2014年9月23日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その4



その3の続きです。

外貨預金で運用をしようという考え方は、今すぐ止めましょう。外貨預金は、はっきりと「ダメな商品」です。
(中略)
外貨預金については、どの通貨であっても、「最悪の商品ではないかもしれないが、ダメなことが最もはっきりしている商品だ」と認識して距離を置くのが正解です。
その理由はまず第一に、類似の金融商品(外貨MMFやFX)と比べて為替手数料や金利が不利だから、ということのようです。

それともう一つ重要なのが、
外国為替取引の基本は、同じ大きさで逆方向のリスクを持った参加者同士が戦うゼロサム・ゲームであり、その本質は「投機」です。リスクを取ることが、追加的なリターンで報われるような「投資」の世界とは根本的に異なります。
この理由だと思います。
つまり、為替取引によって得られる追加リターンの平均がゼロということは、高金利通貨の外貨預金で運用しても、低金利通貨の円預金で運用しても、円換算の期待リターンは同じになるということです。平均的には高金利通貨の為替レートが下落して金利差が相殺されるからです。

もちろん、為替レートは平均値を中心として上下にばらつきますから、運良く円安に振れれば為替差益と金利差益のダブルの恩恵を受ける場合もあれば、その逆に平均よりも大きく円高に振れた場合は金利差益が吹っ飛んだ上に為替差損で大損する場合もあるでしょう。

期待リターンが円預金と同じなのに、外貨預金には円預金には無いリスクとコストがもれなく付いてきます。報われないリスクなら取る意味がありません。この考え方は、
現代ポートフォリオ理論 - Wikipedia
の効率的フロンティアの考え方に似ていると思います。

(つづく)

2014年9月21日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その3



その2の続きです。

 課税もそうですが、一般にお金は先に払うよりも後で払うほうが得です。
払う金額が同じであれば、という条件付きですがその通りで、これは前回触れた「現金主義は損」の理由の一つになります。

 生命保険について心掛けるべき原則は、一点の曇りもなく明らかです。つまり、できるだけ加入しないこと、本当に必要な保険にだけ泣く泣く加入するということです。
完全に同意します。
生命保険のような金融商品が毎月分配型投信をも遥かに上回る高コストであることは、様々な本やブログで既に語り尽くされています。必要性をシビアに検討することなく安易に保険に加入してしまう愚を避けること。これも若い人たちにとって特に価値のあるアドバイスになると思います。

◎インカム・ゲインとキャピタル・ゲインを分けて考えない
(中略)
インカム・ゲインとキャピタル・ゲインは、両方を「合わせて」、総合的に評価するのが投資の基本であり、両者を別々に計算して、損だ、得だと判断することは、明らかに不適当です。
(中略)
一般に、キャピタル・ゲインよりもインカム・ゲインの方を重視する傾向がありますが、それこそ、行動ファイナンスで言うところの「メンタル・アカウンティング」に他なりません
当ブログでも過去に何度も触れている通り、インカムゲインを過大評価するのは人間の脳に宿る奇妙な癖の一つですね。他にも多くの癖がある中で、このインカムゲイン偏重の癖は、お金の運用について特に大きな負の影響を与えるものだと思います。

この癖を上手に利用して儲ける商品の代表格が毎月分配型投信です。
誰が勧めたわけでもないのにネット証券各社で高コストな毎月分配型投信が売れ筋商品になっているという事実は、人がこの癖に気付いて意識的に投資判断を修正することの難しさを物語っています。
はっきりいって、このタイプの投資信託を買うくらいなら、普通預金にお金を入れて、これを定期的に引き出す方が、損が少なく、遥かに健全です。
その通りです。
え? リタイアして無収入な人は貯金を取り崩すのに抵抗を感じないのかって?
確かに私の直感は、ゆっくり確実に減っていく貯金を見て不安に感じろ!というメッセージを発しているような気がしないでもないです。しかしそれもまた脳の奇妙な癖なので気にすることはありません。感情よりも理性に従って淡々と、本来必要のないインカムゲインと引き換えに余分なコストやリスクを負担する愚は避けるべきでしょう。

(つづく)

2014年9月18日

ツイッターとの連携機能のテスト

ブログの外部連携機能を設定して、ブログを更新するとツイッターへ通知を自動投稿するようにしてみました。

これはテスト投稿です。

2014年9月17日

リタイア後の生活リズム

40代貯金2000万でセミリタイア : セミリタイアして規則正しい生活ができる人、できない人より:
最近はめっきり昼過ぎまで寝る生活になっています(´・ω・`)
つまり私は「セミリタイアして規則正しい生活ができない人」です。
でもリタイア・セミリタイアしても規則正しい生活をしてる人が多数なのかな?
ちなみに私の場合は、夜型(遅寝遅起き)の規則正しい生活をしています。意識的にそうしているというより、何も考えずに生活してたら自然にその形になりました。遅寝遅起きにも一定の限界があって、昼夜が完全に逆転するところまでは進行しないようです。

アーリーリタイアした低消費者のブログ: リタイア後の生活スケジュール14年夏より:
8時半起床は、無理でした~。
以下、半年足らずで、どんどん夜型に変わり、堕落していった現在のスケジュール。

現在
12時起床
(中略)
3時就寝
あー、わかります。私も早起きは苦手です。
思い起こせば私の夜型属性は小学校高学年の頃には既にもっていたようで、毎朝ぎりぎりの時刻に家を飛び出してダッシュで登校していたことを思い出します。

私の就寝時刻、起床時刻も、低消費者さんとよく似てます。前述の通り意識的に毎日時刻を揃えるわけではないので、日によって最大±2時間以内のばらつきがある感じですね。

この記事を最初に読んだときに引っかかったのは、夜型に変わったのを「堕落」と表現されていたことです。
いえいえ、ぜんぜん堕落じゃないと思いますよ。
逆に、夜型人間が無理やり朝型生活をして一体どんなメリットがあるのかなと思ってしまいます。

朝型生活=健康的みたいなイメージをもっている人が多いようですけど、寝太郎さんの本に書いてあったように、
規則正しい生活が肉体的健康や精神的健康に良いというのはでたらめで、せいぜいいえるのは、規則正しい社会生活には、規則正しい家庭生活が必要である、この程度だろう。
月曜日から金曜日まで会社と家を往復する典型的会社員生活には、朝型の規則正しい生活が必要だった。ほんと、この程度のことでしかありません。リタイアしたらもう過去のこと。現役時代の呪縛を引きずるよりも、自由に生活するほうが健康にも良いと思います。

夜型生活の意外なメリットは「朝食を食べる必要がない」ことでしょうか。1日2食生活になってから体重も遥かに安定してます。

2014年9月15日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その2



その1の続きです。

◎「現金主義」のススメ
(中略)
クレジット・カードでの支払いを避け、できるだけ現金で支払うという、それだけのことですが、手っ取り早くお金の流れを実感するためには、これが有効です。
(中略)
「カードのポイントを使わないと損だ」と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、毎日家計簿を付けて収入・支出を管理しているのでなければ、お勧めできません。収入・支出のバランス感覚を養うまでは、少々の得よりも、お金の実態を大切にすべきでしょう。
う~む、ここは意見が一致しませんね。
やっぱり当ブログでは初志に忠実に、「クレジットカードが使える場面で現金決済は損」。このスタンスを貫きたいと思います。

「毎日家計簿を付けて収入・支出を管理しているのでなければ」と、何か特別な条件のように書かれてますが、毎日欠かさずとは言わないまでも、きっちり家計簿を付けて年間収支を把握するのは家計管理の基本中の基本で、やろうと思えば誰でもできると思うんです。どうせ君たちは家計簿なんか付けないでしょという先入観と言いますか、ちょっと残念な諦めが入ってる感じですね。それと、山崎氏自身がたぶん家計簿を付けない人なのではないかと、今まで読んだ本やブログの断片的なイメージから勝手に想像してます。違っていたらゴメンナサイ。

今はスマホでも簡単に家計簿が付けられる良い時代なので、支払手段をどうするか考えるよりもまず家計簿の習慣化を教えるのが先じゃないかと思います。

 リボルビング払いとは、つまるところ、借金をすることであり、借金生活への入り口であるという認識を持ってください。小さい借金とはいえ、年率で15%前後にもなる、合理的とは程遠い金利です。
(中略)
世の中には、このように、気軽に借金へと誘う巧妙な罠があちこちに仕掛けられています。金持ちからは手数料を、貧乏人からは金利を取るのが、昨今のリテール向け金融ビジネスのビジネスモデルです。
彼氏であれ彼女であれ、リボルビング払いをするような恋人とは、今後の付き合いを考え直す方がよいでしょう。少なくとも、結婚はしない方がいい。
仰る通りです。
リボ払いのような明確な損を避けることができるかどうかは、人生のパートナー選びの際に有効な基準の一つだと思います。
クレジットカード払い自体が借金だと言う人もいますが、法的には負債でも金利がかからないのであれば問題ありません。無駄な金利や手数料を負担しているのかどうかが判断のポイントです。中にはリボ払いを選択しているのに毎月全額返済して金利を払わない上級者もたまにいるので、誤解して振ってしまうと勿体無いです。注意しましょう。

金融機関というのは、その利益構造からみても、「あなたから儲ける組織」であって「あなたを儲けさせる組織」ではありません。この点は、シビアに考えなければなりませんし、こうしたお金に関わる利害関係の意味を正しく理解することこそが、「お金の常識」の第一歩でもあるのです。
その1でも書いた「利益相反」の構造です。まずはこれに気付かないことには話になりません。
海外発だと「顧客のヨットはどこにある?」のエピソードが有名ですね。
投資家のヨットはどこにある? (ウィザードブックシリーズ)
この本の初版は何と1940年発行だそうです。顧客と金融機関の利益相反関係は何十年も昔からまったく変わっていないことがよくわかります。

FPについても銀行や証券会社との付き合い方とほぼ同じ注意が必要です。
(中略)
お金の運用に関していうと、FPが持つ知識は、一般の金融マンより劣っていることが多いというのが、残念ながら一般的な傾向です。
(中略)
彼らの著書には、堂々と誤りが書かれていることを見つけることが度々あることを付け加えておきます。
日本人は資格とか肩書きに弱いところがあるので、FPと聞くだけでお金の専門家という先入観を持ってしまっていて、彼らに相談すれば有益なアドバイスが得られると信じている人も少なくないようです。

しかし現実はそんなに甘くありません。彼らの主な収益源も金融商品の販売手数料や仲介手数料だったりするわけで、そういうFPは実質的には金融機関の代理店にすぎません。彼らが勧める金融商品がろくでもないものであることは容易に想像できます。

FPの著書に誤りがあるというのも思い当たるフシがあります。
昨日の記事 の続きです。 2 不動産投資で一番大切なこと (中略) インカムゲインを重視し、極端なキャピタルゲインは望まないことが賢い不動産投資の秘訣です。 まあこれは当たり前というか、土地はともかく建物は時間の経過と共に減価していきますから、キャピタルゲインよりもむしろキャピタ...
yumin4.blogspot.jp
この本を読んだときは頭の中が?マークだらけになりました。

(つづく)

2014年9月14日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その1



お金を合理的に扱って、お金の悩みを持たずに、爽やかに暮らそう、というのが本書全体を通じた目的意識です。
賛成です。
山崎氏の合理的な目的意識は、過去に読んだ二冊(『超簡単 お金の運用術』『お金とつきあう7つの原則』)にも共通していたように思います。

 お金を有利に扱うには、また、有利不利以上に、気持よくお金と関わるためには、明らかで無駄な「損」を避けることが大切です。お金の世界では、銀行・証券会社・保険会社などの金融ビジネスに関わる人々に判断を頼ると、ほぼ間違いなく「損」をします。
普遍の真理ですね。
投資家と金融機関の「利益相反」の構造に気付くかどうかが、まず最初の運命の分かれ道と言って良いでしょう。それに気付いた人は店舗の窓口で投資の相談をするなどというカモネギ行為はもちろんのこと、証券会社の無料セミナーなんかにも行かなくなるはずです。

次の分岐点は、何が「損」なのか判断できるかどうか。
たとえばETFを選ぶ際に私は真っ先にExpense Ratioをチェックします。ただ持っているだけで継続的に引かれるコストが高いのは明らかで無駄な損だからです。
人を介さないネット証券でさえも、コストが異様に高い毎月分配型投信ばかりが売れ筋上位にランキングされているのは、そもそも何が損なのかわかっていない人の方が多い証拠です。

 お金が大切なものであることに違いはありません。ですが、もともとある絶対的なものとして私たちの社会を支配するほど、たいそうなものではありません。私たちが「これはお金である」と信用して初めてお金として存在し得る、どちらかというと、お金は「頼りない」存在なのです。
お金に対しては、永続的に価値を持った絶対的なものである、という思い込みをやめ、一歩引いて客観的に考えられるような、少々ドライな距離感を持つことこそが、長い人生をお金と冷静に付き合っていくために必要なのではないでしょうか。
同意します。
そもそもお金というツールは人間が発明したものですからね。実際に、発明されてから現在までの間に、お金の形態も、お金の価値も目まぐるしく変化してきました。信頼を失えば紙切れ同然にもなり得ることは歴史が証明しています。


このツイートの通り、お金の価値というのはモノやサービスと交換するときのレートで決まります。お金の価値を計る際には、お金の額面に囚われて増えた減ったと一喜一憂するのではなく、その交換価値がどうなっているかを見る必要があります。

 おそらく、私たち現代人が「幸せ」を感じるためには、健康、知識、人間関係、さらに経済力のそれぞれが必要なのでしょう。
(中略)
経済力も含めて、幸せに関わる主な要素は、一つが完全に欠けると、A×B×C×D×……の掛け算の結果がゼロになるような要領で、幸福感をゼロにしてしまう影響力があります。
幸福感は4要素の掛け算ですかー。さすがにそれは違う気がしますね。
この4つだけでなく、人それぞれが持つ幸福の要素にそれぞれの重み付けがあって、ただの掛け算よりも遥かに複雑な関数になっているような感じがします。たとえば人間関係などは欠けても幸福感に影響のないタイプの人は確実に存在するでしょう(ここに少なくとも一人います)。

(つづく)

2014年9月10日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その4



その3の続きです。

 スポーツをやっていると本物に出会ったとき、自分の限界をはっきりと知ることができる。本物と自分のどうにもならない「差」を認めたうえで、今の自分に何ができるのかということを考えるきっかけをもらえる。
自分の限界を知る機会の多さはスポーツ選手ならではの利点と言えるでしょうね。
運動能力以外の場合は自分の限界を知る機会はずっと少ないはずなので、もし人生の早い段階で何かに挫折するなどの経験をしているのならば、貴重な財産になると思います。

 究極の諦めとは、おそらく「死ぬこと」だと思う。ただ、その前の段階に同じぐらい大きな「老いる」ことを通じて、多くのことを諦めなければならない。いくら努力しても人は必ず死ぬ。
その通りで、努力ではいかんともしがたい事の中で、最もわかりやすい例が死、そして老化です。

 僕の現役時代の最後の四年間のコンセプトは「老いていく体でどう走るか」ということだった。ここでいう「老い」とは、アスリートとしての身体能力の低下である。普通に「年をとる」感覚とは少し異なるのかもしれない。
ただ、まったく同じなのは、どこかで価値観を劇的に変えないと、自分ではどうすることもできない自然現象にずっと苦しめられるということだ。その苦しみから逃れるためには、「どうしようもないことをどうにかする」という発想から、「どうにかしようがあることをどうにかする」という発想に切り替えることしかない。
分かります。
アスリートでなくても、人生後半に入ると「老いていく体でどう生きるか」を考えることになります。そのときに努力で老いを何とかするという発想を捨てられない人は、苦しい思いをすることになるでしょう。この本に出てきた、体があちこち痛むのを年のせいにしたくなくて医者にないものねだりをする老人たちみたいになってしまいます。

「仕方がない」
僕は、この言葉に対して、もう少しポジティブになってもいいような気がする。「仕方がない」で終わるのではなく、「仕方がある」ことに自分の気持ちを向けるために、あえて「仕方がない」ことを直視するのだ。
人生にはどれだけがんばっても「仕方がない」ことがある。でも、「仕方がある」こともいくらでも残っている。
同意します。
仕方があるのかないのかはっきりしない領域でやってみるのはまあいいとして、明らかに仕方がないことだとわかっていながら、いつまでもその事に執着するのは人生の浪費だと思います。

人生は早めに諦めよう! - Chikirinの日記に書いてあるように、日本人の不幸の原因の大部分は「諦めるのが遅すぎるから」の一言で説明できる気がします。改めて読み返すと、本書と共通する部分も多い良記事ですねこれは。

本書の「おわりに」に書かれていることがまた素晴らしい内容で、ほぼ全文引用したくなるのをぐっとこらえて。
 実際、僕は死ということをよく考える。死んだら人生は終わりだが、もともと存在しなかった人間が生まれ、ある時間を生き、また無に帰っていくと考えると、ただ「もとの状態」に戻るだけだという気がする。
死んだら無に帰るという死生観は日本人の中ではさほど珍しくはないようですね。私も同じです。輪廻転生のような死生観と比べて、いろいろなことをシンプルに考えられるのが利点だと思います。

最後には死んでチャラになるのだから、人生を全うしたらいい。そしてそこに成功も失敗もないと思う。
たかが人生、されど人生である。
「人生を全うするとは何か?」
考えだすと本が一冊書けるような深いテーマで、どこを探しても正解は無いでしょう。人それぞれ自分の人生と向き合う以外にありません。
私はシンプルに、とにかく人生を楽しむことかなと思っています。

 僕は人生において「ベストの選択」なんていうものはなくて、あるのは「ベターな選択」だけだと思う。誰が見ても「ベスト」と思われる選択肢がどこかにあるわけではなく、他と比べて自分により合う「ベター」なものを選び続けていくうちに「これでいいのだ」という納得感が生まれてくるものだと思う。
人生は選択の連続という話はその1で書いた通りです。ベストな選択かどうかを気にして結局何も選択できない(現状維持の選択をする)人は、こういう気の持ちようによって自分の未来を変えることができるかもしれませんね。

「夢はかなう」
「可能性は無限だ」

こういう考え方を完全に否定するつもりはないけれど、だめなものはだめ、というのも一つの優しさである。自分は、どこまでいっても自分にしかなれないのである。それに気づくと、やがて自分に合うものが見えてくる。
諦めるという言葉は、明らめることだと言った。
何かを真剣に諦めることによって、「他人の評価」や「自分の願望」で曇った世界が晴れて、「なるほどこれが自分なのか」と見えなかったものが見えてくる。
続けること、やめないことも尊いことではあるが、それ自体が目的になってしまうと、自分というかぎりのある存在の可能性を狭める結果にもなる。
前向きに、諦める――そんな心の持ちようもあるのだということが、この本を通して伝わったとしたら本望だ。
「おわりに」の締めくくりに書かれているこの文章が、本書の要約と言えるでしょう。
ええ、十分に伝わりましたとも。
日本人に心に足りないパズルのピースを埋めてくれるような良書に仕上がっていると思います。

2014年9月7日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その3



その2の続きです。

 人々を”平等原理主義”に駆り立てるのは何だろうか。
僕は「かわいそう」と「羨ましい」の感覚だと思っている。自分を基準にして「自分より不幸でかわいそう」な人たちを救うべきだと考える一方で、「自分たちよりいい思いをしていて羨ましい」人たちからはもっと取るべきだと考えるのだ。
(中略)
しかし、多くの人が考える一番のセーフティゾーンが「みんなといっしょ」というところになると、社会に活力がなくなるのではないかと思う。
同意します。
実際に、社会の隅々まで平等主義的、社会主義的な規制や政策が張り巡らされているこの国では、既に社会の活力が大きく損なわれていると思います。

平等原理主義は義務教育による刷り込みの影響も大きいような気がします。
皆さんは、中島義道さんが「みんな一緒主義」と呼ぶ奇妙な価値観を、小学校あたりで植え付けられた記憶はありませんか? 私の場合は、改めてそういう観点で小学生時代(既に遠い過去ですが)を振り返ってみると、思い当たる体験を幾つか思い出しました。

大人になってからも、たとえば経済的格差の拡大を悪だと思い込んでいる人が何と多いことか。資本主義の歴史は格差拡大の歴史でもあるのですが、他人が3倍豊かになっているのに自分は2倍しか豊かになっていないから資本主義はけしからん!格差を是正せよ! みたいなことを言う人がどうやったら洗脳から解けるのかわかりません。

 世の中はただそこに存在している。それをどう認識してどう行動するかは自分の自由で、その選択の積み重ねが人生である。なんてひどい社会なんだ。そう嘆きながら立ち止まっているだけの人生もある。日々淡々と自分のできることをやっていく人生もある。選ぶのは自分だ。
これは名言。
本書に一貫する「前向きな諦め」の提案だと思います。

ひどい社会だと嘆くことを積み重ねていけば、次第に人々に伝わり、遂には社会を変えるに至ることがあるかも知れず、表現し続けるのが無駄だとは言い切れませんけどね。私も日々ツイッターでやってますし(笑)。
でもそればっかりに熱心で、社会や環境の方が自分の都合の良いように変化してくれるのを待っているだけでは、結局何の対策も打てないまま人生が終わってしまうでしょう。

 僕は昔から、人間関係を整理するとか、モノを整理して捨てるとか、かかっている費用を圧縮するということを定期的にやっている。捨てることで小さくなったり、軽くなったり、安くなったりするのが好きなのだ。しかも、モノを捨てて小さくなることで、選択肢が広がるような気になっていく。
「ああ、これがなくても生きていける」
「この程度しかかからないのなら、仕事をやめてもしばらくは大丈夫」
そういう気分だ。いつでも舞台から降りられるという解放感が生まれる。
私のような節約系早期リタイア実践組や、早期リタイア志向のサラリーマンが考えていることと全く同じじゃないですか!
何だか親近感が湧いてきます。
まあ、アスリートの場合はまだ30代にして早期ではない普通のリタイアをするわけで、サラリーマンよりもずっと早くから第二の人生のことを意識しているのでしょうね。

 やらなくてもいいことはやらない、つき合わなくてもいい人とはつき合わない。
そう割り切ると、思いもしなかった自由さが手に入った。自由になることは、財産が増えていくことと反比例するような気がしている。できることなら、ほとんどのことをまっさらにしておきたいくらいだ。
僕たちは生きていかなければならない。生きていくためのサイズを小さくしておけば、やらなければならないことが減っていく。何かをやめることも、何かを変えることも容易になっていくのだ。
ほんとその通りですね。
財産が増えていくことと自由度が「反比例する」というのが腑に落ちませんけど、ここでいう財産とは資産のことではなくて身の回りの持ち物的な意味合いなのかなと。

早期リタイア志向の人にもたいへん参考になる考え方だと思います。

(つづく)

2014年9月4日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その2



その1の続きです。

 僕の感覚では、日本人は人生の選択をし始めるのが非常に遅い。大学を卒業する前後の21,2歳ぐらいからやり始めるかどうかも怪しいと思う。それはちょっと遅すぎやしないか。
(中略)
大の大人に「僕はどうして今この会社にいるんでしょう」と真顔で相談されたことがあった。小学生と変わらない世界観のまま、社会人になってしまっているのだ。
私の場合、さすがに大学卒業前には就職先を自分で選択しましたが、一歩間違えればこの相談をした若者のようになっていたかもしれません。何も考えずに選んだ会社が偶然自分に合っていただけのことですから。

なぜこういう傾向があるのかはよくわかりませんが、日本に自己責任論がなかなか根付かないことと無関係ではないような気がします。

日本人は、金メダルやノーベル賞といった既存のランキングを非常に好む。これは他者評価を重んじる、日本人の気質をよく表していると思う。それはそれで目指してもいいとは思うけれど、多くの日本人は、あまりにも人から選ばれようとしずぎてはいないか。人に受け入れてほしいと思いすぎていないか。
同感です。
これが幸福の基準を外に持つ例ですね。良くないことだと思います。
乗り越えるべきハードルの高さが評価者や競争相手次第で変動するのですから、勝つための作戦も複雑になります。一つの評価を手に入れたら、また何か別の他者評価がほしくなったりして、永久に満たされることがないかもしれません。

 本当は欲しかったものがあって、一生懸命がんばったけど手に入らなかった。挫折からうまく立ち直れなかった人が嫉妬に染まる。自分が持っていないものを他人が持っているだけで恨めしい。とにかく幸せそうな他人が羨ましい。でも羨ましいと素直に言えるほど本心をさらけ出す勇気がないものだから、攻撃することで人を引きずり下ろそうとする。
こうした人の根幹には「人と自分が同じである」「同じでないといけない」という平等願望があるのだと思う。犠牲と成果はバランスするという世界観から抜け出られていない。世の中というものが不平等で、不条理だということが受け入れられない。
嫉妬という厄介な感情の発生原因が、見事に表現されていると思います。
やっぱり根幹にある平等主義という考え方からしてロクなもんじゃありません。いつまでもそんな幻想に支配されているから、おかしな感情に突き動かされるんだと思います。

他のどんな感情よりも優先してコントロールすべきもの、それが嫉妬です。

「何も諦めたくない」という姿勢で生きている人たちは、どこか悲愴である。
仕事も諦めない、家庭も諦めない、自分らしさも諦めない。なぜなら幸せになりたいから。でも、こうしたスタンスがかえって幸せを遠ざける原因に見えてしまう。むしろ、何か一つだけ諦めないことをしっかりと決めて、残りのことはどっちでもいいやと割り切ったほうが、幸福感が実現できるような気がする。
同意します。
仕事も家庭もどっちも諦めないというのは、それができたとしても全然幸福そうには見えないですね確かに。背負うものが多すぎて身動き取れないというか。
仕事と家庭の両立なんて、目指すのやめたらどう? - Chikirinの日記に書いてある通りだと思います。

 現代は生き方、働き方にも多様な選択肢がある時代だ。それはとてもいいことだが、すべてを選べるということではない。
そうなんですよね。
で、選ばなかったものについてはきっぱりと諦めるか、やっぱり未練があるから優先順位を変更して選びなおしてみるのか、はっきりしたほうがいいでしょうね。いつまでも未練タラタラなのが一番良くない。

いくら好きなことでも、ノルマが課せられると楽しくなくなる。
(中略)
ご褒美がもらえなくても面白いからやっていたことが、義務として強制された瞬間につまらなくなってしまう。
分かります。
内容の如何に関わらず、義務としてやる会社の仕事のつまらなさときたら…。
アスリートの場合も同じなんですね。

「それをやったら何の得になるんですか」
最近の若い人はよくこんな問いかけをしてくる。
(中略)
「得にならなくても楽しいからやりたいな」という感覚をたくさん味わうことが、自分の軸をつくっていくことにつながる。
これも分かります。
なぜそれをやるのか? に対する答えは「楽しいから」で十分なんですよね。他にも何か理由が必要だとしたら、それ本当は自分にとって楽いことじゃないのかもと疑ってみたほうがいいでしょう。

この本に書いてあった池田清彦さんの言葉を思い出しました。
「私はカミキリムシ集めという趣味をもっているが、最もよくされる質問は『何のために集めているんですか』である。答えは楽しいから集めているに決まっているが、虫集めの趣味のない人にとって、この答えはそもそも理解ができないのである。」

(つづく)

2014年9月1日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その1



ツイッターで半端ない数のフォロワー(約22万人)がいる為末大さんの本です。

成功したアスリートたちから発せられるメッセージに「努力すれば夢は叶う」系のものが多い中で、本書はそれと正反対とも言えるメッセージを理路整然と発しています。現役アスリート人生を全うした経験に基づく彼のメッセージには大変説得力があると感じました。

 世の中には、自分の努力次第で手の届く範囲がある。その一方で、どんなに努力しても及ばない、手の届かない範囲がある。努力することで進める方向というのは、自分の能力に見合った方向なのだ。
その通りですね。
手の届く範囲、つまりは自分自身の各種能力の限界を人生の早い段階で見極めることは、その後の人生を左右する重要な作業だと思います。アマゾンのレビューの中に本書を中学校の課題図書に推す声がありますが、素直に同意できます。

 人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞りこまれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。
人間は物心ついたときにはすでに剪定がある程度終わっていて、自分の意思で自分が何に特化するかを選ぶことができない。いざ人生を選ぼうというときには、ある程度枠組みが決まっている。本当は生まれたときから無限の可能性なんてないわけだが、年を重ねると可能性が狭まっていくことをいやでも実感する。最初は四方に散らかっている可能性が絞られていくことで、人は何をすべきか知ることができるのだ。
人生の可能性が狭まって色々なことを諦めるということの、負の側面ばかり気にするのではなく、もっと前向きに捉えたら良いと私も思います。そう捉えることができなければ、人間としてのあらゆる能力が着実に衰えていく人生の後半になると特に、生きるのが辛くなるでしょう。

 かくいう僕も、競技人生の前半においては、意味のある人生にしたい、意味のあることを成し遂げたいという思いが強い動機になっていた。でも、メダルを取ったころからふと冷めだした。僕の母が毎日近くの山に登ることと、僕が世界で三番になることの本質的な違いがわからなくなったのだ。
意味を見出そうと一生懸命考えていくと最後には意味なんてなんにもないんじゃないかと思うようになった。人生は舞台の上で、僕は幻を見ている。人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。
そうですね。
たぶん人生に意味なんてないんだろうなと、私も今のところそう思って生きています。
それにしても、現役時代に走りながらこんなことを考えるアスリートって、なかなかいませんよね。表現しないだけで内心ではそれぞれの思いがあるのかもしれませんが、まるで哲学者のような思いをこうして表現できる元アスリートは希少な存在だと思います。

 アメリカでは引退が非常に軽い。ヨーロッパもアメリカと似たような状況だ。
(中略)
アメリカでもヨーロッパでも、極端に言えば「引っ越しをしたから」くらいの理由で軽やかに引退してしまう。
(中略)
日本とは、引退に対する考え方がまったく違うのだ。
(中略)
日本人は全力を尽くして全うするという考え方が強い。しかも、やめ方は万人に納得してもらえるような美しさがなければならないと思い込んでいる。
これはどう見ても欧米流のほうが良いでしょう。
アスリートだけじゃなく普通の会社員が早期リタイアする場合も、軽やかに引退したらいいと思います。会社辞めるのにあれこれ理由なんて要りませんし、美しさなんてもっと不要です。
こうでなければとあれこれ理由を探したりするのは、これまた一種の縛りプレイだと思います。

人生の目的は絞りにくい。仕事さえうまくいけばいいと思っていたら、隣に幸せそうな家族を持っている人がいるとそれが羨ましくなる。ゆったりとした幸せを生きるのが幸せと思っていても、夢に燃えている人を見るとこんなことではいけないと焦る。幸福の基準を自分の内に持たない人は、幸福感も低くなりがちだ。
分かります。
幸福の基準を外ではなく内に持つこと。これ重要ですね。

そして人生は選択の連続であり、選ばなかった方の人生を生きることはできません。だから人は迷うのです。
そういうときは、以前読んだこの本に書いてあったことを思い出すようにしています。
「人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。(中略)
したがって、どちらが正しいでしょうか、という質問に対しては、どちらでも正しいと思える人間になると良い、というのが多少は前向きな回答になる。」

こういう考え方に出会ってから、今まで以上に迷いがなくなり、過去の選択を後悔することも減った気がします。

(つづく)