2014年1月14日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その3



ここでもうひとつ、興味深いアンケート調査を紹介したい。
「楽しい時間を過ごすことが重要ですか」という質問だ。
「非常に重要」と回答した日本人はわずか1.8%しかおらず、「重要」でも5.1%であった。このふたつを合わせた6.9%は世界51カ国中で断トツに少ない。
6.9%という数字は嘘みたいに少ないですね。
多忙な現実に追われて未だ実現できていないのは仕方ないにしても、いずれ楽しい時間を過ごしたいという願望まで現実に合わせて抑圧する必要はないと思うのですが…。

楽しい時間を過ごすことが否定されるのは、「幸せな人生」の否定に等しい。日本人が世界では2番目の経済大国となり、平均寿命が世界最長、治安も比較的よい社会であるのにもかかわらず、幸福度が低い理由は、この「人生を楽しむ」という姿勢がないことが大きな原因のひとつではないだろうか。
日本人も別に楽しい時間を過ごすことを「否定」まではしていないと思うんですよねー。他にもっと重要なこと、すなわち世間の常識に従って、面倒やリスクを回避しながら生きることを優先した結果、人生を楽しむことの優先順位が低くなっているだけじゃないかと。

日本人は75%が「新聞や雑誌」を信頼し、70%が「テレビ」を信頼している。この結果は、他の先進諸国と比べて比較にならないほど圧倒的に高い。
他の先進諸国では日本とは対照的に、信頼していない人の方が60%~75%という結果だそうです。
私はもちろん日本人の少数派で、どちらも信頼していません。というか、最近はこれらのメディアに触れる時間がほぼゼロになったので、信頼性を評価することさえ難しくなりました。ごく稀にNHKの番組をネットで見たりしても、こんな感想しか出てこないので、信頼しないという判断は今でも外れてはいないと思います。
つまり日本人の世論の6割以上が、メディアによって一方的につくられている可能性が非常に高いということである。
インターネットという新しいメディアが登場してから20年ぐらいしか経っていないので、まだマスメディアの影響力には遠く及ばないのはわかるのですが、歯痒いですね。
特に日本は人口分布がいびつなので、オールドメディアしか知らない高齢世代が政治的なパワーを持っているのが厄介です。

ひとりひとりが真剣に考え、そして人と対立することを恐れずに、もっと対話や議論をすることが、変革への第一歩ではないだろうか。個性を育むのと、対立を恐れない議論を奨励するのは、同時に行われなければ意味がない。
フランスの哲学者ヴォルテールは、かつてこう語っている。
「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は、命をかけて守る」
これが対話の基本精神であり、また真に個性を尊重する姿勢である。
とても共感できる言葉です。
日本人は集団主義思想の影響で、意見の対立自体が好ましくないことだと思い込んでいて、少数意見を自ら抑圧して沈黙する人が多いのではないですか。

ネット上では誰もが匿名で自由に表現できるので、これまで抑圧されていた多様な意見が見られるのはとても良いことだと思います。

ただ、ネット上の表現を見ていると、匿名性の悪い面が現れ、意見そのものへの反論ではなく人格攻撃のようになってしまっていることがよくあります。これでは、お互いの個性を尊重する議論の仕方がまだまだ根付いているとは言えません。

人格攻撃によって気に入らない意見の持ち主を黙らせたり萎縮させることを狙っているのだとすれば、結局は「一つの正しい意見にみんなが従うべきだ」という集団主義的思想から抜け出せていないと思われます。

(つづく?)

2014年1月13日

お詫び

先ほどブログのデザインをカスタマイズしようとしてSeesaaブログのコンテンツHTMLを弄っていたら、なんとブログ記事の中身がまったく表示されなくなってしまって焦りました。

標準で用意されている記事用テンプレートを新たにカスタマイズする方法で何とか元の形に近いところまで戻りましたが、その2時間ほどの間に当ブログを訪問した方は、左右のサイドバーと中央のバナー広告だけが表示された奇妙な画面を見て驚かれたかと思います。失礼しました。

不具合が発生した原因は未だに不明です。

2014年1月10日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その2



「社会が発展する意義は、個人の選択の自由を広げることにあり、豊かさはその次である」と、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授はいっている。
なるほど。たいへん共感できる考え方です。

 では実際に、人々はどの程度の自由を感じているのか。次のアンケート調査が世界56カ国の人を対象に行われた。「あなたにとって、選択の自由と、自分の意志を反映できる人生がどの程度ありますか」
結果は驚くべきものだった。日本人が世界最低レベルの自由度を感じていたのだ。それも厳格なイスラム教国のイランや、最貧国のエチオピアよりも低い結果だった。世界で最も自由と感じている国は、メキシコ、コロンビアといった中南米諸国だった。
これまた衝撃的な調査結果です。
日本人は50年前よりも経済的には遥かに豊かになったものの、それと比例して選択の自由が増えたわけではなく、自由な人生を送っているとは感じていないようです。
今の私ならこのアンケートにはかなりポジティブな回答をすると思いますが、ネガティブな回答をする人の気持ちも分かります。なぜなら、
 日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうとも、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために好きなことができないと思っている場合が多い。周囲と同じことをするかぎり、恥ずかしいとは感じない。つまり「恥」と感じる心の奥底には、集団へ同化する圧力が背景にある。
早期リタイアを決意する頃にはすっかり世間の「常識」から解き放たれていたとは言え、しがらみや常識によって自分を縛り、選択の余地がないと思い込んでいた時期が私にもありました。親や教師の教えを無批判に受け入れていた子供時代だけでなく、たとえば大学時代に就職を決めたときもです。(関連記事:『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4

「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろう。しかし常識とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがっていつも常識を意識することは、いつも集団と同じ行動をすることでもある。家族、親戚、友人、近所の人々と、いつもどこかで誰かが、「常識」を盾に「見えない抑圧」で個人を制約しようとする。
もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本では、何が正しくて何が間違っているかという判断基準が、「それが常識的であるかどうか」なのである。
日本に個人主義や自由主義が根付かない原因がはっきり見えた気がします。
なにか世間の常識から外れたことをしようとして、周囲の人間から何らかの同調圧力を受ける経験をしたことのない日本人はいないと思います。憲法上は保障されているはずの個人の自由という権利を行使しているだけなのに、なぜか周囲からお節介な横槍が入って面倒なことになってしまいます。まあ、口出しされただけなら無視すればいいのですが、相手との関係次第では無視するのにも精神的エネルギーを消耗します。そういう嫌な経験が積み重なるうちに、人は無意識に世間の常識という楽なレールの上を歩くようになるのでしょう。

「常識的に生きる」ことも、それが無意識であるうちはそれほど不幸ではないのかもしれません。しかし、周囲からの同調圧力に屈した結果、常識から外れることができなかったとわかれば、とてつもない敗北感が襲ってくるのではないですか。私なら耐えられません。そういう意味では、本書を読まないほうが良い日本人も少なくないと思います。

(つづく)

2014年1月8日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その1



国、そして社会とは、そもそも何のためにあるのだろう。
(中略)
しかし少なくとも、これだけは忘れるべきではないだろう。国や社会、そして文化は、それを存続させるために存在するのではない。あくまで、そこで生きる人々の「幸せ」のために存在するはずではないだろうか。
とても共感できる言葉です。それ自体が目的ではなく手段の一つに過ぎないことを忘れるべきではないという点は、お金と同じですね。
本来の目的を忘れて本末転倒なことにならないようにしたいものです。

どうしたら個人の幸福度が上がり、本当に幸せな社会ができるのか。これは経済発展のように明確な指標がないため、複雑で非常に困難な問題である。しかし幸福度の高い国には、一貫した傾向があることも事実だ。そして日本を含めた東アジアには、同じように一貫した「幸福度を頭打ちにする社会構造」が存在する。
そういった法則のようなものが存在することを発見したのは、たいへん興味深く、意義のあることだと思います。

1958年から2000年まで、日本人の生活満足度はほとんど変化していない。その間に、ひとり当たりの実質GDP(国内総生産)は6倍以上も上昇している。つまり日本の「経済的成功」と国民の「満足度」が、まったく無関係なのである。
これは衝撃的な調査結果です。一人あたり実質所得がたったの50万円だった55年前の時点で既に、日本人の生活満足度は頭打ちになってしまったとは…。
かつて劇的な所得上昇をもたらした所得倍増計画でさえ国民の満足度は上がらなかったというのに、アベノミクスごときで仮に所得が増えたとしても日本人が幸せになるとは思えませんね。

東アジアは文化的に共通点が多く、歴史的にも古くから密接に関わっている。特に三教といわれる儒教、仏教、道教が大きな影響を与えている。その中でも儒教は、仏教や道教とは決定的に異なる点がある。それは儒教が、社会性や政治性といった「社会組織の原理」を説いていることである。そして儒教の社会性は、主に集団主義を意味している。
(中略)
儒教に「個人の自由」という教えはない。儒教の思想は、江戸時代の厳格な身分制度である士農工商制度と合致していたので、徳川幕府が「儒学」として積極的に取り入れた。
(中略)
規律や制度に重点をおくことで、統治する側から見れば都合がよかったのであろう。時の権力者が、個人の行動を縛ったのである。
(中略)
現在の日本でも、無意識に儒教に影響されていることは多い。
(中略)
年齢差や社会的立場によって言葉遣いを変え、集団内での先輩・後輩の関係など、個人の内面や実力ではなく個人の属性、つまり表面的な立場で人を判別する制度は、儒教の影響といわざるをえない。
儒教恐るべし! 
江戸時代に日本人に植え付けられた集団主義の思想が、親から子へ、子から孫へと、何世代もの人間を経て脈々と現代まで受け継がれているなんて…。たまたま為政者の都合で輸入されてきただけの教えを、庶民が律儀に守り通している姿が滑稽に映るのと同時に、これらの「常識」が無意識に自分の脳内にも刷り込まれていることに気付いて、気味が悪くなります。

子供の頃に親や教師からそういうものだと教わって無批判に受け入れた常識の数々が、儒教的思想に基づくものでないかどうか、一度棚卸ししてみる必要がありそうです。

いや、恐ろしいのは儒教に限りませんけどね。戦前の日本で神道が為政者に都合よく利用されたように、宗教的な意味合いをもつ儀式や慣習などは、人々が思考停止に陥りやすいウィークポイントだと思います。

(つづく)