2014年1月8日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その1



国、そして社会とは、そもそも何のためにあるのだろう。
(中略)
しかし少なくとも、これだけは忘れるべきではないだろう。国や社会、そして文化は、それを存続させるために存在するのではない。あくまで、そこで生きる人々の「幸せ」のために存在するはずではないだろうか。
とても共感できる言葉です。それ自体が目的ではなく手段の一つに過ぎないことを忘れるべきではないという点は、お金と同じですね。
本来の目的を忘れて本末転倒なことにならないようにしたいものです。

どうしたら個人の幸福度が上がり、本当に幸せな社会ができるのか。これは経済発展のように明確な指標がないため、複雑で非常に困難な問題である。しかし幸福度の高い国には、一貫した傾向があることも事実だ。そして日本を含めた東アジアには、同じように一貫した「幸福度を頭打ちにする社会構造」が存在する。
そういった法則のようなものが存在することを発見したのは、たいへん興味深く、意義のあることだと思います。

1958年から2000年まで、日本人の生活満足度はほとんど変化していない。その間に、ひとり当たりの実質GDP(国内総生産)は6倍以上も上昇している。つまり日本の「経済的成功」と国民の「満足度」が、まったく無関係なのである。
これは衝撃的な調査結果です。一人あたり実質所得がたったの50万円だった55年前の時点で既に、日本人の生活満足度は頭打ちになってしまったとは…。
かつて劇的な所得上昇をもたらした所得倍増計画でさえ国民の満足度は上がらなかったというのに、アベノミクスごときで仮に所得が増えたとしても日本人が幸せになるとは思えませんね。

東アジアは文化的に共通点が多く、歴史的にも古くから密接に関わっている。特に三教といわれる儒教、仏教、道教が大きな影響を与えている。その中でも儒教は、仏教や道教とは決定的に異なる点がある。それは儒教が、社会性や政治性といった「社会組織の原理」を説いていることである。そして儒教の社会性は、主に集団主義を意味している。
(中略)
儒教に「個人の自由」という教えはない。儒教の思想は、江戸時代の厳格な身分制度である士農工商制度と合致していたので、徳川幕府が「儒学」として積極的に取り入れた。
(中略)
規律や制度に重点をおくことで、統治する側から見れば都合がよかったのであろう。時の権力者が、個人の行動を縛ったのである。
(中略)
現在の日本でも、無意識に儒教に影響されていることは多い。
(中略)
年齢差や社会的立場によって言葉遣いを変え、集団内での先輩・後輩の関係など、個人の内面や実力ではなく個人の属性、つまり表面的な立場で人を判別する制度は、儒教の影響といわざるをえない。
儒教恐るべし! 
江戸時代に日本人に植え付けられた集団主義の思想が、親から子へ、子から孫へと、何世代もの人間を経て脈々と現代まで受け継がれているなんて…。たまたま為政者の都合で輸入されてきただけの教えを、庶民が律儀に守り通している姿が滑稽に映るのと同時に、これらの「常識」が無意識に自分の脳内にも刷り込まれていることに気付いて、気味が悪くなります。

子供の頃に親や教師からそういうものだと教わって無批判に受け入れた常識の数々が、儒教的思想に基づくものでないかどうか、一度棚卸ししてみる必要がありそうです。

いや、恐ろしいのは儒教に限りませんけどね。戦前の日本で神道が為政者に都合よく利用されたように、宗教的な意味合いをもつ儀式や慣習などは、人々が思考停止に陥りやすいウィークポイントだと思います。

(つづく)

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