2014年12月31日

2014年末の資産残高推移

一年前の記事。
昨年のはこちら。 2012年末までの資産残高推移 年末時点の資産残高を集計してみたところ、この1年で+31.5%という結果が出ました。 この数字は残高集計を始めた2005年から(現役時代2年半を含む)9年間で最大の伸び率です。世界的に株高の年だったこともありますが、円安によって大...
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今年の資産残高は+15.4%という結果になりました。
年間支出の方は5%ほど減少。消費税増税や円安インフレで体感的には支出増の一年だったのですが、やや意外な結果となりました。

リタイアした年である2007年からのデータを並べてみましょう。
2007年: +6.8%
2008年: -37.4%
2009年: +17.3%
2010年: -4.7% 年齢+ACR=77
2011年: -13.7% 年齢+ACR=76
2012年: +19.2% 年齢+ACR=89
2013年: +31.5% 年齢+ACR=106
2014年: +15.4%  年齢+ACR=120

これで3年連続で名目資産が増えたことになります。リタイアすれば資産は減るのが当たり前だと思っていますので、これは一応嬉しい誤算と言えるでしょう。2008年の暴落にも狼狽することなく市場に留まり続けた冷静さ(鈍感力?)が、少しは報われたのかなと思います。

グラフにするとこんな感じ。青線の方です。
assetgraph-2014.png

赤線はUSD換算した資産残高推移です。こうして並べてみると、JPYベースよりも変化が緩やかな折れ線になっていることがわかります。2008年の暴落もドルベースだと-22.9%で、円ベースより随分マイルドな印象に変わります。

要するに、JPYというモノサシの長さがここ数年で大きく伸び縮みしているからですね。柔らかいゴムでできたクニャクニャのモノサシをイメージしてみてください。モノの長さ(購買力)がちゃんと測れる気がしないでしょう?

ドルベースで見ると、今年の資産残高は僅か1.6%の増加に過ぎません。両者の差13.8%は、昨年末と現在の為替レートの変動率とほぼ一致します。つまり、円ベースで大きく資産が増えたように見えるものの、その大部分はアベノミクスの円安誘導による貨幣錯覚効果でしかなく、購買力はほとんど増えていないことがわかります。

最近、株を持っている人だけが「アベノミクスの恩恵」を受けている、という表現を見かけることが多くなりました。でも上記のように円以外のモノサシで眺めてみると、実際は株を持っている人でさえも実質的な「恩恵」はほとんど無いのかもしれません。日本円しか持っていない多くの日本人がインフレ政策や増税でじわじわ貧しくなっていく中、インフレ抵抗力の高い資産を持っている人たちは辛うじて現状維持できているだけのことではないかと思います。

2014年12月18日

リタイアに理由は必要か

オールドマンさんのブログにこんな記事がありました。

リタイアする理由をもう一度考える - 毎日が日曜(^^)   セミリタイアメント
いろいろ、理由つけたが、リタイアしたいのは、「仕事がいやなだけだ」、それだけで十分理由になる。
確かに、それで十分ですよね。

・理由などないのである、仕事がいや、会社がいや、上司がいや、俺をバカにしている会社全体にもううんざりなのだ。
分かります。
私も最近、仕事を辞めるのにそもそも理由が必要なのかな? と思うことがあります。
「人(特に男)は定年まで働くのがデフォルトで、早期リタイアは例外的に選択するもの」という固定観念があるから、なんだかんだと仕事を辞める理由を探し回る必要がでてくるのではないですかね。

さらには、今やっていることを続けるのに理由は要らないが辞めるには理由が要る、という思い込みは「現状維持バイアス」と呼ばれる奇妙な思考の癖であり、たとえば資産運用においても、この癖を治せない人が不合理な意思決定をやらかしてしまうケースがよくあります。

そもそも、誰が決めたか知らない「定年」とやらに自分のたった一度の人生が左右されるのは、おかしな話だと思いませんか。

ここは一つ、逆に考えてみてはどうかと。
「人は働かないのがデフォルトで、仕事は必要があるから例外的に選択するもの」
この前提からスタートして、仕事をしない理由ではなく、仕事をする理由を探してみるのです。
たいていの場合は、「生活費を稼ぐため」という最大の理由が見つかるでしょう。人によってはやりがいとか、その他諸々の理由が見つかることもあるでしょう。

働く理由を日頃から常に自問自答し続け、ついにその理由が見つからない時が来たとき、粛々と退職すればいいのです。もっともらしい「退職理由」を探してきて上司を納得させる必要などないし、そんな義務もありません。

理由が無くなれば定年前でも退職すればいいし、逆に理由があり続けるなら定年後も仕事を続ければいい。定年なんていう意味不明な基準よりも遥かに合理的な判断基準だと思います。

2014年12月14日

仕事に不満があるならば

うえしんさんのブログにこんな記事がありました。

仕事が不満な人はぜひ――『仕事はどれも同じ』 キッツ+トゥッシュ | 考えるための書評集
けっきょく人間は果てしない不満を抱くものであり、欲望は限りなく、情熱や好奇心はいつか慣れるものであり、ルーティンになる。不満は仕事や職場環境にあると思っていたけど、自分の内側、自分自身の考え方にあるものではないのか。わたしは自分の不満という心理状況に向き合っていなかったな、手放せずにいるんだなと思った。
人間の欲望にも不満にも際限がないというのはその通りだと思います。
ただ、不満の原因が自分の内側にあるのかどうかは、なんとも言えません。考え方を変えれば不満が解消することもあれば、そうでないこともありそうです。

この本を読んで仕事に不満をもち、転職をくりかえしきたわたしはどうやら仕事や職場に不満ばかり抱いてきたことがよくわかった。不満を抱くという思考のクセをまったく問題視してこなかったことにようやく気づいた。問題点は不満という現実の否認やほかのありようを求める想像だった。「あるがまま」を受け入れるなんて思想は山のように読んだのだが、こと仕事や労働にたいしては不満や不平を抱かずに、「あるがまま」を受け入れるなんてことがまるでできていなかった。
不満を抱くという思考の癖。これを問題視し、不満を抱かないような思考法を身につける。そしてすべてをあるがままに受け入れる。
それはそれで一つのソリューションかもしれませんが、私はそういう手法に一抹の不気味さを感じます。もし上記のことが卒なくできるようになれば、一人の立派な「社畜」の出来上がりじゃないかと。

私の約16年間に及ぶ会社員時代にも、不満をたくさん抱いていました。もちろん、解消できるものなら解消したいと思ったことは何度もありました。しかし組織や社会というものは多数の人間の集合体であり、自分の意のままにコントロールすることはできません。ならば、組織の一員である限り不満の解消などあり得ないことだとわかります。私は転職の経験はありませんが、仕事の不満を根本から解消するには転職ではなく退職しかないと悟りました。

退職するまでの間をどのように過ごすのかといえば、無理に不満を封じ込めて現状を「受け入れる」のではなく、時おり不満を漏らしつつも組織とはそういうものだと「諦める」ほうがいいと思います。仕事に妙なやりがいなど見出さずに淡々とお金を稼ぎ、支出を抑えて資産を積み上げていくことが、結局のところ最も早く不満を解消する方法になるのではないでしょうか。

仕事の不満への対処法は、資産運用の「リスク」との付き合い方とよく似ている気がします。直感的には逃げたくなるけれども、どうやっても逃げられないものだと悟って上手に付き合っていくほうが、結果的にうまくいく可能性が高くなると思います。

2014年12月10日

[悲報] Topcashbackの14ドルキャッシュバックは終了か

寝太郎さんのブログで話題になっていた、Topcashback+Booking.comで14ドルキャッシュバックの件。

バックパッカーに朗報。宿を予約するたびに14ドルのキャッシュバックを受ける方法
宿泊予約の14ドルキャッシュバックはそんなにスゴくないのか
TopCashbackのBooking.comはもう使えなくなった
Top CashbackのBooking.com復活した

最初読んだときは確かに凄いと思いましたよ。でも即座に反応しなかったのは、あまりに美味しすぎるので何か裏があるか、一時的な大盤振る舞いで終わる可能性が見えたからです。

最近チェックしてみたら、こうなってました。
Booking.com CashBack: Free Maximum CashBack 4%
今は4%キャッシュバック。1万円の宿に泊まってもたったの400円。
実質終了ですね。

2014年12月8日

特別な収入なんてどこにも無い

ITTINさんのブログにこんな記事がありました。

独身一人暮らし女だからこれからどうやって生き抜いていくか考えるブログ 「ボーナスの使い道」に違和感
「現在の総資産」から、何をしようか、いつ行おうか考える。

そのように考えると、消費するとしてもわざわざボーナスの支給月に合わせて消費する必要がありません。
というわけで、毎回ボーナスは「〇〇に使った」という実感がないまま資産に吸収されて終わります。
なるほど。
私も「ボーナスの使い道」については現役時代からモヤモヤしたものを感じていたものの、ボーナスどころか月給も無い生活になって忘れかけていたところ、この説明がストンと腑に落ちました。

「ボーナスをもらったら、”ボーナス額分”の使い道を考える」という人は、
「ボーナスは普段の給与とは完全に区別される特別なもの」として捉えていると言うことなのでしょうね。
そのようですね。
普段からあればあるだけ使って貯金もしない浪費家ならいざ知らず、普通に倹約するタイプの人でもついお金に色を付けて考えてしまう人が少なくない印象です。
メンタルアカウンティング(心の会計)と呼ばれる脳の癖が、具体的な行動として表れる典型例の一つだと思います。

似たような記事がこちらにも。
儲かった時は貯金して、貧乏なときにパッと使う | SOUTAi 40
収入が多い時は貯金して、将来の「サラリーマンをリタイアして収入が減った自分」「年をとって働けない自分」に恵んであげる。

これができない人がけっこう多い。儲かっている時にパッと使い、貧乏な時にあわてて節約する。だからお金が貯まらない。
収入が増えるとつい支出も増やしてしまう。これをやってしまうとリタイアは遠のくばかりです。
収入が多かろうが少なかろうが、そんなのは支出の変動とは無関係です。
たとえば現在の私はほぼ無収入ですが、それに合わせて支出を絞ったりするのは間違いで、支出を調整するファクターは、(収入加算後の)資産残高と人生の残り時間だけです。このようにシンプルに考えることができれば、リタイアするには何らかの「不労所得」が必要だという思い込みからも解放されるでしょう。

現役時代であれば、臨時収入があったら支出を増やせると考えるのではなく、その分だけリタイアが早くなると考えればいいのです。

収入も支出も変に色を付けて特別なものとそうでないものに細分化する考え方は有害で、できるだけシンプルに、長いタイムスケールでトータルの収支を考えることが大事だと思います。

2014年11月29日

バターはどこへ消えた?

こんなニュースを見かけました。

農水省 クリスマス前に家庭用バター供給要請 NHKニュース
スーパーの店頭などで家庭用のバターが品薄になっていることから、農林水産省は、28日、乳業メーカーに対して、クリスマスの需要期に向けバターを最大限供給するよう文書で要請しました。
(中略)
この中では、「バターが不足している現状と社会的責任の大きさを踏まえるべき」などとして、需要期に向け家庭用バターの最大限の供給を求める内容になっています。また西川農林水産大臣は28日の閣議のあとの会見で「きょうの要請の結果、メーカー側が家庭用バターの生産をしっかりやってくれるかどうかにかかっている」と述べ、メーカー側に対応を求める考えを示しました。

おいおい何を言っているんだ農林水産省…。
供給が足りないのは、あんたらがバターの輸入を規制してるからでしょうが。(怒)
自分らで勝手に供給の蛇口を閉めておきながら、それを棚に上げて「メーカー側が家庭用バターの生産をしっかりやってくれるかどうかにかかっている」などと、どの口が言うのか。

農水省がどんな余計なことをやっているかは、この記事に書いてある通りです。
バター値上げの背景に、農水省の「白モノ利権」 ? オルタナ: 「志」のソーシャル・ビジネス・マガジン「オルタナ」
なぜバターだけが、頻繁にお店の棚から消えるのか。
実は奇妙でも何でもない。その答えは、天下り団体「農畜産業振興機構」によるバター輸入独占業務にある。
輸入を独占してぼったくるだけの簡単なお仕事…。消費者の財布からこっそりお金を抜き取る犯罪的規制の一つだと思います。
知らず知らずのうちに消費者を貧しくしているのは、自由貿易を妨げる政府の役人と利権団体であることは間違いありません。

マスメディアが伝えるように、猛暑のせいだから仕方がないとか勘違いしている人には、この記事にきっちり目を通すことをお勧めします。

バターに限らず、消費者が日常的に買っているごく普通の食品のほとんどに、このような規制コストが上乗せされる構造になっています。米も小麦も、日本の小売価格は国際相場より遥かに高い。ガメさんのブログで、日本は「生きるのに必要な食べ物がすげー高い」と書かれていた意味がよくわかります。
関連記事:
最近ブログ更新をサボリ気味なのと対照的に、ほぼ毎日何かしらリンクを貼っているツイッターで、やや多めの反応があったのがこちら。 賛成 "お米も、価格は 2160円 (消費税 160円、米農家への利益転嫁額 1200円)って書いてあるとか。こうしたら皆、TPP に反対か賛成か判断しや...
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消費税には猛反対する人でも、このようなステルス税を日常的に払っていることを認識できている人は少ないでしょう。

バター不足のニュースを伝えるメディアにも大いに問題があります。
最初にリンクしたNHKの動画なんか、農水省の大本営発表を無批判に垂れ流しているだけで、真の原因は何なのか究明し知らしめようという姿勢がまったくありません。

このニュースを見て「緊急輸入した農水省エライ!」とか勘違いする人がいそうで怖いですね。メディアが農水省の自作自演の片棒担いじゃダメでしょう。

2014年11月28日

Gmailの[プロモーション]タブが便利

だいぶ前から実装されている機能なので今更な感想ですが。

受信トレイのタブとカテゴリ ラベル - Gmail ヘルプ:
メッセージは、[プロモーション]、[ソーシャル]、[アップデート] といったカテゴリに分類されます。どのカテゴリを受信トレイのタブやラベルに使用するかは、自由に選ぶことができます。このようなカテゴリを使えば、重要なメッセージに集中でき、同じ種類のメッセージをまとめて読むことができます。
これすごく便利ですね。
[プロモーション]と[メイン]だけ残して他のタブは無効にして使ってますが、それだけで効果絶大。
迷惑メールではないんだけど読む価値のない広告メールなどが自動的に[プロモーション]タブに入るので、受信トレイがスッキリします。いちいち選択削除していた手間が省けます。

「同じ種類のメッセージをまとめて読むことができます。」とかヘルプに書いてますけど、[プロモーション]タブに入ったメールなんか読むわけないですね。読む価値の無い広告メール排除のための機能であることは明らかです。ネット広告ビジネスの総大将であるグーグルは建前上広告メールが無価値であるとは書けないのかなと、そんな大人の事情が透けて見えます。

2014年11月18日

やはり増税支持する理由は無い

増税?延期?衆議院解散? そんなの関係ねぇ~そんなの関係ねぇ~ cubの日記 コツコツ投資で2千万貯めましたより:
消費税増税すべきか先送りすべきかは、私のリンク先のブロガーさんでも意見が分かれていましたが・・・
ちなみに私は、先送りさえすれば増税しても良いなどとは考えておりませんので、念のため。現状でも社会保険料や、規制という名の隠れ蓑をかぶったステルス税も含めた国民負担の高さは異常ですよ。負担を軽くする方向以外の政策はあり得ないと思います。

でも、無職さんにしても遊民さんにしても、偉いなぁと尊敬してしまいます
まだ、国家が何とかしてくれると希望を持っていることに・・・
それは誤解ですね。
大きな政府というモンスターが生まれたのは、何でもかんでも「国家が何とかしてくれる」社会主義的な政策を支持してきた多数派のせいだと思っています。私はそういう依存的メンタリティを忌み嫌う立ち位置を堅持してきたつもりなんですけどね。
政府は極限まで小さくして、国民の政府依存を断ち切るべきです。

私は正直、もう手遅れじゃないの
税金上げようが先送りしよが無理ゲーじゃないの?
って、思いっきり醒めていますね
10%上げようが、先送りしようが、結局問題が先に来るか後に来るかの違いだけじゃないかと
ええ、その通りです。
だからこそ、増税を支持する理由はどこにも無いわけでして。
それなのに、何となく増税すれば少しは解決に近付くのではないかと淡い期待を抱いている人が少なくないようなので、今の自分の考えを整理して記録する意味も込めて記事にしてみました。

それと、先に来るか後に来るかの違い「だけ」とおっしゃいますが、その違いは大きいでしょう。財政破綻を先延ばしにすればするほど、より激しいハードランディングになりますし、社会保障制度の世代間格差によって現役世代から搾取している世代の逃げ切りを許すことにもなります。

無職さんの記事も含めて、自分の考えとは異なる色々な意見がネット上で見られるのは、自分の考えを浮き彫りにする意味でも、とても良いことだと思っています。私の記事はあくまでも個人的な備忘録であり、特定の個人の考えを批判する目的ではありません。

2014年11月5日

増税支持の前に考えるべきこと

以前から不思議に思っていることの一つが、自らドケチを名乗るmushoku2006さんが消費税増税を支持していること。ドケチにあるまじき行為。(笑)
資産課税のような後出しジャンケンが許されないことについては意見が一致するんですけどね。

同じく36歳でリタイヤ殿からこのようなコメントいただきました。> 無職さんも自分に有利な(モノを買わないから消費税や親と不仲だからの相続税)ことは肯定し> 不利は否定はやめたほうがいい。いやあ・・・・・・。そう受け止められているとすれば、めっちゃ心外です。私が
blog.livedoor.jp
私が消費税UPに賛成しているのは、
日本の財政がとんでもない状況になっていて、
これ以上借金を減らすのは難しいとしても、
せめて増やさないところまではもっていかないと、
それこそ後の世代の方々に申し訳ない。
しかし、
所得税をUPさせれば現役世代にとって厳しすぎますし、ますます世代間格差が拡がる、
法人税をUPさせれば企業が国外に逃げるかもしれない、
残る大きな税源は消費税くらいしかないでしょ?という考えからです。
他に税源があれば教えて欲しいです。
ここに書いてあることって、政治家や財務省の役人が使う消費税アップの口実そのまんまのように見えてしまいます。

日本国政府の財政が借金まみれになっているのは税収が足りないことが原因で、税収を増やせば解決に向かうというのは本当に本当なのですか?
私は全然違うと思います。根本的に重要な何かが欠落してます。

増税やむなし論を展開する人は、異常なまでに膨れ上がった歳出を適正レベルまで縮小(つまり節約)すべきという、個人としては普段から当たり前のようにやっていることを、なぜ国家や自治体の場合にも当てはまるとは考えないのでしょうか?

お金が足りないならまず支出を減らすべきです。これ節約系リタイアの基本だと思ってるんですけどね。収入を増やす話が出てくるのはそれができた後のことで。

あればあるだけ使い、それでも足りないと言ってさらに年収と同じだけ借りてきて浪費するタイプの人がいるとしましょう。彼がどんなに年収を増やしても状況は何も変わらないどころか、かえって浪費がひどくなるでしょう。国や自治体でもそれは全く同じです。いや、彼らが扱っているお金は自分のものじゃない上に、借金する際の信用力も個人の比ではないため、その浪費っぷりも個人以上にひどくなることは、異常な規模にまで肥大化した日本国政府の歳出額を見れば一目瞭然です。

大穴があいたバケツに注ぐ水の量をいくら増やしても、バケツに水が貯まることは永遠にありません。バケツに大穴があいているならば、まずそれを修理するのが先決です。

なぜかその点を完全スルーして、どこから水を持ってくるべきかという議論になるとやたら熱心な日本国民の姿はとても奇妙に見えます。みんな自分だけは負担以上の受益がある(税金を払えば元が取れる)、その資格があると信じているのでしょうか。残念ながらそれは幻想でしかなく、誰かが元を取れるのであれば他の誰かが払い損になっているだけのことです。

誰から税金を多く取るべきかという議論は結局、国民同士で利益誘導合戦という足の引っ張り合いをしているだけであり、このまま歳出拡大を続けたい官僚の思う壺じゃないですかね。

そういう意味では、ちきりんさんのこの記事に書いてあることも結局、誰から取って誰に与えるべきかという切り口になってしまっているのが残念だなと思いました。
先日の NHK の番組に関するエントリ の補足として、私がこの手の「かわいそうなお年寄りを殊更に強調する番..
d.hatena.ne.jp

2014年10月18日

老後不安をどう考えるか

前回の記事、リタイアに型というものがあるならばに次のようなコメントがありました:
人間には寿命があるのですが、その寿命がいつ尽きるのかは誰にも分からないのが問題なのでしょう。
自分はいつ死ぬか分からない。
しかし、資産は確実に減っていく。
寿命が尽きる前に資産が尽きてしまったら、その時点で生きていけなくなる。
「寿命がいつ尽きるのかは誰にも分からない」について。
「わからない」の程度にも、皆目見当がつかないものから平均値や確率分布はわかっているものまで色々あって、人間の寿命については後者です。50年後の人口分布がかなり正確に予測できるのはこの性質によるものでしょう。たとえば未来の株式指数の確率分布は分散が大きいので、30年後ですら正確に予測することは困難です。そういう種類のわからなさと比較すれば、「寿命がいつ尽きるのかは、大体の範囲と確率はわかっている」とも言えます。

「寿命が尽きる前に資産が尽きてしまったら、その時点で生きていけなくなる」について。
そうとは限りません。現在資産がない老人も普通に(年金で)生きています。将来は資産がなければ生きていけない世の中になっているというのは一つの悲観的な未来予想図だと思いますが、当たる保証はありません。

もう一つ、「資産が尽きる」という事象は、ある日気付いたら突然訪れるというものではありません。そうなる以前に、あとX年で資産が尽きそうだという状態を必ず経由します。そのX年と自分の余命を比較して、何らかの手を打つ猶予があるということです。その間にBライフや外こもりなど、知恵を使って生活コストを抑え、資産が尽きるのを遅らせる余地は残っていると思います。

タイムリーなことに、老後不安について次のような記事を見かけました。
「老後不安」と資産運用|山崎元のマルチスコープ|ダイヤモンド・オンライン
特に、老後不安については、定年退職までに十分な資産がないと「老後難民」になる、などと脅かされると、心配がどんどん膨らんで来る。普通の人には過剰な想像力があるので、不安がゼロになることはほとんどない。
そうですね。
不安があるからといってそれを消す方向に向かって努力するのではなく、不安が消えない事実を受け入れ、うまく付き合っていく方が、限られた人生の時間を無駄にせずに済むと思います。

稼ぎがゼロの前提で、老後の生活を現役時代と同様の水準で確保するためには、年金をあてにしないとすると、今後の運用益を考えても少なくとも年間支出額の20年分くらいの蓄えが必要だろうが、これは通常の人の現役時代の運用額では、よほどの高利回りがないと無理だ。
60歳の時点で20年分の生活費を残すことは、早期リタイア志向の人にとってはごく控えめな目標に過ぎません。それを無理と言ってしまうということは、山崎氏の生活レベルが相当高いのでしょうね。

たとえばリタイア後から25年生きるとして(65歳でリタイアなら90歳まで)300ヵ月となるが、自分の純資産額を300で割り算してみよう。ちなみに、95歳まで考える人は360で、100歳まで考える人は420で割り算するといい(筆者は360で考えている)。

こうして求められた金額が、リタイア後に毎月取り崩していい金額だ。
早期リタイアの場合も基本的な考え方は同じです。分母が300や360ではなくもっと大きい数字になるという違いがあるだけで、想定する余命が長いからといって資産を取り崩すことを忌避する理由はありません。

生活レベルが変わることはあるとしても、「暮らせない」という心配は案外小さいのではないか。「老後」を事前に怖がりすぎるのは考えものだと思う。
同感です。
今の生活レベルが既に最低限でこれ以上下げることができないという感覚は単なる思い込みに過ぎず、使えるお金が少ないなら少ないなりに、何とかする知恵や手段はあるだろうと思います。今から老後の心配ばかりしていては、まだ老後でない今の人生を楽しく暮らせないのではないでしょうか。

関連記事:
これは「働き方」の本だから無職の私にはもう関係なさそうかな、と想像してましたが、読んでみたら共感できるところがたくさんありました。働き方も含む「生き方」を考えるための本だと思います。 人生の有限感 ジョブズ氏だけでなく起業家には、この「人生は有限だ」という感覚を強くもっている人が...
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2014年10月13日

リタイアに型というものがあるならば

さいもんさんのブログにこんな記事がありました。
資産取り崩し型のリタイアについて│ひとり配当金生活(予定)
リタイア後の資産残高推移について、年々減少していく資産取り崩し型、配当金や年金、節約などで収支が釣り合う資産均衡型、減るどころか資産運用によって増えていく専業投資家型の3タイプがあると思う。
この分類に当てはめれば、私は資産取り崩し型のリタイアということになりそうです。

当ブログで年末年始に記録している通り、実際には持っている資産の評価額は毎年変動するので、「年々減少」するとは限らず、たまに増えることもあったり、その逆に2008年のように大幅減の年もあったりしますけど、平均的には資産が減っていくのが当たり前という前提でプランを立てていることは確かです。
関連記事:
前回の記事 とよく似たことが書かれている記事がありました。 誠 Biz.ID:結果を出して定時に帰る時短仕事術:人生の前半では時間を売り、後半では時間を買う : 年を重ねてアルバイトをやったり、就職して会社に入ると、少しずつ自分が管理できるお金が増えていきます。結婚や家を買う、子...
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私が疑問に思ったのは、もし資産が減らない、または増えるタイプのリタイアの型があるとすれば、いったい何のためにその型を選択するのかという点です。

人間には寿命があります。言い換えれば、一人ひとりが持っている時間というリソースは有限で、毎年「確実に」減っていきます。資産と違って、たまに増えたりはしません。たとえば40歳の人の持ち時間は、平均寿命を80歳とすれば、1年で2.5%減少します。50歳ならマイナス3.3%、60歳ならマイナス5%。

リタイア後に資産を減らさない努力を続けたとしたら、資産は維持されるけれども人生の時間は容赦なく減り続け、やがて残り時間の少なさと比較して不相応に過大な資産を持つ状態に至るのではないかと。死ぬ間際に過大な資産が残るのはもちろんのこと、高齢になってから慌てて財布の紐を緩めて過大な消費を始めるというのもまた、色んな意味でもったいない話だと思います。

今までは定期収入があり資産は増える一方だったので、確実に資産が減っていく取り崩し型のストレスに耐性がない。
投資経験があると種銭の有るありがたさは身にしみてくるし、それが減っていくというのは恐怖なのだ。
気持ちは分かります。どういう場面でストレスや恐怖を感じやすいかは人類の脳に共通する特性ですから。資産が目減りする恐怖との付き合い方に書いた通り、私の脳にも同じような恐怖は確かに存在します。

しかし私にはストレスや恐怖に耐えているという自覚はありません。意識しているのは、頭の中にそういった感情が湧き起こったときに、それを冷めた目で時間をかけて評価して、間違っていたら淡々と却下するもう一人の自分の存在です。この本でシステム・ツーと呼ぶ脳の機能です。この人は誰の脳にも存在する有能な怠け者で、バンバン尻を叩かないと全く仕事をしません。この人が怠けている間は、もう一人のシステム・ワン(原始人)のやりたい放題です。

お金が足りるかどうかじっくり考えた結果として足りないことが判明したからではなく、ただお金が減ること自体に恐怖や不安を覚えるのであれば、それはもう原始人の直感そのものです。予想どおりに不合理と言うしかありません。そういう直感の命ずるままに動けば判断を誤ることになりかねないと思います。

参考記事:

2014年10月1日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その5



その4の続きです。

03 株の「売り時」を考える
◎自分の買値にこだわらない
(中略)
自分がその株をいくらで買ったという事実は、将来のその株のリターンに影響を与えるファクターではありません。このようなものを判断基準にするような考え方はピント外れですし、投資家を判断力のない愚か者扱いしているようにさえ感じます。
利確、損切りルールを決めるタイプの売り手法への批判ですが、全く同感です。
関連記事: 「損切り」の不合理

多くの投資家が、自分の買値と現在の株価との関係を、勝ち負けのように捉えて、これにこだわることで判断をゆがめてしまっています。
(中略)
持ち株が値下がりしたときには、それを直視して、認める勇気が大切です。
(中略)
損を直視せずに、自分で判断することを放棄して、買値を基準に非合理的な売り買いをするということは、愚かだというしかありません。
「愚かだ」などと偉そうに書きましたが、正直にいうと、私も自分の買値は「かなり」気になります。しかし、この辺をやせ我慢して自分をコントロールすることも投資の楽しみの一つだ、と考えるようにしましょう。
読者の皆さんにあっては、早く「自分の買値」を気にしない投資家になっていただきたいと思います。
私は買値を気にしない!と言ってしまえば嘘になりそうですが、今の私は特にやせ我慢などする必要もなく、自分の買値を気にすることができない状況にいます。
というのは、どんな買い物でもそうですが、買ってから1年も経つと買値がいくらだったのか覚えていないことがほとんどで、私が最後にETFを買ったのはいつだったのか、何を買ったのか、いくらで買ったのかは既に忘却の彼方だからです。(もちろん証券口座にログインしていちいち調べればわかりますが。)
記憶力の弱さが思わぬところで幸いすることもあるものです。

◎一番重要な「売り」の理由
それは、「お金が必要になったとき」です。
(中略)
「お金の授業」らしく理論的にいうと、持ち株の期待リターンがもたらす効用よりも、現金の効用の方が高くなったのだから、株を現金に換えることが合理的です。気持よく使いましょう!
ほんとこれ、重要です。売る理由はこれ一つでも十分なぐらい。なのに投資の本に書いてあることは稀のような気がします。


p.301の図9山崎式経済時計では、下げ相場と上げ相場のサイクルを8分割して、それぞれの時間帯別に適切な「お金の置き場」が書かれています。下げ相場では現金と国債、上げ相場では株式と不動産、というような。
前著にもこれと似たようなことが書いてあり、まったく同じ感想を抱いた記憶がありますが、今回もこの章は「蛇足」と言うしかありません。

景気変動がこんなに都合よくきれいなサイクルで回るものだとは思えませんし、ある程度の周期があるにしてもそれは事後的に判明するもので、今どのサイクルにいるかはわからないでしょう。
現実には、自分が今どこの時間帯にいるのかを正確に判断するのは難事です。「今はここだ!」と決めつけて、極端に資金を動かしたりしない方がいいと付け加えておきます。
という補足を読んで少しほっとしましたが、それでも景気動向を読んで株式から債券へ、債券から株式へとせわしなく売買を繰り返すなんて、もはや運用ではなくて趣味の世界だと思います。

あくまでも運用をしたいだけの個人投資家は、下手に景気動向など読もうとせずに淡々と市場平均に乗り続けるのが良いでしょう。

2014年9月23日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その4



その3の続きです。

外貨預金で運用をしようという考え方は、今すぐ止めましょう。外貨預金は、はっきりと「ダメな商品」です。
(中略)
外貨預金については、どの通貨であっても、「最悪の商品ではないかもしれないが、ダメなことが最もはっきりしている商品だ」と認識して距離を置くのが正解です。
その理由はまず第一に、類似の金融商品(外貨MMFやFX)と比べて為替手数料や金利が不利だから、ということのようです。

それともう一つ重要なのが、
外国為替取引の基本は、同じ大きさで逆方向のリスクを持った参加者同士が戦うゼロサム・ゲームであり、その本質は「投機」です。リスクを取ることが、追加的なリターンで報われるような「投資」の世界とは根本的に異なります。
この理由だと思います。
つまり、為替取引によって得られる追加リターンの平均がゼロということは、高金利通貨の外貨預金で運用しても、低金利通貨の円預金で運用しても、円換算の期待リターンは同じになるということです。平均的には高金利通貨の為替レートが下落して金利差が相殺されるからです。

もちろん、為替レートは平均値を中心として上下にばらつきますから、運良く円安に振れれば為替差益と金利差益のダブルの恩恵を受ける場合もあれば、その逆に平均よりも大きく円高に振れた場合は金利差益が吹っ飛んだ上に為替差損で大損する場合もあるでしょう。

期待リターンが円預金と同じなのに、外貨預金には円預金には無いリスクとコストがもれなく付いてきます。報われないリスクなら取る意味がありません。この考え方は、
現代ポートフォリオ理論 - Wikipedia
の効率的フロンティアの考え方に似ていると思います。

(つづく)

2014年9月21日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その3



その2の続きです。

 課税もそうですが、一般にお金は先に払うよりも後で払うほうが得です。
払う金額が同じであれば、という条件付きですがその通りで、これは前回触れた「現金主義は損」の理由の一つになります。

 生命保険について心掛けるべき原則は、一点の曇りもなく明らかです。つまり、できるだけ加入しないこと、本当に必要な保険にだけ泣く泣く加入するということです。
完全に同意します。
生命保険のような金融商品が毎月分配型投信をも遥かに上回る高コストであることは、様々な本やブログで既に語り尽くされています。必要性をシビアに検討することなく安易に保険に加入してしまう愚を避けること。これも若い人たちにとって特に価値のあるアドバイスになると思います。

◎インカム・ゲインとキャピタル・ゲインを分けて考えない
(中略)
インカム・ゲインとキャピタル・ゲインは、両方を「合わせて」、総合的に評価するのが投資の基本であり、両者を別々に計算して、損だ、得だと判断することは、明らかに不適当です。
(中略)
一般に、キャピタル・ゲインよりもインカム・ゲインの方を重視する傾向がありますが、それこそ、行動ファイナンスで言うところの「メンタル・アカウンティング」に他なりません
当ブログでも過去に何度も触れている通り、インカムゲインを過大評価するのは人間の脳に宿る奇妙な癖の一つですね。他にも多くの癖がある中で、このインカムゲイン偏重の癖は、お金の運用について特に大きな負の影響を与えるものだと思います。

この癖を上手に利用して儲ける商品の代表格が毎月分配型投信です。
誰が勧めたわけでもないのにネット証券各社で高コストな毎月分配型投信が売れ筋商品になっているという事実は、人がこの癖に気付いて意識的に投資判断を修正することの難しさを物語っています。
はっきりいって、このタイプの投資信託を買うくらいなら、普通預金にお金を入れて、これを定期的に引き出す方が、損が少なく、遥かに健全です。
その通りです。
え? リタイアして無収入な人は貯金を取り崩すのに抵抗を感じないのかって?
確かに私の直感は、ゆっくり確実に減っていく貯金を見て不安に感じろ!というメッセージを発しているような気がしないでもないです。しかしそれもまた脳の奇妙な癖なので気にすることはありません。感情よりも理性に従って淡々と、本来必要のないインカムゲインと引き換えに余分なコストやリスクを負担する愚は避けるべきでしょう。

(つづく)

2014年9月18日

ツイッターとの連携機能のテスト

ブログの外部連携機能を設定して、ブログを更新するとツイッターへ通知を自動投稿するようにしてみました。

これはテスト投稿です。

2014年9月17日

リタイア後の生活リズム

40代貯金2000万でセミリタイア : セミリタイアして規則正しい生活ができる人、できない人より:
最近はめっきり昼過ぎまで寝る生活になっています(´・ω・`)
つまり私は「セミリタイアして規則正しい生活ができない人」です。
でもリタイア・セミリタイアしても規則正しい生活をしてる人が多数なのかな?
ちなみに私の場合は、夜型(遅寝遅起き)の規則正しい生活をしています。意識的にそうしているというより、何も考えずに生活してたら自然にその形になりました。遅寝遅起きにも一定の限界があって、昼夜が完全に逆転するところまでは進行しないようです。

アーリーリタイアした低消費者のブログ: リタイア後の生活スケジュール14年夏より:
8時半起床は、無理でした~。
以下、半年足らずで、どんどん夜型に変わり、堕落していった現在のスケジュール。

現在
12時起床
(中略)
3時就寝
あー、わかります。私も早起きは苦手です。
思い起こせば私の夜型属性は小学校高学年の頃には既にもっていたようで、毎朝ぎりぎりの時刻に家を飛び出してダッシュで登校していたことを思い出します。

私の就寝時刻、起床時刻も、低消費者さんとよく似てます。前述の通り意識的に毎日時刻を揃えるわけではないので、日によって最大±2時間以内のばらつきがある感じですね。

この記事を最初に読んだときに引っかかったのは、夜型に変わったのを「堕落」と表現されていたことです。
いえいえ、ぜんぜん堕落じゃないと思いますよ。
逆に、夜型人間が無理やり朝型生活をして一体どんなメリットがあるのかなと思ってしまいます。

朝型生活=健康的みたいなイメージをもっている人が多いようですけど、寝太郎さんの本に書いてあったように、
規則正しい生活が肉体的健康や精神的健康に良いというのはでたらめで、せいぜいいえるのは、規則正しい社会生活には、規則正しい家庭生活が必要である、この程度だろう。
月曜日から金曜日まで会社と家を往復する典型的会社員生活には、朝型の規則正しい生活が必要だった。ほんと、この程度のことでしかありません。リタイアしたらもう過去のこと。現役時代の呪縛を引きずるよりも、自由に生活するほうが健康にも良いと思います。

夜型生活の意外なメリットは「朝食を食べる必要がない」ことでしょうか。1日2食生活になってから体重も遥かに安定してます。

2014年9月15日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その2



その1の続きです。

◎「現金主義」のススメ
(中略)
クレジット・カードでの支払いを避け、できるだけ現金で支払うという、それだけのことですが、手っ取り早くお金の流れを実感するためには、これが有効です。
(中略)
「カードのポイントを使わないと損だ」と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、毎日家計簿を付けて収入・支出を管理しているのでなければ、お勧めできません。収入・支出のバランス感覚を養うまでは、少々の得よりも、お金の実態を大切にすべきでしょう。
う~む、ここは意見が一致しませんね。
やっぱり当ブログでは初志に忠実に、「クレジットカードが使える場面で現金決済は損」。このスタンスを貫きたいと思います。

「毎日家計簿を付けて収入・支出を管理しているのでなければ」と、何か特別な条件のように書かれてますが、毎日欠かさずとは言わないまでも、きっちり家計簿を付けて年間収支を把握するのは家計管理の基本中の基本で、やろうと思えば誰でもできると思うんです。どうせ君たちは家計簿なんか付けないでしょという先入観と言いますか、ちょっと残念な諦めが入ってる感じですね。それと、山崎氏自身がたぶん家計簿を付けない人なのではないかと、今まで読んだ本やブログの断片的なイメージから勝手に想像してます。違っていたらゴメンナサイ。

今はスマホでも簡単に家計簿が付けられる良い時代なので、支払手段をどうするか考えるよりもまず家計簿の習慣化を教えるのが先じゃないかと思います。

 リボルビング払いとは、つまるところ、借金をすることであり、借金生活への入り口であるという認識を持ってください。小さい借金とはいえ、年率で15%前後にもなる、合理的とは程遠い金利です。
(中略)
世の中には、このように、気軽に借金へと誘う巧妙な罠があちこちに仕掛けられています。金持ちからは手数料を、貧乏人からは金利を取るのが、昨今のリテール向け金融ビジネスのビジネスモデルです。
彼氏であれ彼女であれ、リボルビング払いをするような恋人とは、今後の付き合いを考え直す方がよいでしょう。少なくとも、結婚はしない方がいい。
仰る通りです。
リボ払いのような明確な損を避けることができるかどうかは、人生のパートナー選びの際に有効な基準の一つだと思います。
クレジットカード払い自体が借金だと言う人もいますが、法的には負債でも金利がかからないのであれば問題ありません。無駄な金利や手数料を負担しているのかどうかが判断のポイントです。中にはリボ払いを選択しているのに毎月全額返済して金利を払わない上級者もたまにいるので、誤解して振ってしまうと勿体無いです。注意しましょう。

金融機関というのは、その利益構造からみても、「あなたから儲ける組織」であって「あなたを儲けさせる組織」ではありません。この点は、シビアに考えなければなりませんし、こうしたお金に関わる利害関係の意味を正しく理解することこそが、「お金の常識」の第一歩でもあるのです。
その1でも書いた「利益相反」の構造です。まずはこれに気付かないことには話になりません。
海外発だと「顧客のヨットはどこにある?」のエピソードが有名ですね。
投資家のヨットはどこにある? (ウィザードブックシリーズ)
この本の初版は何と1940年発行だそうです。顧客と金融機関の利益相反関係は何十年も昔からまったく変わっていないことがよくわかります。

FPについても銀行や証券会社との付き合い方とほぼ同じ注意が必要です。
(中略)
お金の運用に関していうと、FPが持つ知識は、一般の金融マンより劣っていることが多いというのが、残念ながら一般的な傾向です。
(中略)
彼らの著書には、堂々と誤りが書かれていることを見つけることが度々あることを付け加えておきます。
日本人は資格とか肩書きに弱いところがあるので、FPと聞くだけでお金の専門家という先入観を持ってしまっていて、彼らに相談すれば有益なアドバイスが得られると信じている人も少なくないようです。

しかし現実はそんなに甘くありません。彼らの主な収益源も金融商品の販売手数料や仲介手数料だったりするわけで、そういうFPは実質的には金融機関の代理店にすぎません。彼らが勧める金融商品がろくでもないものであることは容易に想像できます。

FPの著書に誤りがあるというのも思い当たるフシがあります。
昨日の記事 の続きです。 2 不動産投資で一番大切なこと (中略) インカムゲインを重視し、極端なキャピタルゲインは望まないことが賢い不動産投資の秘訣です。 まあこれは当たり前というか、土地はともかく建物は時間の経過と共に減価していきますから、キャピタルゲインよりもむしろキャピタ...
yumin4.blogspot.jp
この本を読んだときは頭の中が?マークだらけになりました。

(つづく)

2014年9月14日

『学校では教えてくれないお金の授業』 山崎 元 (著) その1



お金を合理的に扱って、お金の悩みを持たずに、爽やかに暮らそう、というのが本書全体を通じた目的意識です。
賛成です。
山崎氏の合理的な目的意識は、過去に読んだ二冊(『超簡単 お金の運用術』『お金とつきあう7つの原則』)にも共通していたように思います。

 お金を有利に扱うには、また、有利不利以上に、気持よくお金と関わるためには、明らかで無駄な「損」を避けることが大切です。お金の世界では、銀行・証券会社・保険会社などの金融ビジネスに関わる人々に判断を頼ると、ほぼ間違いなく「損」をします。
普遍の真理ですね。
投資家と金融機関の「利益相反」の構造に気付くかどうかが、まず最初の運命の分かれ道と言って良いでしょう。それに気付いた人は店舗の窓口で投資の相談をするなどというカモネギ行為はもちろんのこと、証券会社の無料セミナーなんかにも行かなくなるはずです。

次の分岐点は、何が「損」なのか判断できるかどうか。
たとえばETFを選ぶ際に私は真っ先にExpense Ratioをチェックします。ただ持っているだけで継続的に引かれるコストが高いのは明らかで無駄な損だからです。
人を介さないネット証券でさえも、コストが異様に高い毎月分配型投信ばかりが売れ筋上位にランキングされているのは、そもそも何が損なのかわかっていない人の方が多い証拠です。

 お金が大切なものであることに違いはありません。ですが、もともとある絶対的なものとして私たちの社会を支配するほど、たいそうなものではありません。私たちが「これはお金である」と信用して初めてお金として存在し得る、どちらかというと、お金は「頼りない」存在なのです。
お金に対しては、永続的に価値を持った絶対的なものである、という思い込みをやめ、一歩引いて客観的に考えられるような、少々ドライな距離感を持つことこそが、長い人生をお金と冷静に付き合っていくために必要なのではないでしょうか。
同意します。
そもそもお金というツールは人間が発明したものですからね。実際に、発明されてから現在までの間に、お金の形態も、お金の価値も目まぐるしく変化してきました。信頼を失えば紙切れ同然にもなり得ることは歴史が証明しています。


このツイートの通り、お金の価値というのはモノやサービスと交換するときのレートで決まります。お金の価値を計る際には、お金の額面に囚われて増えた減ったと一喜一憂するのではなく、その交換価値がどうなっているかを見る必要があります。

 おそらく、私たち現代人が「幸せ」を感じるためには、健康、知識、人間関係、さらに経済力のそれぞれが必要なのでしょう。
(中略)
経済力も含めて、幸せに関わる主な要素は、一つが完全に欠けると、A×B×C×D×……の掛け算の結果がゼロになるような要領で、幸福感をゼロにしてしまう影響力があります。
幸福感は4要素の掛け算ですかー。さすがにそれは違う気がしますね。
この4つだけでなく、人それぞれが持つ幸福の要素にそれぞれの重み付けがあって、ただの掛け算よりも遥かに複雑な関数になっているような感じがします。たとえば人間関係などは欠けても幸福感に影響のないタイプの人は確実に存在するでしょう(ここに少なくとも一人います)。

(つづく)

2014年9月10日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その4



その3の続きです。

 スポーツをやっていると本物に出会ったとき、自分の限界をはっきりと知ることができる。本物と自分のどうにもならない「差」を認めたうえで、今の自分に何ができるのかということを考えるきっかけをもらえる。
自分の限界を知る機会の多さはスポーツ選手ならではの利点と言えるでしょうね。
運動能力以外の場合は自分の限界を知る機会はずっと少ないはずなので、もし人生の早い段階で何かに挫折するなどの経験をしているのならば、貴重な財産になると思います。

 究極の諦めとは、おそらく「死ぬこと」だと思う。ただ、その前の段階に同じぐらい大きな「老いる」ことを通じて、多くのことを諦めなければならない。いくら努力しても人は必ず死ぬ。
その通りで、努力ではいかんともしがたい事の中で、最もわかりやすい例が死、そして老化です。

 僕の現役時代の最後の四年間のコンセプトは「老いていく体でどう走るか」ということだった。ここでいう「老い」とは、アスリートとしての身体能力の低下である。普通に「年をとる」感覚とは少し異なるのかもしれない。
ただ、まったく同じなのは、どこかで価値観を劇的に変えないと、自分ではどうすることもできない自然現象にずっと苦しめられるということだ。その苦しみから逃れるためには、「どうしようもないことをどうにかする」という発想から、「どうにかしようがあることをどうにかする」という発想に切り替えることしかない。
分かります。
アスリートでなくても、人生後半に入ると「老いていく体でどう生きるか」を考えることになります。そのときに努力で老いを何とかするという発想を捨てられない人は、苦しい思いをすることになるでしょう。この本に出てきた、体があちこち痛むのを年のせいにしたくなくて医者にないものねだりをする老人たちみたいになってしまいます。

「仕方がない」
僕は、この言葉に対して、もう少しポジティブになってもいいような気がする。「仕方がない」で終わるのではなく、「仕方がある」ことに自分の気持ちを向けるために、あえて「仕方がない」ことを直視するのだ。
人生にはどれだけがんばっても「仕方がない」ことがある。でも、「仕方がある」こともいくらでも残っている。
同意します。
仕方があるのかないのかはっきりしない領域でやってみるのはまあいいとして、明らかに仕方がないことだとわかっていながら、いつまでもその事に執着するのは人生の浪費だと思います。

人生は早めに諦めよう! - Chikirinの日記に書いてあるように、日本人の不幸の原因の大部分は「諦めるのが遅すぎるから」の一言で説明できる気がします。改めて読み返すと、本書と共通する部分も多い良記事ですねこれは。

本書の「おわりに」に書かれていることがまた素晴らしい内容で、ほぼ全文引用したくなるのをぐっとこらえて。
 実際、僕は死ということをよく考える。死んだら人生は終わりだが、もともと存在しなかった人間が生まれ、ある時間を生き、また無に帰っていくと考えると、ただ「もとの状態」に戻るだけだという気がする。
死んだら無に帰るという死生観は日本人の中ではさほど珍しくはないようですね。私も同じです。輪廻転生のような死生観と比べて、いろいろなことをシンプルに考えられるのが利点だと思います。

最後には死んでチャラになるのだから、人生を全うしたらいい。そしてそこに成功も失敗もないと思う。
たかが人生、されど人生である。
「人生を全うするとは何か?」
考えだすと本が一冊書けるような深いテーマで、どこを探しても正解は無いでしょう。人それぞれ自分の人生と向き合う以外にありません。
私はシンプルに、とにかく人生を楽しむことかなと思っています。

 僕は人生において「ベストの選択」なんていうものはなくて、あるのは「ベターな選択」だけだと思う。誰が見ても「ベスト」と思われる選択肢がどこかにあるわけではなく、他と比べて自分により合う「ベター」なものを選び続けていくうちに「これでいいのだ」という納得感が生まれてくるものだと思う。
人生は選択の連続という話はその1で書いた通りです。ベストな選択かどうかを気にして結局何も選択できない(現状維持の選択をする)人は、こういう気の持ちようによって自分の未来を変えることができるかもしれませんね。

「夢はかなう」
「可能性は無限だ」

こういう考え方を完全に否定するつもりはないけれど、だめなものはだめ、というのも一つの優しさである。自分は、どこまでいっても自分にしかなれないのである。それに気づくと、やがて自分に合うものが見えてくる。
諦めるという言葉は、明らめることだと言った。
何かを真剣に諦めることによって、「他人の評価」や「自分の願望」で曇った世界が晴れて、「なるほどこれが自分なのか」と見えなかったものが見えてくる。
続けること、やめないことも尊いことではあるが、それ自体が目的になってしまうと、自分というかぎりのある存在の可能性を狭める結果にもなる。
前向きに、諦める――そんな心の持ちようもあるのだということが、この本を通して伝わったとしたら本望だ。
「おわりに」の締めくくりに書かれているこの文章が、本書の要約と言えるでしょう。
ええ、十分に伝わりましたとも。
日本人に心に足りないパズルのピースを埋めてくれるような良書に仕上がっていると思います。

2014年9月7日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その3



その2の続きです。

 人々を”平等原理主義”に駆り立てるのは何だろうか。
僕は「かわいそう」と「羨ましい」の感覚だと思っている。自分を基準にして「自分より不幸でかわいそう」な人たちを救うべきだと考える一方で、「自分たちよりいい思いをしていて羨ましい」人たちからはもっと取るべきだと考えるのだ。
(中略)
しかし、多くの人が考える一番のセーフティゾーンが「みんなといっしょ」というところになると、社会に活力がなくなるのではないかと思う。
同意します。
実際に、社会の隅々まで平等主義的、社会主義的な規制や政策が張り巡らされているこの国では、既に社会の活力が大きく損なわれていると思います。

平等原理主義は義務教育による刷り込みの影響も大きいような気がします。
皆さんは、中島義道さんが「みんな一緒主義」と呼ぶ奇妙な価値観を、小学校あたりで植え付けられた記憶はありませんか? 私の場合は、改めてそういう観点で小学生時代(既に遠い過去ですが)を振り返ってみると、思い当たる体験を幾つか思い出しました。

大人になってからも、たとえば経済的格差の拡大を悪だと思い込んでいる人が何と多いことか。資本主義の歴史は格差拡大の歴史でもあるのですが、他人が3倍豊かになっているのに自分は2倍しか豊かになっていないから資本主義はけしからん!格差を是正せよ! みたいなことを言う人がどうやったら洗脳から解けるのかわかりません。

 世の中はただそこに存在している。それをどう認識してどう行動するかは自分の自由で、その選択の積み重ねが人生である。なんてひどい社会なんだ。そう嘆きながら立ち止まっているだけの人生もある。日々淡々と自分のできることをやっていく人生もある。選ぶのは自分だ。
これは名言。
本書に一貫する「前向きな諦め」の提案だと思います。

ひどい社会だと嘆くことを積み重ねていけば、次第に人々に伝わり、遂には社会を変えるに至ることがあるかも知れず、表現し続けるのが無駄だとは言い切れませんけどね。私も日々ツイッターでやってますし(笑)。
でもそればっかりに熱心で、社会や環境の方が自分の都合の良いように変化してくれるのを待っているだけでは、結局何の対策も打てないまま人生が終わってしまうでしょう。

 僕は昔から、人間関係を整理するとか、モノを整理して捨てるとか、かかっている費用を圧縮するということを定期的にやっている。捨てることで小さくなったり、軽くなったり、安くなったりするのが好きなのだ。しかも、モノを捨てて小さくなることで、選択肢が広がるような気になっていく。
「ああ、これがなくても生きていける」
「この程度しかかからないのなら、仕事をやめてもしばらくは大丈夫」
そういう気分だ。いつでも舞台から降りられるという解放感が生まれる。
私のような節約系早期リタイア実践組や、早期リタイア志向のサラリーマンが考えていることと全く同じじゃないですか!
何だか親近感が湧いてきます。
まあ、アスリートの場合はまだ30代にして早期ではない普通のリタイアをするわけで、サラリーマンよりもずっと早くから第二の人生のことを意識しているのでしょうね。

 やらなくてもいいことはやらない、つき合わなくてもいい人とはつき合わない。
そう割り切ると、思いもしなかった自由さが手に入った。自由になることは、財産が増えていくことと反比例するような気がしている。できることなら、ほとんどのことをまっさらにしておきたいくらいだ。
僕たちは生きていかなければならない。生きていくためのサイズを小さくしておけば、やらなければならないことが減っていく。何かをやめることも、何かを変えることも容易になっていくのだ。
ほんとその通りですね。
財産が増えていくことと自由度が「反比例する」というのが腑に落ちませんけど、ここでいう財産とは資産のことではなくて身の回りの持ち物的な意味合いなのかなと。

早期リタイア志向の人にもたいへん参考になる考え方だと思います。

(つづく)

2014年9月4日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その2



その1の続きです。

 僕の感覚では、日本人は人生の選択をし始めるのが非常に遅い。大学を卒業する前後の21,2歳ぐらいからやり始めるかどうかも怪しいと思う。それはちょっと遅すぎやしないか。
(中略)
大の大人に「僕はどうして今この会社にいるんでしょう」と真顔で相談されたことがあった。小学生と変わらない世界観のまま、社会人になってしまっているのだ。
私の場合、さすがに大学卒業前には就職先を自分で選択しましたが、一歩間違えればこの相談をした若者のようになっていたかもしれません。何も考えずに選んだ会社が偶然自分に合っていただけのことですから。

なぜこういう傾向があるのかはよくわかりませんが、日本に自己責任論がなかなか根付かないことと無関係ではないような気がします。

日本人は、金メダルやノーベル賞といった既存のランキングを非常に好む。これは他者評価を重んじる、日本人の気質をよく表していると思う。それはそれで目指してもいいとは思うけれど、多くの日本人は、あまりにも人から選ばれようとしずぎてはいないか。人に受け入れてほしいと思いすぎていないか。
同感です。
これが幸福の基準を外に持つ例ですね。良くないことだと思います。
乗り越えるべきハードルの高さが評価者や競争相手次第で変動するのですから、勝つための作戦も複雑になります。一つの評価を手に入れたら、また何か別の他者評価がほしくなったりして、永久に満たされることがないかもしれません。

 本当は欲しかったものがあって、一生懸命がんばったけど手に入らなかった。挫折からうまく立ち直れなかった人が嫉妬に染まる。自分が持っていないものを他人が持っているだけで恨めしい。とにかく幸せそうな他人が羨ましい。でも羨ましいと素直に言えるほど本心をさらけ出す勇気がないものだから、攻撃することで人を引きずり下ろそうとする。
こうした人の根幹には「人と自分が同じである」「同じでないといけない」という平等願望があるのだと思う。犠牲と成果はバランスするという世界観から抜け出られていない。世の中というものが不平等で、不条理だということが受け入れられない。
嫉妬という厄介な感情の発生原因が、見事に表現されていると思います。
やっぱり根幹にある平等主義という考え方からしてロクなもんじゃありません。いつまでもそんな幻想に支配されているから、おかしな感情に突き動かされるんだと思います。

他のどんな感情よりも優先してコントロールすべきもの、それが嫉妬です。

「何も諦めたくない」という姿勢で生きている人たちは、どこか悲愴である。
仕事も諦めない、家庭も諦めない、自分らしさも諦めない。なぜなら幸せになりたいから。でも、こうしたスタンスがかえって幸せを遠ざける原因に見えてしまう。むしろ、何か一つだけ諦めないことをしっかりと決めて、残りのことはどっちでもいいやと割り切ったほうが、幸福感が実現できるような気がする。
同意します。
仕事も家庭もどっちも諦めないというのは、それができたとしても全然幸福そうには見えないですね確かに。背負うものが多すぎて身動き取れないというか。
仕事と家庭の両立なんて、目指すのやめたらどう? - Chikirinの日記に書いてある通りだと思います。

 現代は生き方、働き方にも多様な選択肢がある時代だ。それはとてもいいことだが、すべてを選べるということではない。
そうなんですよね。
で、選ばなかったものについてはきっぱりと諦めるか、やっぱり未練があるから優先順位を変更して選びなおしてみるのか、はっきりしたほうがいいでしょうね。いつまでも未練タラタラなのが一番良くない。

いくら好きなことでも、ノルマが課せられると楽しくなくなる。
(中略)
ご褒美がもらえなくても面白いからやっていたことが、義務として強制された瞬間につまらなくなってしまう。
分かります。
内容の如何に関わらず、義務としてやる会社の仕事のつまらなさときたら…。
アスリートの場合も同じなんですね。

「それをやったら何の得になるんですか」
最近の若い人はよくこんな問いかけをしてくる。
(中略)
「得にならなくても楽しいからやりたいな」という感覚をたくさん味わうことが、自分の軸をつくっていくことにつながる。
これも分かります。
なぜそれをやるのか? に対する答えは「楽しいから」で十分なんですよね。他にも何か理由が必要だとしたら、それ本当は自分にとって楽いことじゃないのかもと疑ってみたほうがいいでしょう。

この本に書いてあった池田清彦さんの言葉を思い出しました。
「私はカミキリムシ集めという趣味をもっているが、最もよくされる質問は『何のために集めているんですか』である。答えは楽しいから集めているに決まっているが、虫集めの趣味のない人にとって、この答えはそもそも理解ができないのである。」

(つづく)

2014年9月1日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その1



ツイッターで半端ない数のフォロワー(約22万人)がいる為末大さんの本です。

成功したアスリートたちから発せられるメッセージに「努力すれば夢は叶う」系のものが多い中で、本書はそれと正反対とも言えるメッセージを理路整然と発しています。現役アスリート人生を全うした経験に基づく彼のメッセージには大変説得力があると感じました。

 世の中には、自分の努力次第で手の届く範囲がある。その一方で、どんなに努力しても及ばない、手の届かない範囲がある。努力することで進める方向というのは、自分の能力に見合った方向なのだ。
その通りですね。
手の届く範囲、つまりは自分自身の各種能力の限界を人生の早い段階で見極めることは、その後の人生を左右する重要な作業だと思います。アマゾンのレビューの中に本書を中学校の課題図書に推す声がありますが、素直に同意できます。

 人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞りこまれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。
人間は物心ついたときにはすでに剪定がある程度終わっていて、自分の意思で自分が何に特化するかを選ぶことができない。いざ人生を選ぼうというときには、ある程度枠組みが決まっている。本当は生まれたときから無限の可能性なんてないわけだが、年を重ねると可能性が狭まっていくことをいやでも実感する。最初は四方に散らかっている可能性が絞られていくことで、人は何をすべきか知ることができるのだ。
人生の可能性が狭まって色々なことを諦めるということの、負の側面ばかり気にするのではなく、もっと前向きに捉えたら良いと私も思います。そう捉えることができなければ、人間としてのあらゆる能力が着実に衰えていく人生の後半になると特に、生きるのが辛くなるでしょう。

 かくいう僕も、競技人生の前半においては、意味のある人生にしたい、意味のあることを成し遂げたいという思いが強い動機になっていた。でも、メダルを取ったころからふと冷めだした。僕の母が毎日近くの山に登ることと、僕が世界で三番になることの本質的な違いがわからなくなったのだ。
意味を見出そうと一生懸命考えていくと最後には意味なんてなんにもないんじゃないかと思うようになった。人生は舞台の上で、僕は幻を見ている。人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。
そうですね。
たぶん人生に意味なんてないんだろうなと、私も今のところそう思って生きています。
それにしても、現役時代に走りながらこんなことを考えるアスリートって、なかなかいませんよね。表現しないだけで内心ではそれぞれの思いがあるのかもしれませんが、まるで哲学者のような思いをこうして表現できる元アスリートは希少な存在だと思います。

 アメリカでは引退が非常に軽い。ヨーロッパもアメリカと似たような状況だ。
(中略)
アメリカでもヨーロッパでも、極端に言えば「引っ越しをしたから」くらいの理由で軽やかに引退してしまう。
(中略)
日本とは、引退に対する考え方がまったく違うのだ。
(中略)
日本人は全力を尽くして全うするという考え方が強い。しかも、やめ方は万人に納得してもらえるような美しさがなければならないと思い込んでいる。
これはどう見ても欧米流のほうが良いでしょう。
アスリートだけじゃなく普通の会社員が早期リタイアする場合も、軽やかに引退したらいいと思います。会社辞めるのにあれこれ理由なんて要りませんし、美しさなんてもっと不要です。
こうでなければとあれこれ理由を探したりするのは、これまた一種の縛りプレイだと思います。

人生の目的は絞りにくい。仕事さえうまくいけばいいと思っていたら、隣に幸せそうな家族を持っている人がいるとそれが羨ましくなる。ゆったりとした幸せを生きるのが幸せと思っていても、夢に燃えている人を見るとこんなことではいけないと焦る。幸福の基準を自分の内に持たない人は、幸福感も低くなりがちだ。
分かります。
幸福の基準を外ではなく内に持つこと。これ重要ですね。

そして人生は選択の連続であり、選ばなかった方の人生を生きることはできません。だから人は迷うのです。
そういうときは、以前読んだこの本に書いてあったことを思い出すようにしています。
「人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。(中略)
したがって、どちらが正しいでしょうか、という質問に対しては、どちらでも正しいと思える人間になると良い、というのが多少は前向きな回答になる。」

こういう考え方に出会ってから、今まで以上に迷いがなくなり、過去の選択を後悔することも減った気がします。

(つづく)

2014年8月9日

妖怪ウォッチ騒動

無職さんのブログで知ったNHKのニュース。

おもちゃ転売で高騰 懸念の声も NHKニュース

ウェブの文面を読む限りでは珍しく価値中立的な書き方になってますが、映像の方を見てみたら酷いものでした。転売行為=悪 という分かりやすい報道姿勢が実にNHKらしい。
こういう印象操作にコロっと騙されるのか、それとも何かおかしいなと気付くのかが運命の分かれ道です。そういう意味では、メディアリテラシーを鍛えるのに最適の教材と言えましょう。

そもそも、この商品に高値がついているのは転売行為が原因じゃないです。「転売で高騰」なんて見出し自体が大嘘。供給量の数倍もの需要がある状態が高騰の原因です。
市場とは誤ったプライシングが修正される場なので、定価などという根拠の無い価格が適正価格に修正されているだけのことです。適正価格まで高騰して買うのを諦める人がいるからこそ需給が釣り合う、それが市場メカニズムというもの。

市場価格のわずか数分の一という安値を提示して買いたい人が殺到した挙句、先着順や抽選で一部の人にだけ権利を与えるような選別行為の方が、市場経済の原理原則に反しているのです。

子供たちにとっても、「価格は需要と供給によって変動する」という経済の大原則を学ぶ良い機会です。それなのに、
アマゾンで価格高騰! 妖怪ウォッチタイプ零式の高値に親たちの不満が爆発「子どもに悪影響」「有害ウォッチ」 | ロケットニュース24
「この現象自体が子供に悪影響」
こんな反応しかできない大人って…。市場経済の自然な姿を子供から遠ざけて、いったいどんな歪んだ経済観念を植え付けるつもりなんでしょうか。

2014年8月7日

「銀と金」のセリフから考えたことと、「○○で生活する」という縛りプレイ

当ブログへのアクセスランキングに新しくランクインしていたブログに、次のような記事がありました。

金利で食うのは庶民の夢か?│ひとり配当金生活(予定)
もう20年ぐらい前の作品ですが、福本伸行の怪作漫画「銀と金」の作中に、金利で食うのは庶民の夢、っていうくだりがあるんですよ。で、仕手本尊の梅谷の答えがこれ。今でも印象に残っています。

「ぼうず……それは死人の考えや……。
血の通った人間が金持ったら、そうは考えん。
(0人中、9人は考えなくなる……損を承知で人は生きられんのや。
それほど銀行金利は低い……あの低さはサギやからな。
サギ師に騙されながら生きるのも気分が悪い。」

作中での銀行金利は6パーセントくらいあった時代の話です。
無リスク資産(インフレの懸念はありますが)で6パーセントの利回りは今では考えられませんが、当時はそれでも銀行に預けるのは馬鹿だと思っていたんですね。
この作品はまったく知りませんが、このセリフに込められた意味を勝手に想像してみるに、なかなか興味深いテーマを含んでいるような気がして、引用させてもらいました。

銀行金利が6%も付くのに、その金利で生活するのが「死人の考え」というのはどういう意味なのでしょうか。もしかしたら、私が以前「金利で生活すればお金は減らない」という錯覚に書いたように、銀行預金の金利のみを引き出して元本を維持してもインフレで購買力は目減りするんだよ、と暗に指摘しているのではないかと思うのですがどうでしょうか。

銀行金利≒インフレ率という前提に立てば、「それほど銀行金利は低い」というのは、金利が6%の時代にも0.1%の時代にも等価な意味をもつ言葉です。銀行預金のような、金利込みでぎりぎり購買力を維持できそうだけど、税引き後には下手したら実質リターンがマイナスになる金融商品ではなく、超過リターンが期待できるものに投資するのが血の通った人間の考える事だと言いたいのかなと、私なりに想像してみました。


ところで、「金利で食う」に代表される、不労所得だけで生活するスタイルが金持ちの象徴と思われているというか、庶民からは一種の憧れの対象とされているようなフシがあります。早期リタイアを志向する方のブログにも「○○で生活する」系のものがとても多い印象です。○○に入るものは配当金、分配金、スワップ収入、家賃収入など色々あるようです。

そういうスタイルを見聞きするたびに思うのは、「○○で生活する」のはゲーム用語の「縛りプレイ」とよく似ているということです。

縛りプレイとは (シバリプレイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
ゲームをプレイする際、本来ゲーム側からは設定されていない制限(縛り)を自ら科す事によって、より難易度の高いゲームをプレイする事。

普通にクリアできる難易度のゲームでも、たとえば強い武器を使わないというような制約を自主的に課してプレイすると、たちまち難易度が上がります。オンラインFPSなどでは、火器を一切使用しないナイフ縛りの対戦で盛り上がることもあるようです。

「○○で生活する」というのもそれと同じ自主的な制約じゃないでしょうか。生活に必要なお金をどこから持ってくるかについては、本来何の制約も無いはずです。もちろん、金利や配当がダメだと言ってるのではありませんが、そういった特定の種類のお金に限定する必要はありません。普通に銀行預金をおろしてもいいし、株式やETFを売って現金にしてもいいでしょう。どういう方法にするかは、その都度自由に決めればいいはずです。

ゲームなら難易度が上がってかえって面白くなることもあるでしょうが、リアルライフではわざわざ自らに縛りを課して難易度を上げてもあまりいいことは無いと思います。

2014年7月27日

NHKスペシャル シリーズ日本新生 『"超人手不足時代"がやって来る』

7月19日に放送された番組です。

このシリーズを見るのは、「熟年サバイバル~年金減額時代を生きる~」の感想 その1以来になりますが、以前にも増してグダグダ感のある内容でした。些末な論点について、あーでもないこーでもないと言い合っているだけだったような。

前回はオアシスのようだった宇野常寛さんやデーブ・スペクターさんの発言も、今回は今ひとつ切れがなかったように感じました。

最初の数分で紹介された人手不足の事例が介護業界だった時点で早くも失望感が…。そんなの労働人口減少とは関係ない社会主義的産業構造の弊害じゃないですか。医療、介護、保育。すべて莫大な公費が注入され、政府に価格統制され、市場メカニズムが破壊された産業で、需給のバランスが釣り合うわけがありません。政府が経済に介入するとろくなことがないのです。

ところで、そもそも"超人手不足時代" なんて本当に来るの? という疑問もあります。
こんな記事を読んでしまうと特にそう思います。
ラリー・ペイジ、サーゲイ・ブリンがGoogleを語る―ヘルス分野は規制が重荷、手を広げすぎた方が実は効率的 - TechCrunch

NHKの番組紹介ページには、2040年に日本の生産年齢人口が800万人足りなくなるとか書いてますが、四半世紀も未来の話です。その頃にはグーグルの自動運転車が道路を走り回っていると思うんですけど…。ロボットやコンピューターに置き換え不能な分野は、今よりずっと少なくなっているのでは?

800万人の生産年齢人口不足なんて、労働生産性が13%上がるだけで解消する程度の数字です。1年あたりわずか0.5%です。グーグルやアマゾンのような素晴らしい企業の力を借りれば、難なく達成可能でしょう。

人々が文化的な生活を送るために必要な労働資源は実はごく少ない。必要を満たすために全員が猛烈に働かなければならないというのは思い込みにすぎない。
その通りだと思います。
小飼弾さんも同じようなことを書いてましたね。(『 働かざるもの、飢えるべからず。』 小飼 弾 (著):「どう考えても、日本では半分ぐらいの人は怠けていてもらわないと、職の数というのが足りません。皆が一生懸命というのは、それはそれでけっこうやばいことなんです。」)

もちろんそこには社会的な問題―多くの人々はすることがないと満足できないという問題がある。そのために不必要な活動が膨大に行われ、地球環境が破壊されている。
必要ないのに働くのは満足のため、という捉え方がアメリカらしいですね。日本の場合は、「働かざるもの食うべからず」という旧来の固定観念に縛られているのだと思います。関連記事:
先日の記事 で、「働かざるもの食うべからず」という思想の弊害について触れましたが、同じようなことが書かれたブログを見つけました。 円高のいま、すべきこと。/日本を滅ぼす「働かざる者食うべからず」という強迫観念 - デマこいてんじゃねえ! より: 現在のように介入に失敗して円高ドル...
yumin4.blogspot.jp


このシリーズは「日本新生」という名前が付いているわりに、今まで見た2本は討論している内容が全然「新生」って感じがしなくて、いつまでたっても変わらない日本社会の閉塞感をたっぷりと味わえる仕上がりになっています。

2014年7月21日

『金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?』 堀江貴文 (著)



本書はタイトルの「金持ちになって君はどうするの?」の部分に惹かれて予約したような記憶があります。

しかし残念ながら本書のメインは「金持ちになる方法」の方で、メルマガ読者からの多数の質問に手短に答える形式で、様々なビジネスのアイデアを紹介する内容でした。正直、ビジネスには全く興味がないのでそこは斜め読みして、各章の間に登場するゲスト解説者による「思考の補助線」というコラムと、本人によるあとがきだけつまみ食いしました。

夏野剛さん曰く:
 劇作家の寺山修司はかつて“若者よ、書を捨てよ町に出よう”と言いました。
 いまは違います。“若者よ、引きこもってググれ”です。
 家にこもってググった方が、よっぽど新しい情報が入ってくるし、精力的に発信もできます。書は捨ててOK。街に出るのも無意味。あんな古くてデータ量の少ないアーカイブを頼りにしても、これからは役に立ちません。
 引きこもってググれば、もう無限の世界、無限の情報にアクセスできるのです。
とても共感できる言葉です。
知識を獲得するのにインターネットほど効率的なものは他にありませんね。何かを知ることに興味がある人が引きこもりがちになるのは当然のことで、町に出ないとダメというのは実に古臭い考え方だと思います。

 また、この言葉も大切にしてください。“先輩の言うことは聞くな”。
 ネット社会の急成長によって、この10年でルールもモラルも変わってしまいました。10年前の常識を元に話している先輩の意見は、参考になるどころか邪魔なものでしかないことも十分にあり得るのです。
これも同意。
逆に言えば、10歳以上年上の人が言ってることに一切古臭さを感じないようなら、自分自身が時代の変化についていけてない可能性を疑ったほうがいいかもしれません。それぐらい、インターネットの浸透によっで変わった部分は大きく、その変化をどれだけ自覚しているかも世代によって大きな格差があるように思います。

船曳建夫さん曰く:
堀江君の特性は、徹底した合理主義。理性こそが神。理屈で考えて、理屈に合わないものには、一切屈しない。あの首尾一貫というか、ブレなさは大したものですね。
わかります。
仕事観や人生観にほとんど共通点がないのに彼に親近感を覚えるのは、この特性が一致しているからだと思います。

合理的に生きるのは、勇気が要ります。つまり好きなことだけして生きるということだから、周りのやっかみや嫉妬を受けやすくなる。それが怖いから、若い人の大半は合理を捨てて、いろんな理不尽を耐えているんでしょう。
合理主義を徹底するためには勇気もよりも何よりも、一番必要なものは理性だと思います。
放っておいたらいくらでも直感的、非合理的に振る舞う癖がある人間の脳を、どれだけ理性でコントロールできるかが重要です。東大生と違って、世の中の多くの人間はそういう癖があることさえ知らないまま一生を終えているのではないでしょうか。

 僕はいつも講義で学生に言っています。「自分が生きてきた20歳からの40年と、君たちのこれからの40年。絶対に君たちの40年の方がいいんだよ」と。
(中略)
40年どころか100年生きても遊びきれないほどの娯楽が、いまの若者たちは、これからいくらでも体験できるんです。ワクワクすることばかりじゃないですか。
同感です。
ワクワクすると同時に、このような恵まれた時代を生きていると、人生の残り時間が豊富な若者でさえも人生が短すぎることを自覚するのではないですか。ましてや、40歳を過ぎて人生を折り返した人間ならば当然のことでしょう。

2014年7月17日

「ザ・ノンフィクション お金がなくても楽しく暮らす方法」

関東ローカルの番組のようですが、あのphaさんが登場すると聞いてネットで見てみました。

印象に残ったのが32分50秒付近からのやりとり。
Q. 働きたくない若者ばかりだと日本はダメになるんじゃないだろうか?

A. まあ何とかなるんじゃないですか。
ダメになっていくかもしれないけど、別にダメになっていいんじゃないですかね、みんながそう選択した結果なら。
別に、国を支えるために国民がいるわけじゃないし、人間がどう生きたいかに合わせて国の形があるべきだと思うし。

ナレーション: 皆さん、どう思われます?
どう思うもなにも、phaさんの言う通りです。
この質問をさせた人に逆に質問したいのは、もしかして国をダメにしないために個人の幸福を犠牲にすることが正しい生き方だと思ってるんですか?
それは倒錯も甚だしい考え方だと思います。

小飼弾さんも次のように述べています。
404 Blog Not Found:紹介 - 発売開始 - 働かざるもの、飢えるべからず。
本書で扱う命題は、ただ一つです。それは、
社会は人のためにあるのであり、人が社会のためにあるのではない。
ということです。


ガメさんのブログにもこんなタイムリーな記述がありました。
3つの断片 | ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日
日本人なんてものはあの国には存在しないのさ、とまで述べたことがある。
だって、どこにも個人の生活なんて見あたらない。
日本人は個人として存在しない人間の総称なのさ。
みんな他人の目のなかで思考していて、個人が個人であるより社会の部品であるような奇妙な国なんだ、という、つまりは日本を訪問したぼくの友達がほぼ共通に持つ「日本人の印象」を分け持っている。
まさにこの日本人特有の潜在意識こそ、この番組全体にうっすらと漂うお節介臭の根源のような気がしますね。

番組の最初の方は価値中立的に「こんな生き方もあるよ」的な伝え方だったはずですが、だんだん番組制作者の本音が出てきたというか、ずっとこのままでいいわけないだろう的な、働かない怠け者を何とかして「更生」させたいというお節介な意図が見え隠れしていたように感じました。
特に露骨だったのが、上記のphaさんの素晴らしい回答の直後に出たまさかの質問。
Q. でもphaさん、働かないとモテないでしょう?

こんな不躾な質問にも真面目に答えるphaさん。
A. べつに、働いてたらモテるって感じもしない。
というか、働き始めたら急に寄ってくるような人間は、性別関係なしにロクな人間じゃないと思いますよ。お金の匂いによほど敏感なのでしょう。

mushoku2006さんのブログより。
お金がなくても楽しく暮らす方法 : 年間生活費100万円! 36歳からのドケチリタイア日記
これまた他の方々が既に言われていることですけど、
phaさんは、脳みそ的にも肉体的にも、十分に勤勉だと思いました。
この点についての私の印象は少し異なります。
やはり彼は怠惰な人に見えます。もちろんこれは最高の褒め言葉です。
彼がやっていること、たとえばアマゾンの欲しい物リストをこまめにメンテしたり、熊野で自発的に集まった人たちの労働力を利用して古民家を改装したりするのは、常に「自分ができるだけ働かない」という目的を上手く達成するための手段だと思います。
できるだけ怠惰に過ごしつつ、彼なりの幸福を実現するための最適解を常に探し続けていて、その一点に集中して頭を使うことだけは非常に勤勉なのがphaさんの行動様式の特長ではないかと。

あのビル・ゲイツもこんなことを言っています。
Choose a Lazy Person To Do a Hard Job Because That Person Will Find an Easy Way To Do It | Quote Investigator
怠け者に難しい仕事をさせると簡単な方法を見つけてくれるって、まさにphaさんのことじゃないですか。

単に普通の企業で普通に勤労をしていないというだけ、
形態が一般と異なるだけ。
普通の企業と雇用契約を結んで労務提供義務を負うということと、何の義務も負わずに気が向いた時だけ何かをやるということの間には、一見同じような作業に見えても質的には非常に大きな違いがあると思います。私も前者の労働は無理ですが、後者ならば無理じゃないですね。嫌になったらいつ休んでもいいわけですし。

2014年7月16日

金持ちにたかる醜悪な人たち

cubさんのブログ
シックスサマナで広がるHENTAIのWA!! cubの日記 コツコツ投資で2千万貯めました
がきっかけでウォッチしているブログ「タイでOL」に、こんな記事がありました。

タイでOL タイ人と結婚より:
タイ人はお金持ちと結婚しろと口を酸っぱくして言っています。
なぜならば、親戚の中で金持ちがいればたかれますから。
困った時に金を無心しやすいです。
彼らの中では、金持ちからもらうことは当然と考えてます。
だから、悪びれたりせず、金を借ります。
金を返せと請求すれば、貸した人間を悪く言います。
俺より金持ちなんだから多少の金でけちけちするなということです。
これがタイ人です。
インドなんかでは赤の他人の観光客まで集られるらしい(関連記事:『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』 ちきりん (著)  その2)ので、親戚に集るだけならまだマシなのかもしれませんけど、自らの金銭欲を「金持ちに集る」ことで満たそうとするタイ人のメンタリティは非常に醜悪に映ります。こういうのをカルチャーショックと言うのでしょうか。もし日本の金持ちがタイに移住するなら、日本にいるとき以上に金持ちであることをひた隠しにする必要がありそうです。

翻って日本人はどうなんだろうと、ふと考えました。タイ人を卑下できるほど立派なメンタリティの持ち主ばかりなのかなと。

2年以上前になりますがこんな記事があったことを思い出します。
「小さな政府」を語ろう : 当たり前の話 金持ちこそが我々を豊かにする
この前、駅前の寿司屋で寿司を食っていたら、後ろから話し声が聞こえてきた。
「野田の増税どう思うよ?」
「やっぱっさあ、金持ちが税金をたくさん払うべきだと思うんだよ」
「それは当たり前さ。でも、このタイミングはよくないよな。」
。。。。僕は唖然とした。
まあ、それなりの身なりの人間である。平然と金持ちから税金を取るのは当たり前と言ってのけ、みなが同意したのだ。
本当にそれって正しいのだろうか?
うん、私も唖然としますねこの会話。でも残念ながら彼らのような人たちが日本人の多数派を占めているのは間違いないでしょう。

金持ちに多くの税金を払わせることを当然だと思っている日本人。
金持ちからお金を貰うことを当然だと思っているタイ人。

税金という公的な仕組みを介するのか介さないのか(間接的か直接的か)という違いがあるだけで、金持ちから貧乏人への所得移転自体を当然視している点では、本質的な違いは無いようにも思えてくるのですよ。

もしかすると、相対的貧乏人でありさえすれば、赤の他人を含む相対的金持ちから(国家権力という強制装置を利用して)収奪してもよいと考えている多くの日本人よりも、あくまでも強制ではなく任意の施しを親戚の金持ちに求めるだけのタイ人の方が、よほどマシな人々なのかもしれないぞ…。

とまあ、そんなことをゆらゆらと考えた平日の午後。

2014年6月23日

早期リタイアと孤独

ブログ開設6周年にコメント下さったretire2kさん、mushoku2006さん、mikeさんありがとうございます。

mikeさんのコメントに次のような質問がありましたので、お答えしたいと思います。
はじめまして。
ブログ楽しく読んでます。
以前はセミリタイアしてて、今は正社員してます。

セミリタイアしていた頃は自由でしたが、将来がどことなく不安でした。
ですが、ストレスはほぼ0でした。
ただ、大学の同級生などと飲み会があるとセミリタイアしていることを悪く言われることが多く、自然と疎遠になってしまいました。

今は正社員で安定していますが、自由はありません。
ストレスフルで出費も多くなりがちです。
会社の同僚との飲み会はストレスフルです。

質問なのですが、遊民さんがリアルに親しくしている人は同じ価値観の人なのでしょうか?
セミリタイア時に感じた寂しさの一つは、居場所のなさ(同じ目線で話し合える人がいない)ということだからです。
孤独に耐えられるスキルがある人がアーリーリタイア向きだということですかね・・・

私もたまに高校や大学の同窓会に出て二十数年ぶりに同窓生と顔を合わせることがありますが、悪く言われたことは無いですね。いや、私が鈍くて気付いていないだけかもしれませんけど。
もちろん、たとえ親しい同窓生と言えども、
「お金が十分あるから早期リタイアして毎日ぶらぶらしているんだよ」
などと正直に告白したりはしません。そんなことを言おうものなら、いくらあるんだとか根掘り葉掘り訊かれてややこしいことになりますから。

ご質問への回答ですが、私がリアルに親しくしている人の中に、私と同じ価値観の人はいないと思われます。そのこと自体には何の問題もありません。
なぜなら私は、価値観は人それぞれ違っていて当たり前という前提を受け入れているからです。リアルで親しい人間という非常に狭い範囲の中に自分と同じ価値観の人間が存在するとしたら、それは奇跡的なことだと思います。

問題があるとすれば、そのような価値観の多様性を認めず、多数派への同調圧力をかけてくるような輩ですね。mikeさんの生き方を悪く言う人はそういう人間なのではありませんか?
幸い、私の回りにはそのような輩は存在しません。いや、私が鈍くて気付いていないだけかもしれませんけど。もしかすると、そのような輩に出くわしたとしても、敏感に匂いを嗅ぎ分けて無意識にスルーして関わらないようにしているのかもしれません。

いずれにせよ、毎日忙しく旧来のライフスタイルを続けている多くの同窓生たちとはそもそも時間が合わないので、だんだん疎遠になるのはやむをえないでしょう。

私のような性格だと、居場所がない寂しさというのを正直まったく感じないのです。「孤独」というのも全然ネガティブな言葉ではなく、むしろ積極的に孤独になることを求めるタイプです。孤独でいるほうが自由だし、下らないおしゃべりに邪魔されずに好きなだけ沈思黙考できるじゃないですか。私にとって人付き合いはちょっとしたスパイスに過ぎません。適度に振りかければ料理が少し美味しくなるけれども、まったく振りかけなかったとしても普通に食べられます。こういう性格の方が早期リタイアに向いていることは間違いないと思います。

2014年6月20日

『未来の働き方を考えよう』 ちきりん(著) その2



『未来の働き方を考えよう』 ちきりん(著) その1の続きです。

■ミニマムに暮らすという選択
まったく別の形で、従来型の働き方に疑問を抱き、これまでの常識とはかけ離れた生き方を選ぶ若者もいます。それは、生きることにかかる費用を最小化することにより、人生において働かなければならない時間も、最小化しようという生き方です。
(中略)
こういう生活でいいのなら、正社員である必要もフルタイムで働く必要もありません。数年働いて数年遊んでいるといった生活さえ可能になり、しかもシェアハウスに暮らしているので、孤独でも寂しい毎日でもないのです。
節約系リタイアブログ界隈では最早こちらの生き方のほうが「常識」になりつつありますが、有名なちきりんさんの本で紹介されたことで広く一般に知られるようになりそうです。非正規労働者=経済的弱者=可哀想みたいな(NHKが好きそうな)刷り込みが少しでも無くなればいいなと思います。

1ヶ月8万円のアルバイト料で暮らすなんてありえないと思われるかもしれませんが、シェアハウスに住み、ネットで仲間とつながる彼らは、貨幣経済を介在させずに、様々な便益を交換しています。
(中略)
たくさん稼いでたくさん使うと、稼ぐ方にも使う方にも税金がかかりますが、仲間で助けあっている分には、税制は介入してこないのです。
今のように高所得者に厳しく低所得者に優しい日本で徹底して経済合理性を追求していくと、やっぱりこうなりますよね。実に効率的な暮らし方だと思います。何しろお金を稼いでも使っても罰を与えるのですから、できるだけお金を稼がない、使わない方向に向かうのは当然の流れかと。

不動産も子どもも要らない
私は、日本人の半分がミニマムな生活を選ぶだろうと言っているわけではありません。ただ、100人に数人が「不動産も子どもも要らない。その代わり、あまり長い期間、働きたくない」と言い出す社会を、不健全だとも思わないのです。そういう人が一定数、現れることはごく自然だし、それを望む人がそう生きられる社会は、豊かな社会だとさえ感じます。
同感です。

戦中に日本政府は、「産めよ増やせよ」と多くの子どもをもつことを国民に勧めました。その目的は、生まれた子どもを兵隊にするためでした。「少子化が続けば年金制度が破綻する」という意見も、それと全く同じです。私たちは兵隊にするために子どもを生むのでも、年金制度を支えるために働くのでもありません。
完全に同意します。
子どもを増やす目的は兵隊を増やすためだった、というのは恐ろしい話だと、誰もが感じることと思います。
しかしそれが「年金制度を支える」というような一見高尚な、社会福祉の目的に置き換わったとたんに、多くの人はなぜか子どもを増やすことが正しく、税金つぎ込んででも少子化を止めないといけないなどと言い出したりします。
どちらの目的でも、滅私奉公という点ではまったく同じだと思うのですが。

消費税増税のとき、全額を社会保障制度の維持にあてるという耳障りの良い言葉に釣られて、賛成に回ってしまった国民と同じような匂いがします。社会福祉や社会保障というのは政治家にとって非常に使い勝手の良い、魔法のような言葉なんですね。

そういう言葉に惑わされないようにしたいものです。
止めなければならないのは、少子化になると破綻するような出来損ないの年金制度の方です。少子化そのものは善でも悪でもありません。

支出マネジメントが引退可能年齢を決める!
私たちに必要なのは、お金に関する根本的な発想の転換です。実は早期引退の可否を左右するのは、収入ではなく支出の多寡なのです。
そうです。その通りなんです。
いやはや、生活レベルが高そうなちきりんさんとも意見が完全に一致してしまったのでちょっと驚きました。

早期リタイア志向の人にもお勧めの一冊です。

2014年6月14日

『未来の働き方を考えよう』 ちきりん(著) その1



これは「働き方」の本だから無職の私にはもう関係なさそうかな、と想像してましたが、読んでみたら共感できるところがたくさんありました。働き方も含む「生き方」を考えるための本だと思います。

人生の有限感
ジョブズ氏だけでなく起業家には、この「人生は有限だ」という感覚を強くもっている人がたくさんいます。
(中略)
普通の人はいろんなことが不安で、人生にやたらと保険をかけます。「こんなことをしたら収入が減るのではないか」、「こんなことをしたら友だちに嫌われるのではないか」などと考え、思い切った決断ができません。
それが「普通」なのかどうかはわかりませんが、たしかにそういう慎重なタイプの人はどこにでもいますね。行動経済学的に言えば現状維持バイアスが強い人かな。

普通の人がそういう不安に怯えるのは、本当の不安を知らないからでしょう。本当の不安とは、人生が終わるという瞬間が、明日にもやってくるかもしれない、ということです。それにくらべれば、その他の不安など質的に全く及ばないところにあります。だから死の意識や人生の有限感をもつ人は、それ以外の細かい不安に怯えません。最も大事なのは何なのかが、わかってくるからです。
その通りだと思います。名付けてちきりん博士の「不安相対性理論」。

もちろん私にとっても、最も起こってほしくない不幸なことは今すぐに人生が終わることです。たとえば今晩床についたあとに心臓発作で死ぬとか、不治の病にかかって余命宣告を受けたりする不安を、どうあがいても拭い去ることができません。

でもなぜか多くの人は、自分が死ぬのはまだ当分先のことで、自分の身にそんな不幸は訪れないだろうと、根拠のない自信を持っているようなのです。10年前の私もそうでした。うちの親なんか70過ぎてもまだそう思っているフシがありました。
そんな自信家たちでも、老後のお金や健康のことになるとけっこう悲観的で、何重にも保険をかける上述の慎重なタイプの人だったりします。見ていてバランスがおかしいなと思います。

「いつか」ではなく「今」やろう
多くの人は若い時にお金がなく、休みが取れないため、定年してから12時間も飛行機に乗って欧州や南米の遺跡を訪ねます。でもそれは、誰にでも可能なことではありません。たとえ可能であっても、若い時と同じように楽しめるかどうかは誰にもわかりません。
今は健康に自信のある人でも、年を取るということを甘く見ないほうがいいということです。
(中略)
だから絶対やりたいことは、「いつか」ではなく「今」やっておくべきなのです。
同感です。
老化するということは、ただそれだけで人生の自由度が下がります。もちろん自分自身に老化現象が現れるとわかることなんで、大体40歳を過ぎれば嫌でも体感することになるはずですが、30年後までの老化を明確にイメージするには、最も身近にいる人生の先輩、親やその兄妹というサンプルを観察するのが一番わかりやすいでしょう。

私の親は概ね健康ですが、最近は旅行に誘っても乗ってこなくなりました。金銭的には問題ないのに気力、体力の衰えは隠しきれず、彼らの人生の自由度はとても低くなったように見えます。

前述したとおり、長生きリスクに対して経済的に完璧に備えるのは不可能です。自分が100歳を超えるまで生きても、自費でやっていけるほどの資産形成ができる人など、ほとんど存在しません。心配してもどうしようもないリスクなんです。
それなのに多くの人が、今やりたいことを我慢してまで、とめどなく長生きの経済リスクに備えようとします。しかしどんなに頑張っても、その不安が解消されることはありません。
仰るとおりです。
長生きしすぎてお金が足りなくなる不安が解消されるのは、自分が死ぬとき以外にないと思います。
経済リスクに限らず、健康や食の安全の分野でもこの手の「ゼロリスク症候群」を患っている人をよく見かけますが、合理的ではありません。
そういう思考様式の問題点をわかりやすく指摘する記事があります。生き方にも応用できる良記事だと思います。
参考記事: ゼロリスク症候群 : がんと向き合う ~腫瘍内科医・高野利実の診察室~ コラム : yomiDr./ヨミドクター(読売新聞)

時々、「あと2年働くと退職金が○○万円増えるから、そこまでは我慢する」という人がいます。
(中略)
本当にその額が、「2年間の自由」、「2年分の人生」より、自分にとって大きな価値があるのかと。
そうですね。
60歳を目前にしてまだ時間よりお金が欲しい人の気持ちが、私にはよくわかりません。

(つづく)

2014年6月3日

ブログ開設6周年

当ブログ6歳の誕生日を迎えました。
6年間の総PVは80万。アクセスは増えもせず減りもせず、今までと同じペースです。

無職生活8年目に入りますがまったく飽きる気配すらありません。
時間はたっぷりあるものの、その時間を使う対象(本、ネット、ゲーム、旅行、ツーリング、等々)も無尽蔵にあるので、今までもこれからも暇を持て余すなどということは考えられません。たっぷりあったはずの時間もいずれは枯渇するときがやってくるでしょう。人生の有限感をひしひしと感じています。

最近の活動傾向としては、読書の量が少し減ったように思います。
代わりにもう一つの地球、ネットの世界にどっぷり浸かっている時間が年々増えています。ふとした好奇心や知識欲がきっかけでWikipediaサーフィンが始まると一日中とまらないこともありますし、もう一つの地球をぶらぶら旅していると面白いブログが次から次へと見つかるので、私のフィードリーダーはどんどん肥大化しています。日本国政府の肥大化を批判する前にお前のフィードリーダーを何とかしろと言われそうです。

2014年5月29日

「ステルス税」に蝕まれる庶民の財布

最近ブログ更新をサボリ気味なのと対照的に、ほぼ毎日何かしらリンクを貼っているツイッターで、やや多めの反応があったのがこちら。



我々が毎日消費している身近な食料品の価格の内訳が、実はこんなふうになっていることに気付いていない人が、まだ圧倒的に多いような気がします。そうとでも考えなければ、生産者と縁もゆかりもない一般消費者までもがどういうわけかTPP反対に回り、世論が真っ二つに割れる状況が説明できません。消費者の立場で、輸入品に課せられているバカ高い関税をそのまま維持しようとするなど、正気の沙汰とは思えませんので。

ちきりんさんが指摘するような、消費者から広く薄くお金を削り取って、少数の生産者、天下り団体、その他へ移転する構造が日本の至る所に存在しますが、これらは巧みに迷彩が施されているので、目を凝らしてしっかり見ないと気付かないのです。

これについて調べていたら面白いブログを見つけました。
ステルス税 | ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日

良記事ですが大変長いので、リンクを踏むなら時間のあるときにゆっくりどうぞ。
社会保険料、不動産価格、高速道路、電気料金など、外国人の視点から見た日本の特異性がうまく表現できています。しかも日本語が完璧ときた。

日本の物価の特異性については、最後の50行ぐらいに書かれていることがまさに「あるある」なので部分引用すると、
日本の物価の特徴は、その全般的な高さよりも、「必要なものほど高い」ことにあると思う。
びっくりするほど、どころか、正気が疑われるほど高い飲み物は別格として、生きるのに必要な食べ物がすげー高い。
(中略)
ふつー、生活必需品が嗜好品に較べて奇妙に高いというのは政治がバカタレであることを示している。
誰かが積極的にオカネを抜き取っていることを示している。
どこの国の歴史でも過去にはあったことだが21世紀になって、まだこんな野放図な無茶苦茶をしているのは日本だけではあるまいか。
(中略)
ニュージーランドでもあるいは連合王国ですら、家でごーろごーろしていて何もしないでいるとオカネはなくならない。
(中略)
すべての出費に実質が伴っておる。
使わなければ減らない。

日本では息をしても呼吸代が自動引き落としになっておって、人間でいるとみな自転車操業においつめられてゆくような不思議な経済システムになっていた。
家がボロイ(すまんすまん)ので、ひとびとは町へ出る。
町へ出れば地下鉄代を払い。紅茶代を払い。食事代を払い。
なにもかもオカネで時間と場所を買ってゆかねばならない。
うー、たまらん、窒息しそうな社会だ、と考えました。
呼吸代っていう表現が面白い。
phaさんのブログにも似たような記述があったことを思い出します。
『フルサトをつくる』目次と「はじめに」を公開します - phaの日記
あと東京は何をするにもお金か゛かかる。毎日家て゛寝ているた゛けて゛も家賃の負担か゛大きくてお金か゛カ゛ンカ゛ン減っていく。ケ゛ームて゛言うと歩くた゛けて゛体力か゛減っていく毒の沼地にいるような感し゛た゛。東京は僕のような無職て゛怠惰な貧乏人にやさしくない。
毒の沼地。これもドラクエ好きには非常に分かりやすい。

ガメさんのブログに戻ります。ここからが特に秀逸。
オカネの最大の効用はオカネについて考えなくてすむことだが、日本では「オカネを考えなくてすむ幸福」になかなか手が届かないもののよーである。
バカガイジンども(わし含む)は、日本にいるとき、いろいろな物品の価格に含まれてしまったさまざまな規制コストやあるいは農業家本人たちが自信をもって述べるところによれば競争力がまったくない農業を救うための助成金、高速料金のようなバカげた言いがかりに似た公共料金とゆーよーなものを一括して「ステルス税金」(JST)と言い囃して喜んだが、本来、国がやらなければいけないことの放棄や税金という名前でない税金、雇用主や大企業に支払い義務を負わせることによって税金を現実の負担者であるひとりひとりの日本人から見えなくしたシステムは、それ自体が民主主義に対する欺瞞であって、国がひとりひとりの国民に対して慢性的に繰り返している犯罪であると思っています。
だめじゃん。

だめだめだと思うぞ。
「ステルス税金」(JST)とはよく言ったものです。まさにその通り!
庶民から搾取しているのは一体誰なのか? わかりやすく見えやすい身近な大企業や資本家ではなく、もっとわかりにくく見えにくい何かがあなたの財布から少しずつ確実にお金を抜き取っていることに、あなたが気付いていないだけかも…。

2014年5月3日

NHKの番組を見たブロガーさんたちの感想を読んだ感想

最近のNHKの番組を見たブロガーさんたちの感想を読みながら考えたことをメモしておきます。

cubさんのブログ
我々もアメリカを見習って無職経済圏を作るべきだと思ったり cubの日記 コツコツ投資で2千万貯めました/ウェブリブログ
は稀に見る良記事です。全文引用したくなるレベルなので敢えて部分引用はしません。まだ読んでないかたはリンク踏んで読みに行ってください。
TPPの件も、クローズアップ現代の件も、完全に同意!
多くの日本人に欠けているのは、メディアの印象操作に流されずに問題をこのような切り口で捉える視点だと思います。

mushoku2006さんのブログ
NHKスペシャル「調査報告 女性たちの貧困~“新たな連鎖”の衝撃~」 2 : 年間生活費100万円! 36歳からのドケチリタイア日記
母子3人で、別々にネカフェに居るなんて、いくら割引料金でも、合計月171,000円。
どんな立派なマンションが借りられるのか・・・・・・。

食材を買うのは勤務先のコンビニ。
スーパーで買いなさいよ・・・・・・。

女性がどうだとか、母子家庭がどうだ、と言うよりも、
もっと生活を営む上での知があれば、こんなことにはならないだろう、
という突っ込みどころがいっぱいでした。
既視感のある内容だなと思ったら、コレですね。
関連記事: 「熟年サバイバル~年金減額時代を生きる~」の感想 その1

このように、自称弱者を取材すると大抵ツッコミどころ満載な人が登場するにもかかわらず、そこは完全スルーするのもNHKクオリティーです。

こちらは比較的新しいブログですが、こんな番組もあったようです。
40代リタイアを目指す男の節約・投資ブログ 奨学金についてNHKが批判?
大体、カネを返せない学生やその家族は被害者のフリしてるけど、3%の金利が乗っかるのは事前に説明してるわけだし、今更何を、という感じです。
イヤなら3%金利の説明を受けた時点で断ればいい。
一般の教育ローンなんてもっと高利で貸しています。

何でもかんでも被害者だ、弱者だ、という社会の風潮にはウンザリします。
甘えるのもいい加減にして欲しい。
こいつらが返さないことで、次の新しい学生が困ります。
完全に同意です。

この手の貧困や格差についてNHKに番組を作らせると、毎度毎度どうしてこうも見事に大事なポイントを外してるの?と思えるモノが出来上がりますね。経済的弱者は可哀想だという感情を煽り、ゆえに彼らの保護や救済は絶対的な正義で、弱者軽視や切り捨ては絶対悪!のように描く番組作りの方向性は、一向に変わる気配がありません。普段から感情優先で物事を判断する人たちはこういう番組の影響をもろに受けて、知らず知らずのうちにNHKの価値観を刷り込まれてしまいます。

この番組についてはちきりんさんの記事も必読です。
「学校にお金払う=教育投資」とは言えない時代 - Chikirinの日記
最近は「起業家に大学教育は役立たない」という人もいるけど、起業家どころか、普通に自分で商売して(お好み焼き屋でも、高齢者支援でも、ネットサービスでもいいけど)食べていくのに、大学や専門学校に(その授業料に見合う)価値があるとは思えません。

もちろんお金が有り余ってるなら好きに出費すればいいけど、借金までして、たいして価値のない学校に多額のお金を払うなんて本当にもったいない!
要は支出する前に、消費ならコストパフォーマンス、投資なら期待リターンとリスクを考えろって話で、節約意識のあるリタイア志向の人とっては当たり前のことなんですけどね。

2014年4月21日

欲の強さと早期リタイア

貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 本当に物が欲しくないのか、今一度よく考えてみよう。より:
そして彼らはこうも言います。「欲しいものがないなんて嘘だ、お金がない、稼ぐ手段がないからやせ我慢してるだけで、お金があれば欲しいものはいくらだってあるはずだ」
 この問いかけはなかなか真相を突いてると思います。
お金がないからやせ我慢…ですか。
これは違うと思います。

お金があれば欲しいものはいくらだってある…。
こちらは確かに正しいかも。ただ、「もしお金があれば」という仮定はお金を手に入れるためのトレードオフを無視しているので、天からお金が降ってくるような――たとえば親から遺産を相続するなどの――お金の入手方法の場合にのみ言えることでしょう。

「お金がないからやせ我慢」の方がおかしいと感じる理由を説明してみます。
人間の食欲や性欲にも大きな個体差があるように、後天的に形成された物欲の強さなんか本当に人それぞれで、同じ人でも人生のステージによって違うでしょう。世の中にはいろいろな欲が強い人の方がまだまだ多いのはわかりますし、資本主義経済が成長を続けているのも彼らのおかげです。でもいくら物質的に豊かになりたいと言っても地球の資源もエネルギーも有限だし、それ以前に人生の時間そのものが有限だから、無限の欲求を満たすことは不可能です。そうするとどこかに必ず線を引いてその向こう側にある欲求は切り捨てるしかありません。弱欲な人はその線をかなり手前に引いているだけのことで、強欲な人の場合でも必ずどこかに線があるのは同じです。

自分の欲の強さに応じた線を引くことを「お金がないからやせ我慢」と表現するならば、お金があって欲が強い成金・セレブ系の人たちも同じように、自らの線の向こう側にあるものが手に入らない状態をやせ我慢していることなりますが、果たしてこれは正しい表現でしょうか? 

資本主義社会においてお金があることが選択肢を広げるのは間違いのないことで、逆に言えば、お金がないと選択肢は狭まらざるを得ません。無限に選択肢を広げようとすると多額のお金を稼がねばならず、どこかで我慢を強いられることになります。それが嫌だから必死に働くという人は、たしかにいるんですよ。
まさにその通りです。
ただ、ここでも欲が弱い人にとっては「我慢を強いられる」と言うほど大層なことではなくて、お金を稼ぐ代償として失うはずだったものを失わない代わりに、それ以上選択肢を広げることを諦めるだけのことなんです。
選択肢が広がらない不自由と、働く不自由を天秤にかけて、前者が重たいと思えば働けばいいし、後者が重たいと思えば早期リタイアすればいいのです。

結局はトレードオフの話ではありますが、外こもりを目指すという人は、実際のところ自分という人間がどういう性格なのか、よく考えておいたほうがいいと思います。
同意します。
早期リタイアを目指す人も同じですね。

早期リタイアまで無事辿り着きリタイアに成功したとしても、その後のこともちゃんと考えたほうがいい。想定してる生活レベルがずっと続くことに耐えられますか? もっと豊かな生活を送るためにお金を増やすチャンスをちらつかされたら、そこに飛びつきたいと思ってしまいませんか?
私は想定している生活レベルがずっと(7年)続いていますが全く問題ありません。必要以上にお金を増やしたいとは思わないし、リスク資産を保有しているのはもっと豊かな生活を送るためではなく、長期にわたって資産の購買力を維持するためです。

たとえばリタイア後の生活レベルを現役時代よりも大きく下げることを想定している人は、落差が大きすぎて耐えられなくなるかもしれませんね。そういう意味でも、そしてお金を貯めるスピードを上げるためにも、現役時代に一度、目標とする生活レベルまで落としてみることが重要だと思います。実験の結果問題があるとわかったら、目標金額を上方修正してリタイアを遅らせるという手が使えます。

本人がこれ以上下げたら苦しいと感じる生活レベルの限界点を知らないままリタイアしてしまったら、そりゃ確かに危ういと思いますよ。リタイアした後になってからお金を増やすチャンスが気になってしまうようでは、そのあたりの計画性がまだ足りなかったということでしょう。

2014年4月7日

分散投資で早期リタイアは不可能?

こんなタイトルの記事が目に止まりました。
 無職さんのブログを見ていて、こんなことを考えました。  債券投資も含む分散されたポートフォリオで早期退職することは極めて困難≒事実上不可能なのではないか?  株式投資で分散されたポートフォリオの代表といえば、インデックス投資です。  1306やVTに投資した場合、1,2年で2,3倍になることはないと思います。..
heiseitureduregusa.blog.so-net.ne.jp

私の頭にある常識とは正反対の結論なのでちょっと驚きました。中身を見てみましょう。
 株式投資で分散されたポートフォリオの代表といえば、インデックス投資です。
1306やVTに投資した場合、1,2年で2,3倍になることはないと思います。
これに債券投資が加われば、リスクが減る分リターンも減少し、資産の増加ペースはさらに減少するでしょう。
つまり、債券投資も含む分散されたポートフォリオで早期退職することは事実上不可能なのではないかと思うのです。
1~2年で2~3倍というと、年率42%~200%という驚異的なハイリターンです。このようなペースで資産を増やせなければ早期退職できないという意味でしょうか? そうだとしたら明らかに論理の飛躍だと思います。

リタイアのための資産を増やす方法は資産運用だけではありません。毎年、働いて得た収入から支出を引いた残りのお金が資産に繰り入れられます。普通は誰でも資産ゼロからのスタートですから、収入の一部を使わずにとっておくことが資産形成の唯一の手段ですし、資産形成のスピードは、その「一部」の大きさ次第と言えます。

実際のところ、インデックス投資で早期リタイアしたとは聞いたことがありません。
確かに、
「インデックス投資のリターンが素晴らしく、驚くほど儲かったから早期リタイアできました!」
という人は聞いたことがないかもしれません。
ですが、早期リタイアを実践している人の中にも私のようなインデックス投資家は実在します。おそらくもっと多いのはインデックス投資すらやらずに、せいぜい銀行の定期預金のみで早期リタイアした人でしょう。彼らの共通点は、十分な資産を持つに至った主たる理由が資産運用ではないことです。

 もし、インデックス投資で早期リタイアができるとすれば、○○危機とか●●ショックで株価が大暴落した時にドルコスト平均法で資金を投入し、株価低迷時はじっと我慢、ある程度戻ったら、少しずつ売却して儲けを確定する。

これを、数千万円体単位で2,3回繰り返すしかないのではないでしょうか?
こういう手法はインデックスを利用しているだけで、その実態はアクティブ運用です。相場が低迷しているから買い時だとか戻ったから売り時だとかいうのは、あくまでも後になってから判明することであり、その時点で将来の相場は予想できません。実際、アクティブ運用をしているプロのファンドマネージャーの多くがインデックスに負けています。アクティブ運用がリタイアへの近道とは思えません。近道をしようとして、かえって遠回りになるリスクが大いにありそうです。

ちなみに私が考える早期リタイアへの一番の近道は、
「収入より遥かに少ない支出で生活すること」
です。

関連記事: 
けっこうな人気本のようですが、 資産がマイナスかもしくはゼロに近い状況にあり、このままではいけないと感じている「お金の問題児」である(かもしれない)あなたといっしょになって家計を立て直し、貯金をするための実践的なアドバイスをお伝えしたいのです。 と書かれているように、「お金の...
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2014年4月3日

早期リタイアしても他人の目は気にならない

人の目を気にしない環境で暮らしたい・・・以前にも書いたかな?: 無謀なリタイア生活(70歳まで生きのびれるか?)より:
アーリーリタイアすると、どうしても住んでる地域に縛られる。
自由な暮らしのつもりが、どうしても人の目が気になり、
毎日は、フラフラ出歩けない。
自由であって自由でない感じがします。

大都会の真ん中か、あるいは山奥で生活したほうが、
もしかしたら、人を気にせずに自由に暮らせるかもしれない。

都会なら、誰も他人のことなど気にしないので、
自由に行動ができる。
山奥なら人と会うこともないので、
まわりを気にする必要がない。
こういう意見、けっこうよく見かける気がします。
が、私はリタイアしてから他人の目が気になったことは一度もありません。

確かに住んでいる環境によってまったく違うのかもしれません。私の住んでいるところは大都会の真ん中ではありませんが、一応都市圏です。わりと規模の大きな集合住宅で近所付き合いなどは皆無です。隣人が何をしているかは知りませんし、関心もありません。
とは言え、平日の昼間に外出すれば、掃除のおじさんおばさんや管理人さんに出会うこともよくあります。彼らの目が気になるかといえば、まったく気になりません。

実際に平日の昼間に出歩いてみるとわかりますが、都市圏では高齢者ではない成人男性が平日の昼間に仕事をしていない姿をいくらでも見ることができます。もちろん女性と比べたら圧倒的に少ないですが、それでも「この人はこの時間になんで仕事をしていないんだろう?」とかいちいち気にしていたらきりがないレベルの数です。その人は、もしかしたら私と同じように早期リタイアして無職の人かもしれないし、平日が休みの職業の人かもしれないし、夜勤労働者かもしれません。「成人男性は平日の昼間に働いているのが当たり前」という法則は、都会では例外が多すぎて成り立たないように思います。

こんな具合に、私はその気になれば毎日でもフラフラ出歩けますので、人目が気になるという理由で山奥へ引っ越すことはないと思います。

2014年3月23日

『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その2



『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その1の続きです。

近藤 ぼくが本を書いてきたのは「みんなに知らせたい」というより、誰かが、がんの治療について正しいことを知りたいと思ったときに、情報が欠けてると困るだろうから、選択肢のひとつとして知るチャンスがあるようにしたいと思ったんです。
本書でもそのような意図を十分に感じることができ、多くの日本人に欠けているであろう情報のピースが詰まっています。

近藤 いままではたいていの日本人に「命の長さが絶対」という思い込みがあったし、医者の方も「家族に一生懸命やってるところを最期だけでも見せなきゃ」というのがあったんですよね。夜中に容体がおかしくなると「家族は死に目に立ち会うべきだ」という通念があるから、医者が「お~い家族はまだか」と言いながら、死んでるのに形だけでも心臓マッサージを続けるとか。
中村 そうそう。「死に目に立ち合わせたい人がひとり到着してない。なんとかなりませんか」とか。患者さんもよく「みんなに囲まれて死にたい」と口にしますし。だから、死んでいく人間を無用に苦しめて随分痛めつけましたよ。家族には、とても感謝されましたけれど。
このあたり、医療現場の本音と建前のギャップが伝わってきてとても興味深いです。医師という立場上は書きにくいはずの本音の部分がズバズバと書かれています。

中村 家族としてはつらくても、本人が死ぬべきときにきちんと死なせてあげるのが、本当の愛情でしょう。本人と話ができるならともかく、虫の息の状態を引き延ばすなんて、視点を変えれば「鬼のような家族」でもあるわけです。
まさにその通りで、私も両親の臨終の際には鬼のような家族にならないように気を付けたいと思います。

中村 ほとんどの日本人が医療については思考停止状態で、「病気のことはなにもわからない」と医者に命をあずけてるから、聞きたいことも聞けないですしね。
介護するときも、病人が苦しもうがなにしようが「生かすことはいいことだ」って生活の質まで考えてない。
医者自身が思っている医者の存在価値はまず第一に病気を治すことですから、医者に判断を丸投げしてしまえば、かなり絶望的な状況でもQoLは二の次で治療を薦められるのではないかという不安がありますね。

著者たちのように、治療で期待できるメリットと失われるQoLを冷静に比較衡量して、時には「放置しましょう」という判断ができる医者に出会いたいものです。そういう医者が増えるためには、患者やその家族が「医者が匙を投げること」に対してもっと理解を示さないとダメだろうなと思います。

中村 いまの健康保険制度は、なだらかな改革では追いつきませんからね。もう若い世代が支えきれないから一気につぶれるでしょう。そしたら今度は、いままでと同じようにはいかなくなる。年寄りがちょっと具合が悪いと病院に行く、弱ったら病院に行くっていうのが難しくなってきますよ。
本来、医療のコストはそんなに安いものじゃないのに、国民皆保険制度、しかも高齢者ほど優遇される仕組みのせいで異常に安く見えてしまってますからね。そんな美味しい健康保険制度なら、本来もっと保険料を高くしないと大赤字になって即座につぶれるはずですが、そこは日本国伝家の宝刀「国庫負担」によって無理やり帳尻を合わせているわけです。

近藤 ぼくはもう、特にやりたいこともないから、なんでもいいですね。前にも言ったように、早くお迎えが来ないかなあと思ってる方ですから。長く生きることに価値はないです。寿命は70歳ぐらいでいいですよ。
近藤先生は1948年生まれなので現在65~66歳。私もそれぐらいまで生きて、こういうセリフが言えるようになるのが一つの目標です。でも70歳になったらなったで、もうあと5年、生きられたらいいなとか言ってるかもしれませんけどね。
「長く生きることに価値はない」という言葉には「QoLが伴っていなければ」という条件付きで同意します。

そして2人は、異なった道を歩んできたものの、同じ結論に達しています。
がんで自然に死ぬのは苦しくなくて、むしろラク。がん死が痛い、苦しいと思われているのは、実は治療を受けたためである、という結論です。そして、検診等でがんを無理やり見つけださなければ、逆に長生きできるとも。
今まで常識だと思い込んでいたことと余りに正反対なので、にわかには信じがたいと思います。私もこの結論を100%鵜呑みにするつもりはありません。
この結論がすべてのケースに当てはまるのではなく、(今のところはどの程度の確率なのかわからないけど)そうなることもあるのだな、という認識に留めておいて、もし自分や家族に何かあったとき治療をするのか否かなどの重要な判断をする際に、自分の頭で考えるための材料にできればいいと思います。

2014年3月19日

『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その1



近藤 検診によるがんの早期発見は、患者にとって全く意味がないです。それどころか、必要のない手術で臓器を傷つけたり取ってしまうことで身体に負担を与えますから、命を縮めます。
「全く意味がない」はさすがに極論かなと思いますけど、がんは早期発見さえできれば助かるという刷り込みから解放されるには、これぐらいのことを言う医師がいたほうがいいのかもしれません。

中村 これまで、70歳前後の有名人が何人も、よせばいいのに人間ドックを受けたためにがんが見つかり、目いっぱいの血みどろの闘いを挑んだ末に、玉砕して果ててますよね。
がんと闘うという賭けに出て負けたのは結果論でしかないので、どんな場合でも賭けに出るべきじゃないとは言えませんが、相当に不利な賭けだなという印象を受けますね。

一般人よりも充実した人生を送ってきたはずの有名人でさえ、それぐらいの歳になってもまだQoLを犠牲にしてまで余命を延長する賭けに出るのが不思議でしょうがないです。もし私が70歳でこんな悪あがきをしたくなるほどこの世に未練があるのだとしたら、残念ながら私の人生は失敗だったということになります。

近藤 がんには、見た目は同じでも「早い段階でさまざまな臓器に転移し、命を奪う本物のがん」と「転移しない、命にも支障のないがんもどき」があります。
(中略)つまり本物のがんは、早い段階で多数の臓器に転移している。だから、検診で見つかってから標準治療(外科手術、放射線、抗がん剤)をしても治りません。
これが検診無意味の理由です。
ここも「治りません」は極論で、中には治るケースもあるでしょう。
しかし私は結果がどうなるかよりも、がんの標準治療はどれもQoLを著しく下げるということが大問題だと思います。このトレードオフを勘案せずに治療を選択する愚だけは避けたいところです。

ひとつ覚えておくといいのは「痛い、苦しい」など、日常生活で不便を感じる症状がなく、検査や人間ドックや会社の検診などで見つかるがんはほとんど、がんもどきだということです。
がんもどきであれば放っておいても命に支障はないので、結局、会社員時代に毎年受けていた健康診断っていったい何だったんだろうということになりますね。

近藤 CT装置(人体にエックス線をあて、輪切り画像をコンピュータ上に展開する装置)の台数は、日本がダンゼン世界のトップ。CT検査による被ばく線量も、検査が原因の発がん死亡率も世界一です。
(中略)
日本で行われているCT検査の8~9割は、必要のないものです。
このように検査が原因で死亡するリスクもあるのですが、ほとんど認知されていませんね。がんが怖いというイメージは必要以上に刷り込まれてますけど。

中村 日本人は「後期高齢者」と呼ばれるのをイヤがるように、老いや病から目をそむけて、その先にある「死」を異常なものとして、見ないように、考えないようにしている。
 検診も「がんと言われたらこうしよう」じゃなくて、とりあえず健康証明がほしいからいろいろ受けている。「生きる」ことしか考えていない年寄りが多いです。
やれやれ。いくつになっても生に執着するのが人間の性なんでしょうかね~。

近藤 みんな「老化だから仕方ない」と言われたくなくて、「病気だからこうしたらいいですよ」と言ってほしい。年を取ったら、腰が痛い、肩が痛い、足が痛いっていうのは当たり前で、それを全部よくしてくれって望むから、変なことになる。
中村 年のせいっていうのを認めたがらないですよね。医者のところまで来て「年のせい」と言われたくない(笑)。「そんなことはわかってる」「わかってるなら来るな」ってケンカになっちゃいますから。
やっぱり病院は、ホイホイ行くところじゃないですよ。みんな、どんな病気で来てるかわからないんだから、軽い病気で行って、重い病気をおみやげにもらって帰ることって十分あるから。本来“いのちがけ”で行くところなんですよ。
老いるということは、こういうことなんですね。
老化は20代から既に始まっているとはいえ、実際に老いを顕著に感じ始めるのは老眼、頭髪の変化、肌のシワ、体力の衰え、が着実に進行する40代あたりになるのではないでしょうか。私が今まさにそれらを実感しています。これが老化というものか! みたいな(苦笑)。
この老化の延長線上に今の老人たちがいるのかと思うと、彼らの悩み、苦しみは十分想像できます。今の私でさえ、これ以上小さい文字が読めなくなるなんて、これ以上階段登りがしんどくなるなんて、これ以上髪の毛が(以下略 etc.
ちょっと信じたくない、こんな老いた姿は自分ではない、と思いたくなりますからね。

気持ちは分かるのですが、その感情の赴くままに振る舞い、医者にないものねだりをする老人は正直言って醜いし、そういう老い方だけはしたくない反面教師だなと思います。

(つづく)

2014年3月8日

超不安定で将来が不透明な収入

金融資産で生活してブログで小遣いを稼いで遊んで暮らす | SOUTAi 40代で早期退職よりネタを拝借。

支出を生活費と小遣いに分けて考えるのは「心の会計」の典型のような気もしますが…。それはさておき、
アドセンスやアフィリエイトの収入は「超不安定」で「将来性が不透明」なので依存するのは危険。「収入」というよりは「贈り物(プレゼント)」と思っておいた方がいい。
これって私が将来の年金収入に対して思っていることとまったく同じだったりします。

「○月○日から単価を半額にします」
「突然ですが、サービスを停止します」
と言われたら、それで終わり。
これもぴったり当てはまりすぎです。
もし年金がこうなったら笑えない人も多いでしょうけど、そういう笑えない状況に陥らないためにも、国の制度に依存するリスクをできるだけ下げておく必要があると思います。

2014年3月1日

資産が目減りする恐怖との付き合い方

リンク&トラックバック御礼。
資産が目減りする恐怖 - 一日不作一日不食より:
理性としては問題ないとは思っていますが、実際リタイア生活を始めて、資産が目減りするのを目の当たりにしたらどうなるかわかりません。遊民さんの「高等遊民の備忘録」で、「2013年末の資産残高推移」という記事がありましたが、2008年は-37.4%という減少幅を記録していました。
このときは正直言って恐怖でした。(関連記事: ストックが減る恐怖
あの頃は100年に一度の暴落に対して免疫があるはずもなく、リタイアしてわずか1年余りというタイミングも最悪で、「えっ? たった1年でもうこんなに減ってしまったのか… がびーん!」 みたいな衝撃がありました。これだけの資産を失うのにかかった時間の短さと、この先の人生の時間の長さをどうしても見比べてしまったわけです。もしこんなペースで資産が減ったら人生オワタ、じゃないかと。

でも冷静に考えたら見るべきポイントは過去に失ったお金ではなくて、その時点で残っている資産額と残りの人生で必要になるコストだけでよいはず。「損切り」の不合理で引用した通り、
投資判断てのは常に、未来に向かってすべきものだ。それ以外にあり得るわけがない。
のです。
株が下がった、資産が減ったというのは過去の情報でしかないため、その恐怖に煽られて今まで継続してきた資産運用の方針を見直すなんてことは、長期投資家が最もやってはいけないことだと思います。

怖いから、不安だから○○するという行動パターンは、合理的でないことがよくあります。これが人間の脳に宿る不思議な習性の一つであることを、主にこの本から学びました。
9.11のテロ後1年間、恐怖に駆られて移動手段を(より安全な)飛行機から(より危険な)車へシフトした米国人が増え、その結果命を落とした人は1,595人に上ると推定されるとか。つまり、 彼らの愛するものたちを奪ったのは恐怖だった。 のです。 すべての人の脳は一つではなく二つの思考シ...
yumin4.blogspot.jp


恐怖を感じるなというのは生理現象を我慢しろと言っているようなもので、そもそも無理なことですから、恐怖は大いに感じていいのです。ただ、直感的に恐怖や不安を感じた時は、感情のままに動くのではなく、システム・ツーを起動してシステム・ワンの衝動をコントロールしなければなりません。感情と行動を直結しないことが重要です。

私はこのようにして恐怖や不安という感情と上手く付き合っているつもりです。リーマン・ショックというワクチンを注射されたときは痛かったけど、そのおかげで強力な免疫ができたので、今後の暴落で感じる恐怖も和らぐことでしょう。

それでも不安とうまく付き合えない人が少しは気が楽になる考え方としては、成為さんのように
いざとなれば働けば良い話です。
というオプションを留保するのもアリでしょう。
当ブログにおける早期リタイアの趣旨は人生後半の貴重な時間の切り売りをやめるということなので、そのオプションの選択は本当に最終手段となります。その前に、期待される人生の残り時間に対して資産が足りないことが予測できた時点で、まずは生活コストをカットすればいいと考えています。ただでさえ節約生活なのにこれ以上は下げられない? それが頭が硬い人の思い込みに過ぎないことを、私はこの本から学びました。
Bライフ研究所 が書籍化されたものらしいのですが、このサイトはあまり読んでいなかった私にとっては、非常に新鮮な内容でした。 著者の毎月の生活費は2万円程度。 Bライフ研究所 ≫ お財布 に内訳が書かれています。 年に25万円も稼げば、最低限生きていける。 生活コストを下げるといっ...
yumin4.blogspot.jp
日本製の超高級家屋に住んでいる人が何を言っているんだと笑われてしまいます。

小屋暮らしがダメなら外こもりもあります。地方や海外へ移住したっていいでしょう。
頭は柔らかく、背負う荷物は少なく、気楽にいきましょう。

2014年2月16日

近視と老視の決定的違いがわかる、7インチタブレットとリモートデスクトップの組合せ

寒い季節にはデスクトップPCの前に座るのが辛くなりますね。
そこで、手持ちのタブレットPCをコタツトップPCにして、家庭内LAN経由でデスクトップ機の画面にアクセスするという方法があります。外付けのBluetoothキーボードやマウスを接続すれば、タブレットPCが簡易ノートPCに早変わりします。

デスクトップPCへのアクセスには、
Splashtop 2 Remote Desktop - Google Play の Android アプリ
を使ってみましたが、解像度1280x800でNexus7の画面に表示すると文字がかなり小さくなってしまい、老眼が進行中の私には虫眼鏡が必要なほどでした。

その一方で、
目にやさしいiPad mini+キーボードのもう一つの使い方 | Step to Next Lifeより:
表示される文字やボタンがかなり小さくなってしまうことが難点ですが、iPad miniの場合は手で持って視点を近づけることができますので、あまり苦になりません。

この使い方をしていて気がついたのは、iPad miniを10?20cm程度の至近距離まで近づければ、視力0.1以下でメガネが手放せない自分でも、Mac上の文字を肉眼で読めることです。
同じ7インチのiPad miniに表示しても、私とは対照的に「目にやさしい」と感じる人も…。

これが近視老視の決定的な違いなんですよね。
老視が進行すると、文字が小さいからといって画面を至近距離まで近づけるのは逆効果で、ますます見えなくなるんですよこれが。私も自ら老視の症状を体験する前は、近付けるほど見えなくなるとはどういうことなのか、よくわかっていませんでした。

老視の人にとっては、小さい文字を如何に大きく表示するかが重要です。具体的には、もっと解像度を下げて表示できるリモートデスクトップアプリを使う、もっと大画面のタブレットPCを使うなど。

近視や老眼でディスプレイを見るのが辛いと感じている方は、一度試してみてはいかがでしょうか。
ということで、近視と老眼では対処法がまったく異なるので注意が必要です。

2014年2月1日

リタイアした人の投資法

「年金の奴隷」から解放されることで、老後の不安をなくす - 内藤忍の公式ブログより:
年金生活を前提にすると、年金の支給額によって自分の老後の生活が縛られることになります。支給が減れば、生活は苦しくなり、インフレになっても、実質的に年金支給額が減るのと同じことが起こります。

国から支給されるお金に縛られながら、ずっと不安なまま大切な人生の最後の時間を過ごす。そんな、悲しい展開から脱却するためには、自らの力で、「年金の奴隷」から解放されるようにすることです。
賛成です。
特に年金支給開始まで20年以上待たねばならない40代以下の世代にとって、現行制度のような大盤振る舞いの年金収入を計算に入れることは、できるだけ避けたほうがよいと思います。

やや挑発的ですが「年金の奴隷」という言葉が、国の制度に依存するリスクをうまく表現できています。

しかし、良記事の期待が高まったのも束の間、その後の展開がぶっ飛んでます。
リタイアした人は、値上がりを目的とした投資ではなく、継続的なインカム収入を目的とした投資をしなければならないのです。
えぇっ?
継続的なインカム収入を目的とした投資をしなければならない!? 
まったくそんなことは無く、値上がり目的の投資をしても、あるいは投資自体をしなくても一向に構わないと思うのですが。
残念ながらこの記事にその理由は書かれていません。続きはセミナーで、ってことなんでしょうけど…。

リタイアするまでに、複数の不動産を保有しておく。これが「年金の奴隷」から解放されるための方法だと思います。
えぇっ?
現物の不動産に集中投資ですか!?
ますますあり得ません…。

以前内藤氏の本『預金じゃイヤだけど投資はコワい ボクの“負けない”人生戦略』 内藤 忍 (著)を読んだ時点での彼のイメージからすると、最近になって唐突にワイン投資や不動産投資の話が出てきたように見えるので、かなり頭が混乱しますね。

2014年1月14日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その3



ここでもうひとつ、興味深いアンケート調査を紹介したい。
「楽しい時間を過ごすことが重要ですか」という質問だ。
「非常に重要」と回答した日本人はわずか1.8%しかおらず、「重要」でも5.1%であった。このふたつを合わせた6.9%は世界51カ国中で断トツに少ない。
6.9%という数字は嘘みたいに少ないですね。
多忙な現実に追われて未だ実現できていないのは仕方ないにしても、いずれ楽しい時間を過ごしたいという願望まで現実に合わせて抑圧する必要はないと思うのですが…。

楽しい時間を過ごすことが否定されるのは、「幸せな人生」の否定に等しい。日本人が世界では2番目の経済大国となり、平均寿命が世界最長、治安も比較的よい社会であるのにもかかわらず、幸福度が低い理由は、この「人生を楽しむ」という姿勢がないことが大きな原因のひとつではないだろうか。
日本人も別に楽しい時間を過ごすことを「否定」まではしていないと思うんですよねー。他にもっと重要なこと、すなわち世間の常識に従って、面倒やリスクを回避しながら生きることを優先した結果、人生を楽しむことの優先順位が低くなっているだけじゃないかと。

日本人は75%が「新聞や雑誌」を信頼し、70%が「テレビ」を信頼している。この結果は、他の先進諸国と比べて比較にならないほど圧倒的に高い。
他の先進諸国では日本とは対照的に、信頼していない人の方が60%~75%という結果だそうです。
私はもちろん日本人の少数派で、どちらも信頼していません。というか、最近はこれらのメディアに触れる時間がほぼゼロになったので、信頼性を評価することさえ難しくなりました。ごく稀にNHKの番組をネットで見たりしても、こんな感想しか出てこないので、信頼しないという判断は今でも外れてはいないと思います。
つまり日本人の世論の6割以上が、メディアによって一方的につくられている可能性が非常に高いということである。
インターネットという新しいメディアが登場してから20年ぐらいしか経っていないので、まだマスメディアの影響力には遠く及ばないのはわかるのですが、歯痒いですね。
特に日本は人口分布がいびつなので、オールドメディアしか知らない高齢世代が政治的なパワーを持っているのが厄介です。

ひとりひとりが真剣に考え、そして人と対立することを恐れずに、もっと対話や議論をすることが、変革への第一歩ではないだろうか。個性を育むのと、対立を恐れない議論を奨励するのは、同時に行われなければ意味がない。
フランスの哲学者ヴォルテールは、かつてこう語っている。
「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は、命をかけて守る」
これが対話の基本精神であり、また真に個性を尊重する姿勢である。
とても共感できる言葉です。
日本人は集団主義思想の影響で、意見の対立自体が好ましくないことだと思い込んでいて、少数意見を自ら抑圧して沈黙する人が多いのではないですか。

ネット上では誰もが匿名で自由に表現できるので、これまで抑圧されていた多様な意見が見られるのはとても良いことだと思います。

ただ、ネット上の表現を見ていると、匿名性の悪い面が現れ、意見そのものへの反論ではなく人格攻撃のようになってしまっていることがよくあります。これでは、お互いの個性を尊重する議論の仕方がまだまだ根付いているとは言えません。

人格攻撃によって気に入らない意見の持ち主を黙らせたり萎縮させることを狙っているのだとすれば、結局は「一つの正しい意見にみんなが従うべきだ」という集団主義的思想から抜け出せていないと思われます。

(つづく?)

2014年1月13日

お詫び

先ほどブログのデザインをカスタマイズしようとしてSeesaaブログのコンテンツHTMLを弄っていたら、なんとブログ記事の中身がまったく表示されなくなってしまって焦りました。

標準で用意されている記事用テンプレートを新たにカスタマイズする方法で何とか元の形に近いところまで戻りましたが、その2時間ほどの間に当ブログを訪問した方は、左右のサイドバーと中央のバナー広告だけが表示された奇妙な画面を見て驚かれたかと思います。失礼しました。

不具合が発生した原因は未だに不明です。

2014年1月10日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その2



「社会が発展する意義は、個人の選択の自由を広げることにあり、豊かさはその次である」と、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授はいっている。
なるほど。たいへん共感できる考え方です。

 では実際に、人々はどの程度の自由を感じているのか。次のアンケート調査が世界56カ国の人を対象に行われた。「あなたにとって、選択の自由と、自分の意志を反映できる人生がどの程度ありますか」
結果は驚くべきものだった。日本人が世界最低レベルの自由度を感じていたのだ。それも厳格なイスラム教国のイランや、最貧国のエチオピアよりも低い結果だった。世界で最も自由と感じている国は、メキシコ、コロンビアといった中南米諸国だった。
これまた衝撃的な調査結果です。
日本人は50年前よりも経済的には遥かに豊かになったものの、それと比例して選択の自由が増えたわけではなく、自由な人生を送っているとは感じていないようです。
今の私ならこのアンケートにはかなりポジティブな回答をすると思いますが、ネガティブな回答をする人の気持ちも分かります。なぜなら、
 日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうとも、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために好きなことができないと思っている場合が多い。周囲と同じことをするかぎり、恥ずかしいとは感じない。つまり「恥」と感じる心の奥底には、集団へ同化する圧力が背景にある。
早期リタイアを決意する頃にはすっかり世間の「常識」から解き放たれていたとは言え、しがらみや常識によって自分を縛り、選択の余地がないと思い込んでいた時期が私にもありました。親や教師の教えを無批判に受け入れていた子供時代だけでなく、たとえば大学時代に就職を決めたときもです。(関連記事:『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4

「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろう。しかし常識とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがっていつも常識を意識することは、いつも集団と同じ行動をすることでもある。家族、親戚、友人、近所の人々と、いつもどこかで誰かが、「常識」を盾に「見えない抑圧」で個人を制約しようとする。
もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本では、何が正しくて何が間違っているかという判断基準が、「それが常識的であるかどうか」なのである。
日本に個人主義や自由主義が根付かない原因がはっきり見えた気がします。
なにか世間の常識から外れたことをしようとして、周囲の人間から何らかの同調圧力を受ける経験をしたことのない日本人はいないと思います。憲法上は保障されているはずの個人の自由という権利を行使しているだけなのに、なぜか周囲からお節介な横槍が入って面倒なことになってしまいます。まあ、口出しされただけなら無視すればいいのですが、相手との関係次第では無視するのにも精神的エネルギーを消耗します。そういう嫌な経験が積み重なるうちに、人は無意識に世間の常識という楽なレールの上を歩くようになるのでしょう。

「常識的に生きる」ことも、それが無意識であるうちはそれほど不幸ではないのかもしれません。しかし、周囲からの同調圧力に屈した結果、常識から外れることができなかったとわかれば、とてつもない敗北感が襲ってくるのではないですか。私なら耐えられません。そういう意味では、本書を読まないほうが良い日本人も少なくないと思います。

(つづく)

2014年1月8日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その1



国、そして社会とは、そもそも何のためにあるのだろう。
(中略)
しかし少なくとも、これだけは忘れるべきではないだろう。国や社会、そして文化は、それを存続させるために存在するのではない。あくまで、そこで生きる人々の「幸せ」のために存在するはずではないだろうか。
とても共感できる言葉です。それ自体が目的ではなく手段の一つに過ぎないことを忘れるべきではないという点は、お金と同じですね。
本来の目的を忘れて本末転倒なことにならないようにしたいものです。

どうしたら個人の幸福度が上がり、本当に幸せな社会ができるのか。これは経済発展のように明確な指標がないため、複雑で非常に困難な問題である。しかし幸福度の高い国には、一貫した傾向があることも事実だ。そして日本を含めた東アジアには、同じように一貫した「幸福度を頭打ちにする社会構造」が存在する。
そういった法則のようなものが存在することを発見したのは、たいへん興味深く、意義のあることだと思います。

1958年から2000年まで、日本人の生活満足度はほとんど変化していない。その間に、ひとり当たりの実質GDP(国内総生産)は6倍以上も上昇している。つまり日本の「経済的成功」と国民の「満足度」が、まったく無関係なのである。
これは衝撃的な調査結果です。一人あたり実質所得がたったの50万円だった55年前の時点で既に、日本人の生活満足度は頭打ちになってしまったとは…。
かつて劇的な所得上昇をもたらした所得倍増計画でさえ国民の満足度は上がらなかったというのに、アベノミクスごときで仮に所得が増えたとしても日本人が幸せになるとは思えませんね。

東アジアは文化的に共通点が多く、歴史的にも古くから密接に関わっている。特に三教といわれる儒教、仏教、道教が大きな影響を与えている。その中でも儒教は、仏教や道教とは決定的に異なる点がある。それは儒教が、社会性や政治性といった「社会組織の原理」を説いていることである。そして儒教の社会性は、主に集団主義を意味している。
(中略)
儒教に「個人の自由」という教えはない。儒教の思想は、江戸時代の厳格な身分制度である士農工商制度と合致していたので、徳川幕府が「儒学」として積極的に取り入れた。
(中略)
規律や制度に重点をおくことで、統治する側から見れば都合がよかったのであろう。時の権力者が、個人の行動を縛ったのである。
(中略)
現在の日本でも、無意識に儒教に影響されていることは多い。
(中略)
年齢差や社会的立場によって言葉遣いを変え、集団内での先輩・後輩の関係など、個人の内面や実力ではなく個人の属性、つまり表面的な立場で人を判別する制度は、儒教の影響といわざるをえない。
儒教恐るべし! 
江戸時代に日本人に植え付けられた集団主義の思想が、親から子へ、子から孫へと、何世代もの人間を経て脈々と現代まで受け継がれているなんて…。たまたま為政者の都合で輸入されてきただけの教えを、庶民が律儀に守り通している姿が滑稽に映るのと同時に、これらの「常識」が無意識に自分の脳内にも刷り込まれていることに気付いて、気味が悪くなります。

子供の頃に親や教師からそういうものだと教わって無批判に受け入れた常識の数々が、儒教的思想に基づくものでないかどうか、一度棚卸ししてみる必要がありそうです。

いや、恐ろしいのは儒教に限りませんけどね。戦前の日本で神道が為政者に都合よく利用されたように、宗教的な意味合いをもつ儀式や慣習などは、人々が思考停止に陥りやすいウィークポイントだと思います。

(つづく)