2011年12月17日

『Bライフ―10万円で家を建てて生活する』 高村 友也 (著)



Bライフ研究所が書籍化されたものらしいのですが、このサイトはあまり読んでいなかった私にとっては、非常に新鮮な内容でした。

著者の毎月の生活費は2万円程度。Bライフ研究所 ≫ お財布に内訳が書かれています。
年に25万円も稼げば、最低限生きていける。
生活コストを下げるといっても、ホームレスにでもならない限り日本ではせいぜい年100万円程度が限界だろうというのは、根拠のない思い込みだったことを思い知らされます。
豊かな国・時代であえて低い生活水準を保つことで、周囲との間に局所的な貨幣価値の格差を生み出すのが、Bライフの旨みとも言える。賃貸暮らしの人が「一日働いてたった8000円か……」と嘆いている一方、Bライフでは「一日8000円ももらっちゃっていいの?」ということになる。
素晴らしい発想力ですね。
実際に彼の生活を真似するかどうかは別として、いざとなればここまで生活コストを落とす余地があることを知るだけで、心に余裕が生まれる人も多いと思います。

たくさん金を稼いでなるべく栄養のあるものを食べれば何かいいことがあるという盲信を捨てさえすれば、あとは個人の自由、食べるもよし、控えるもよし。
(中略)
月10000円の食費があれば生命史上稀に見る高水準の食事が摂れるし、安物のカセットコンロ一つあれば死なないどころか大抵のものは作れる。
食費は普通の住居に住んでいても変わらないところなので、なんでそんなに安くできるのかさっぱりわからないという人には一読の価値ありだと思います。

畑は、何の知識もない筆者にとっては、コーラと同じ嗜好品、楽しみのための贅沢品である。楽しみのための贅沢品が肥大化して、義務としてのしかかってきて、愛しいミニマムライフが壊されるようなことになっては、元も子もない。
同感です。
それに、高度に分業が進んだ現代では、自給自足的な生活に近付けば近付くほど生産性が下がりますからね。ああいう生活は趣味の領域だと割り切るのが良さそうです。

寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。この「自由な睡眠」が可能な時点で、上質な睡眠はほとんど保証されているようなものだ。(中略)
規則正しい生活が肉体的健康や精神的健康に良いというのはでたらめで、せいぜいいえるのは、規則正しい社会生活には、規則正しい家庭生活が必要である、この程度だろう。むしろ、目的がなんにせよ、朝目覚まし時計の不快音で起こされることほどその日一日の体調と気分を台無しにすることはない。(中略)
短眠がいいとかたっぷり寝たほうがいいとか、朝型がどうとか夜型がどうとか、そうしたご高説を全て吹き飛ばすだけの破壊力を、自由な睡眠は持っている。いつどれだけ寝るべきかは、体が一番よく知っているわけで、それに従えばいいだけである。
まったく同感です。
同じことが食事にも言えますね。
食欲の有無に関係なく、決まった時間に1日3食ずつ、規則正しく食べる必要がどこにあるんだろうかと、常々疑問に思っています。

超低コストのBライフは早期リタイアとの相性が抜群に良い、というのも面白い点です。
たとえば月20000円のBライフを30歳から65歳まで続けるとして、世間ではワーキングプアと呼ばれるであろう年収96万円の仕事をしているだけで、なんと39歳でリタイア可能になるようです。(p.163の表a)

屋根と壁さえあれば暖かく寝られるのに、日本では現代技術の粋を集めた超高級家屋しか売っておらず、それらを買うための借金によって最悪の場合おちおち寝ていられなくなる。この本末転倒とでも言うべき事態が出発点だった。
不必要に高性能で高価なものしかなく、消費者に選択の自由がないというのは、家だけでなく日本社会に共通の問題ですね。
ちきりんさんのこの記事に書いてあることを思い出しました。
“格安生活圏”背景解説 - Chikirinの日記
この国ではすべてが不必要にオーバースペックになっているために、無用に最低生活コストが高くなっている。それが多くの低収入者層を苦しめているし、社会福祉費の増大にもつながっている、と。

先日来どこかのブログで話題になっていた「日本は高機能で高価格の家電ばかり」というのと同じで、オーバースペックというのはこの国の大きな特徴です。


日本は低所得者に優しい税金・社会保障制度なので、ありがたく利用させていただく。
その通りです。
逆に言えば、高所得者が虐げられる国でもあります。しかもそれが当然だと思っている国民が多すぎるように思います。(参考記事:「小さな政府」を語ろう : 当たり前の話 金持ちこそが我々を豊かにする

では、その自由であなたは何を生み出したのか、芸術か、発明か、科学技術か、と問われるかもしれないが、「……のための自由」なんて語義矛盾も甚だしい。何も生み出す必要などない。ただ生きて、意識があって、自由に考えることができればそれでいい。自由は何かのための道具ではなく、おそらく誰もが知っている単純な欲求である。誰が決めたか知らないが理不尽にハードルの高い、普通の人として存在するための思考様式の最低条件から解放されて、足枷無く物事を考えたい、精神的に身軽でいたいという気持ちである。
そうそう、これです。この気持ちです。何かやりたいことがあるわけでもないのに自由な時間が欲しくなるのは。
この一節の文章に出会えただけでも本書を読んだ価値がありました。

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