2009年5月26日

『クラウド・コンピューティング』



「クラウド・コンピューティング」とは具体的にどういったものを指す言葉なのだろうか。ここで改めて、「クラウドとは何か」をまとめてみよう。
 クラウドの特徴は、主に四つある。
 一つ目は「サービス化」。従来のように、作業をパソコン内や携帯電話内にあるローカルのアプリケーションで行うのではなく、インターネットなどの向こうにあるサーバーで処理を行い、利用者はその操作や処理結果の確認のために、パソコンや携帯電話を利用する。
 二つ目は「ボーダーレス」。サービス化したソフトを利用できる「窓口」となる、ウェブブラウザーなどがあれば、パソコンのメーカーやOS、はては「パソコンか携帯電話かテレビなのか」といったことも問わない。通信ができるところからならば、どこからでも、どのような機器からでも、同じサービスが利用できる。
(略)
三つ目は「分散」。データは、手元の機器の中にだけあるものではない。どこかのサーバー内にあってもいい。さらには、複数の機器にまたがって存在してもいい。
(略)
四つ目は「集約」。サーバーで多くの処理を行うということは、個々人の持つパソコンや携帯電話には、それほど能力が必要ではなくなる、ということでもある。
(略)
 これら四つの要素からいえることは、意外と単純な事実である。要はクラウドとは、ネットワークの力を最大限に発揮することを前提にしたコンピューターの利用形態、ということなのだ。
全体的に目新しい要素は少なく、やはりバズワードにすぎないのかなという印象です。

ただ、世の中にはまだ 「パソコンも、ソフトなければただの箱」 というイメージから抜け出せない人もいるようなので、そういう人が読むと非常に価値のある内容かもしれません。

本書で紹介されているサービスのうち、既に私が使用しているもの。
・iGoogle
・Gメール
・グーグル・カレンダー
・グーグル・マップ
・エバーノート
・オープンオフィス

本書を読んで興味が湧いたモノやサービス。
・多機能ネット家電「チャンビー」
・Eye-Fiカード
・Windows Live SkyDrive

2009年5月24日

『読書は1冊のノートにまとめなさい』



「インストール・リーディング」のマニュアルです。
インストール・リーディングとは、単に速く、多く読みこなす技術ではなく、本の中身をきちんと咀嚼して確実に自分のものにする技術です。

具体的には次の5段階のフローで構成されます。
①探す・・・・・ハズレやムダを減らす効果的な「情報収集」と欲しい本の「リストアップ」
②買う・・・・・書店やネットを使った「効率的な本選び」
③読む・・・・・「読書ノートへの引用箇所」を探しながらリーディング
④記録する・・・・・重要な箇所だけにフォーカスして「読書ノート」を書く
⑤活用する・・・・・読書ノートを、あとで参照できるように「索引化」する
インストール・リーディングという言葉は初耳でしたが、普段私が実行しているフローと奇妙なほど酷似しています。②の「買う」を「借りる」に置き換えて⑤を省略すると、ほぼ同じになります。

あとがきに、
このウェブ全盛の時代に、本書は極めてアナログの読書術です。
と書かれている通り、本書でいうところの「1冊のノート」とは紙のノートです。しかし紙に書くことが重要なのではなく、PCでもPDAでも携帯電話でも、自分の使いやすい道具を使えばよいと思います。デジタル人間の私はもちろん紙のノートは使わず、PCを使って書いています。実は当ブログの読書カテゴリーの記事は(この記事も含めて)、④で作成した読書ノートそのものです。こうして最初からオンライン化しておけば、⑤の「索引化」という面倒な作業を省略できるので、さらに効率的になると思います。
 2008年8月5日、『○○○○』読了、面白かった。

 この程度であれば、誰でも続けることができます。
 「こんなものでいいわけがない」と思う方も多いかもしれません。
 ですが、僕はこの程度でも「読書ノートの効果はある」と断言します。継続することが第一のハードルだからです。
 何年、何十年と続けることができるシステムを運用してはじめて、参照したり、詳しい読書ノートを作ったりといった応用が利くようになるのです。だから、「継続できること」はすべてに優先します。
 感想は、「すごい!」とか「えー!」とかでもいいでしょう。継続するのがいちばんの目的です。気の利いたことを書こうとして、筆が重くなることだけは避けねばなりません。
気の利いたコメントを書こうと意識すればするほど筆(キーボード?)が進まない、という現象は私も体験済みです。とにかくそのとき感じたことを、ありのままに表現することを優先していこうと思います。
 読書ノートをつける前提で、買って、読む。これだけで、リーディングの意識は大きく進化します。
 人に教える目的で本を読むとよく身につく、という説があります。基本的にはそれと同じ理屈です。アウトプットを前提とすることでインプットの能力がアップするわけですね。
同感です。
 僕の読書ノートは少し変わっていて、「抜き書き+自分の感想」という組み合わせでできています。
私もまったく同じスタイルなので、これを「変わっている」と言われるのは心外です。(笑)
 読書ノートの書き方にもコツがあります。簡単に言うと「自分にとって大切なこと」に徹底してフォーカスすることです。
(中略)
 逆の言い方をすれば、自分にとって不要な情報は思い切って捨ててしまってもいいのです。必要なことだけに着目し、それを自分の体に落とし込むことこそ重要なのです。
 ならば、読書ノートに書く感想が「ひと言」だっていいはずです。
 自分が本のどこに共感したのか、それに対してどう感じたか、それだけにフォーカスするのです。つまり、
 ・「自分にとって」重要な内容(本の引用)
 ・そこで発生した「自分の考え」(本の感想)
 の二点にフォーカスします。
私もこの通りの方法で書いています。
読むときに読書ノートに引用することを前提としておくことで、読み方が「ぐっとくる箇所」を探す作業になってくる
(中略)
 要は読書を自分にとっての「重要箇所を抽出する作業」にしてしまうのです。
 そうすれば、余計な枝葉を払うような感じで、おのずと本を読む目的意識が絞られてきます。
ここは非常に「ぐっとくる箇所」でした。
 本を抜き書きすると、わざわざ自分の感想や考えを書かなくてもいいような気がしてきます。むしろ、せっかく抽出した本のエッセンスに、不細工な自分の言葉が混ざるように感じて嫌になったりする。
 でも、そこをぐっと堪えて、今の自分の言葉を書いておくことが大事なのです。
 なぜ、その文を抜き書きしたのか、自分の考えを保存しておくことは貴重な資料になるからです。
 それに、著者の言葉と自分の言葉を並列に並べることで、ギャップを感じることができます。たいていは「すごい」とか、馬鹿みたいなことしか書けないのですが、その自分の未熟さを直視して、どんな考えでも一応は書きつけることに慣れておく。
 これは本を読んで得た考えを取りこぼしなくストックしておくためです。そのためにはどんなに無様でも、一応は言葉にして、考えを再現可能な形にして保存しておく。
ここを読んで、自分の今までのやりかたは間違ってなかったんだと、妙な自信が湧いてきました。

2009年5月21日

『誤解だらけの「危ない話」―食品添加物、遺伝子組み換え、BSEから電磁波まで』



最近この手の本ばかり読んでいるので、もはや自分にとって意外な事実の発見こそ無かったものの、多くの人にお勧めできる良書だと思います。本書の著者は現役の新聞記者、つまりマスメディアの中の人でありながら、敢えてマスメディアとそれに踊らされる庶民を斬っているところに価値があります。

よくある「危ない話」の真実については次のように書いています。
添加物にせよ、遺伝子組み換え作物にせよ、電磁波にせよ、実際に私たちの健康を害するリスクはほぼゼロだと言ってよい。
 国内の農産物では0.02ppmの10倍近い殺虫剤が残留する果物がいくらでも流通している。
すでに私たちは10年以上も食用油や家畜のえさなどを通じて、遺伝子組み換え作物をたっぷりと食べ続けており、食べて安全かどうかという議論はとっくに決着がついている(もちろん安全だ)。
 実は、単位面積当たりの農薬使用量では日本が世界で最も多い。農薬使用王国は日本なのだ。しかし、そういった統計的な事実よりも、農薬を散布している映像や写真を何度も見せる方が人々の心を動かすのだ。
そして、メディアと庶民の関係について、
要するにメディアは科学ではなく、庶民の目線でリスク情報を報道しているということだ。「食品添加物が怖い」と書けば、多くの庶民が喜んでくれる。庶民が喜んでくれるから、また書く。やはりメディアと庶民(読者、視聴者)はリスク情報を交互に強化する「共犯関係」である。
と指摘しています。
ちょうど今、新型インフルエンザの件で大騒ぎしているのも、メディアと庶民の相乗効果に違いありません。
■マスコミは平穏嫌い
 人々が無事平穏に生活している光景は、それがいかに大切なものであっても、ニュースにはならない。その無事平穏な家庭で親が子供を殺せば、ビッグニュースになる。この親子殺しが半年に2、3度起これば、メディアの世界では日本の家庭は崩れた、となる。
(中略)
 少しでも景気が悪くなると、いまにも大恐慌が勃発するかのごとく、嬉嬉として景気の悪化記事を書くのがメディアである。まさにジャーナリズムは騒乱、混沌を愛し、無事平穏を憎む。
マスコミがこうなってしまったのは、元はといえばわれわれ庶民が危険や騒乱のニュースばかりを欲するせいです。これは、庶民の日常がよほど平穏で退屈している証拠かもしれませんね。

マスメディアに接する際には、このような方向のバイアスが存在することをどんなに意識してもしすぎることはないでしょう。

そして、安全、安心のコストについては次の通り。
 身の回りを見渡せば、怪しげな情報が多すぎる。ささいなリスクを大げさに報道するマスメディアのおかげで、だれが一番喜んでいるのだろうか。ひとつは権限の増えるお役人だろう。
 食の問題が起きるたびに、「検査をもっと強化せよ」 「食品監視のGメンをもっと増やせ」 「トレーサビリティーの制度をつくれ」 などなど、税金を増やす分野は増えていく一方だ。消費者保護庁の新設が決まったのも、この流れだ。官僚組織の肥大化以外の何ものでもない。
 BSE(牛海綿状脳症)対策では、すでに国や自治体による約4000億円の税金と食品関連業界で6000億円の損失、合わせて1兆円の金額が費やされた。このことを『おもいやりはお金に換算できる!?』(講談社)で指摘している環境経済学者の有路昌彦氏は「牛肉を食べて感染して死んだ人は1人もいなかったのに、日本人は食の安全に1兆円をかけた」と書いている。
 BSE問題では、「安全・安心」というおかしな言葉が流行したために、「安心」のために全頭検査をやってほしいという声がいまだに強い。人の気持ち、感情はいろいろだ。世の中には何をやっても安心できない人がいる。そういう安心できないひとがいるから、という理由で、安心している人たちからも税金を取り立てて、無駄な安心対策に税金を費やすことがどこまで許されるのか真剣に議論しなくてはいけない。
これらの意見に全面的に賛同します。

2009年5月11日

『退職金は何もしないと消えていく』



定年退職世代向けの資産運用入門書です。
2000万円~3000万円程度の退職金が貰えて年金もそこそこ貰える逃げ切り世代が60歳前後から資産運用を始める場合、という前提なので、今の40代以下の世代が読んでもピンと来ないと思います。

長生きリスク、インフレリスクばかりを強調して、現役時代にリスクを取らなかった人たちの危機感を煽り、60歳にもなってから急にリスクを取れというのも、ちょっと都合の良すぎる話に聞こえます。

著者が退職世代向けビジネスを飯の種にしていることを割り引いて読める人でないと、思わぬ落とし穴に嵌るかもしれません。

2009年5月6日

『人生に生きる価値はない』



いろいろな意味で面白い内容で、私にとっては久々の「当たり」本でした。

Wikipediaによれば著者は「戦う哲学者」だそうで、たとえばこちらのブログで引用されているような奇特な行動を積極的に行う様子は、強烈に印象に残ります。世間からは「変人」とか「KY」というレッテルを貼られて白い目で見られる人物に違いないだろうと。

本書のタイトルにある「人生の価値」とはまさに哲学的なテーマで、いくら考えても答が出るとは思えませんが、あとがきに書かれている次の言葉は印象深かったです。
いかに懸命に生きても、真も善も美も何もわからないまま死んでしまう。あとは宇宙の終焉に至るまで私は(たぶん)永遠の無であり、おまけに百万年もすれば人類が存在したあらゆる証拠はこの宇宙から完全に消滅してしまう。これって、考えれば考えるほど凄いことじゃないでしょうか? これでもう、生きる気力がなくなりそうになるのでは? 少なくとも、生きる価値がない理由としては充分すぎる。みな気が弱くそのくせ狡賢いからこの残酷さを直視せずに、なんだかんだ生きる価値を見つけたつもりになっているだけなのです。
「百万年もすれば・・・」の部分は、その頃には銀河帝国が繁栄を謳歌しているだろうという楽観的な人もいるでしょうから「百億年」ぐらいをイメージしたほうがいいかもしれません。いずれにしても、普段そういう時間スケールで物事を考えないので目から鱗が落ちました。

ただ、この事実を鼻先に突きつけられたからといって、生きる気力がなくなるなどということは、私の場合たぶんないです。目的や価値があろうがなかろうが、今こうして心身ともに健康に生きていることを幸福だと思えるからです。

他にも次のような物の見方、考え方には素直に共感できました。
いじめの「本当の」原因とは何であろうか? それは、わが国の国土をすっぽり覆っている、いや日本人のDNAの中に染み込んでいるとすら思われる「みんな一緒主義」である。あるいは、協調性偏愛主義であり、ジコチュー嫌悪主義であり、形だけ平穏主義と言ってもいい。つまり、日本人のほとんどがそれに絶大な価値を置いていることこそが「日本型いじめ」の真の原因なのだ。
 容易にわかることではあるが、協調性にはそれ自体としての道徳的価値はないのだ。協調性のある人とは、「周囲に合わせられる人」にすぎない。周囲が魔女裁判に熱病のように浮かされているときに、魔女を火あぶりにしようと真剣に企む人であり、周囲がユダヤ人狩りに精を出しているときに、ユダヤ人を躊躇なく密告する人である。つまり、与えられた状況が何であろうと、それを批判することなく受け容れることのできる人なのである。とすれば、時には協調性のないほうがいいこともある。
 こうして、いじめのあまり自殺してしまう少年少女たちは、現代日本に蔓延している「みんな一緒教徒」による迫害の犠牲者なのだ。いじめの原因は、自分勝手な人、集団の調和を破る人、協調性のない人、エゴイストを嫌うあなたの常識のうちにある。自分を抑えて全体のことを考えるあなたの美徳のうちにある。みんなが給食を食べているのに、一人食べない子がいると気になる感受性のうちにある。みんなが絵を描いているのに、「描きたくない!」と叫ぶ子を非難する目つきのうちにある。
 最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。
(中略)
しかも、最も悪質なことに、自分の鈍感さがいかに巨大な加害性をもっているか想像もしない。よって、いささかの自責の念もない。それどころか、疑問を抱き続ける人を排斥しようと身構えているほど加害的である。


思わず爆笑したエピソード。
 なお、わが電通大も毎学期末になると学生による授業評価というものがある。
(中略)
 ちなみに、これまでで一番の傑作を紹介すると、「この授業でとくに悪かった点」という項目に……小さい字でぽつんと「教授の性格」とあった。


2009年5月1日

『「地球温暖化」論に騙されるな! 』



「地球温暖化の原因は二酸化炭素であり、その排出量を減らすことが温暖化防止につながる」という世間知が誤りであることを、わかりやすく指摘する本です。
 実は、なぜか一般的にはまったく報道されませんが、「温暖化」について、学問上の論争としては「二酸化炭素が主因ではない」と、すでに決着がついているのです。
(中略)
 簡単にいえば、二酸化炭素を含む温暖化ガスの働きよりも、雲のほうが気温に圧倒的に大きな影響を与えるということがすでにわかっています。そして、雲の量を支配するのが宇宙線の量なのです。
ほかに地球の気温が変化する要因としては、太陽活動の活発度、地球の磁場の強さ、火山活動、ミランコヴィッチ・サイクルなどもあって複雑なのですが、では何が最近の地球温暖化の主因なのかという問題は実はそれほど重要ではないのではないかと感じました。

時間のスケールを大きくとって気温の変化を眺めてみると、たとえば17世紀の日本では寒冷化で大飢饉が起こっていたり、8~11世紀はグリーンランドが氷ではなく緑に覆われていたり、6000年前の縄文時代はさらに暖かくて海面が今より3~5メートル高かったりとか、
 産業革命以前、人間の文明とは無関係なはるか古代から、プラス・マイナス4℃くらいの変化は地球上で頻繁に起こっていたのです。
つまり、
 地球というのは、私たちが二酸化炭素を排出しようがしまいが、気候変動するのだということ
なのです。
このような事実を知れば、高々最近100年ほどのわずかな気温上昇傾向だけを見て二酸化炭素を犯人に仕立て上げるのはいかにも無理があり、高いコストをかけてひたすら二酸化炭素の排出を抑制しようと躍起になっている現状は、「温暖化対策」としてはほとんど意味がないとわかります。

驚くべきことに、著者は「地球は次第に寒冷化する」という説を唱えています。温暖化説と寒冷化説のどちらが正しいかは今後10年以内に決着するということです。予想が大胆すぎる気もしますが、どのような結果が出るのか楽しみです。