2014年9月7日

『諦める力 〈勝てないのは努力が足りないからじゃない〉』 為末 大 (著) その3



その2の続きです。

 人々を”平等原理主義”に駆り立てるのは何だろうか。
僕は「かわいそう」と「羨ましい」の感覚だと思っている。自分を基準にして「自分より不幸でかわいそう」な人たちを救うべきだと考える一方で、「自分たちよりいい思いをしていて羨ましい」人たちからはもっと取るべきだと考えるのだ。
(中略)
しかし、多くの人が考える一番のセーフティゾーンが「みんなといっしょ」というところになると、社会に活力がなくなるのではないかと思う。
同意します。
実際に、社会の隅々まで平等主義的、社会主義的な規制や政策が張り巡らされているこの国では、既に社会の活力が大きく損なわれていると思います。

平等原理主義は義務教育による刷り込みの影響も大きいような気がします。
皆さんは、中島義道さんが「みんな一緒主義」と呼ぶ奇妙な価値観を、小学校あたりで植え付けられた記憶はありませんか? 私の場合は、改めてそういう観点で小学生時代(既に遠い過去ですが)を振り返ってみると、思い当たる体験を幾つか思い出しました。

大人になってからも、たとえば経済的格差の拡大を悪だと思い込んでいる人が何と多いことか。資本主義の歴史は格差拡大の歴史でもあるのですが、他人が3倍豊かになっているのに自分は2倍しか豊かになっていないから資本主義はけしからん!格差を是正せよ! みたいなことを言う人がどうやったら洗脳から解けるのかわかりません。

 世の中はただそこに存在している。それをどう認識してどう行動するかは自分の自由で、その選択の積み重ねが人生である。なんてひどい社会なんだ。そう嘆きながら立ち止まっているだけの人生もある。日々淡々と自分のできることをやっていく人生もある。選ぶのは自分だ。
これは名言。
本書に一貫する「前向きな諦め」の提案だと思います。

ひどい社会だと嘆くことを積み重ねていけば、次第に人々に伝わり、遂には社会を変えるに至ることがあるかも知れず、表現し続けるのが無駄だとは言い切れませんけどね。私も日々ツイッターでやってますし(笑)。
でもそればっかりに熱心で、社会や環境の方が自分の都合の良いように変化してくれるのを待っているだけでは、結局何の対策も打てないまま人生が終わってしまうでしょう。

 僕は昔から、人間関係を整理するとか、モノを整理して捨てるとか、かかっている費用を圧縮するということを定期的にやっている。捨てることで小さくなったり、軽くなったり、安くなったりするのが好きなのだ。しかも、モノを捨てて小さくなることで、選択肢が広がるような気になっていく。
「ああ、これがなくても生きていける」
「この程度しかかからないのなら、仕事をやめてもしばらくは大丈夫」
そういう気分だ。いつでも舞台から降りられるという解放感が生まれる。
私のような節約系早期リタイア実践組や、早期リタイア志向のサラリーマンが考えていることと全く同じじゃないですか!
何だか親近感が湧いてきます。
まあ、アスリートの場合はまだ30代にして早期ではない普通のリタイアをするわけで、サラリーマンよりもずっと早くから第二の人生のことを意識しているのでしょうね。

 やらなくてもいいことはやらない、つき合わなくてもいい人とはつき合わない。
そう割り切ると、思いもしなかった自由さが手に入った。自由になることは、財産が増えていくことと反比例するような気がしている。できることなら、ほとんどのことをまっさらにしておきたいくらいだ。
僕たちは生きていかなければならない。生きていくためのサイズを小さくしておけば、やらなければならないことが減っていく。何かをやめることも、何かを変えることも容易になっていくのだ。
ほんとその通りですね。
財産が増えていくことと自由度が「反比例する」というのが腑に落ちませんけど、ここでいう財産とは資産のことではなくて身の回りの持ち物的な意味合いなのかなと。

早期リタイア志向の人にもたいへん参考になる考え方だと思います。

(つづく)

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