『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その1の続きです。
近藤 ぼくが本を書いてきたのは「みんなに知らせたい」というより、誰かが、がんの治療について正しいことを知りたいと思ったときに、情報が欠けてると困るだろうから、選択肢のひとつとして知るチャンスがあるようにしたいと思ったんです。本書でもそのような意図を十分に感じることができ、多くの日本人に欠けているであろう情報のピースが詰まっています。
近藤 いままではたいていの日本人に「命の長さが絶対」という思い込みがあったし、医者の方も「家族に一生懸命やってるところを最期だけでも見せなきゃ」というのがあったんですよね。夜中に容体がおかしくなると「家族は死に目に立ち会うべきだ」という通念があるから、医者が「お~い家族はまだか」と言いながら、死んでるのに形だけでも心臓マッサージを続けるとか。このあたり、医療現場の本音と建前のギャップが伝わってきてとても興味深いです。医師という立場上は書きにくいはずの本音の部分がズバズバと書かれています。
中村 そうそう。「死に目に立ち合わせたい人がひとり到着してない。なんとかなりませんか」とか。患者さんもよく「みんなに囲まれて死にたい」と口にしますし。だから、死んでいく人間を無用に苦しめて随分痛めつけましたよ。家族には、とても感謝されましたけれど。
中村 家族としてはつらくても、本人が死ぬべきときにきちんと死なせてあげるのが、本当の愛情でしょう。本人と話ができるならともかく、虫の息の状態を引き延ばすなんて、視点を変えれば「鬼のような家族」でもあるわけです。まさにその通りで、私も両親の臨終の際には鬼のような家族にならないように気を付けたいと思います。
中村 ほとんどの日本人が医療については思考停止状態で、「病気のことはなにもわからない」と医者に命をあずけてるから、聞きたいことも聞けないですしね。医者自身が思っている医者の存在価値はまず第一に病気を治すことですから、医者に判断を丸投げしてしまえば、かなり絶望的な状況でもQoLは二の次で治療を薦められるのではないかという不安がありますね。
介護するときも、病人が苦しもうがなにしようが「生かすことはいいことだ」って生活の質まで考えてない。
著者たちのように、治療で期待できるメリットと失われるQoLを冷静に比較衡量して、時には「放置しましょう」という判断ができる医者に出会いたいものです。そういう医者が増えるためには、患者やその家族が「医者が匙を投げること」に対してもっと理解を示さないとダメだろうなと思います。
中村 いまの健康保険制度は、なだらかな改革では追いつきませんからね。もう若い世代が支えきれないから一気につぶれるでしょう。そしたら今度は、いままでと同じようにはいかなくなる。年寄りがちょっと具合が悪いと病院に行く、弱ったら病院に行くっていうのが難しくなってきますよ。本来、医療のコストはそんなに安いものじゃないのに、国民皆保険制度、しかも高齢者ほど優遇される仕組みのせいで異常に安く見えてしまってますからね。そんな美味しい健康保険制度なら、本来もっと保険料を高くしないと大赤字になって即座につぶれるはずですが、そこは日本国伝家の宝刀「国庫負担」によって無理やり帳尻を合わせているわけです。
近藤 ぼくはもう、特にやりたいこともないから、なんでもいいですね。前にも言ったように、早くお迎えが来ないかなあと思ってる方ですから。長く生きることに価値はないです。寿命は70歳ぐらいでいいですよ。近藤先生は1948年生まれなので現在65~66歳。私もそれぐらいまで生きて、こういうセリフが言えるようになるのが一つの目標です。でも70歳になったらなったで、もうあと5年、生きられたらいいなとか言ってるかもしれませんけどね。
「長く生きることに価値はない」という言葉には「QoLが伴っていなければ」という条件付きで同意します。
そして2人は、異なった道を歩んできたものの、同じ結論に達しています。今まで常識だと思い込んでいたことと余りに正反対なので、にわかには信じがたいと思います。私もこの結論を100%鵜呑みにするつもりはありません。
がんで自然に死ぬのは苦しくなくて、むしろラク。がん死が痛い、苦しいと思われているのは、実は治療を受けたためである、という結論です。そして、検診等でがんを無理やり見つけださなければ、逆に長生きできるとも。
この結論がすべてのケースに当てはまるのではなく、(今のところはどの程度の確率なのかわからないけど)そうなることもあるのだな、という認識に留めておいて、もし自分や家族に何かあったとき治療をするのか否かなどの重要な判断をする際に、自分の頭で考えるための材料にできればいいと思います。