に入れるための秘訣めいたことを考えてみよう。いずれも抽象的な方法論になるけれど……。
 最初に思い浮かぶのは、「みんなと同じことをしない方が得だ」ということである。これは、かなりの確率で成功する秘訣のように思う。
それが秘訣かどうかはわかりませんけど、同感です。
何よりも苦手なのが行列に並ぶこと…。高速道路の渋滞なんか拷問ですね。

 抽象すれば、自分にとって合理的な理由で判断すること。周囲の評価、定説、噂、世間体、そして常識、といったもので選ぶな、ということ。

 非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。
これは名言です。

楽しさを求める人生ならば、楽しい方を選べば良い。満足を求める人生ならば、満足できそうな道を進む。人生設計に照らし合わせて判断をすることが一番良いと僕は思う。もちろん、それには、自分の人生について、ある程度の方針がなければならない。難しく考えることはない。方針など、いつ変更しても良い。これもまた、自由なのである。
確かに。
自分で自分を縛る必要はありません。

自由を目指して生きる理由は、それがとんでもなく楽しいからである。
これまた名言です。
著者は自由を獲得する過程も含めて楽しんでいるように見えますけど、私はもっと単純に、自由であることそのものが楽しいと感じています。