2014年1月10日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その2



「社会が発展する意義は、個人の選択の自由を広げることにあり、豊かさはその次である」と、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授はいっている。
なるほど。たいへん共感できる考え方です。

 では実際に、人々はどの程度の自由を感じているのか。次のアンケート調査が世界56カ国の人を対象に行われた。「あなたにとって、選択の自由と、自分の意志を反映できる人生がどの程度ありますか」
結果は驚くべきものだった。日本人が世界最低レベルの自由度を感じていたのだ。それも厳格なイスラム教国のイランや、最貧国のエチオピアよりも低い結果だった。世界で最も自由と感じている国は、メキシコ、コロンビアといった中南米諸国だった。
これまた衝撃的な調査結果です。
日本人は50年前よりも経済的には遥かに豊かになったものの、それと比例して選択の自由が増えたわけではなく、自由な人生を送っているとは感じていないようです。
今の私ならこのアンケートにはかなりポジティブな回答をすると思いますが、ネガティブな回答をする人の気持ちも分かります。なぜなら、
 日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうとも、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために好きなことができないと思っている場合が多い。周囲と同じことをするかぎり、恥ずかしいとは感じない。つまり「恥」と感じる心の奥底には、集団へ同化する圧力が背景にある。
早期リタイアを決意する頃にはすっかり世間の「常識」から解き放たれていたとは言え、しがらみや常識によって自分を縛り、選択の余地がないと思い込んでいた時期が私にもありました。親や教師の教えを無批判に受け入れていた子供時代だけでなく、たとえば大学時代に就職を決めたときもです。(関連記事:『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4

「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろう。しかし常識とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがっていつも常識を意識することは、いつも集団と同じ行動をすることでもある。家族、親戚、友人、近所の人々と、いつもどこかで誰かが、「常識」を盾に「見えない抑圧」で個人を制約しようとする。
もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本では、何が正しくて何が間違っているかという判断基準が、「それが常識的であるかどうか」なのである。
日本に個人主義や自由主義が根付かない原因がはっきり見えた気がします。
なにか世間の常識から外れたことをしようとして、周囲の人間から何らかの同調圧力を受ける経験をしたことのない日本人はいないと思います。憲法上は保障されているはずの個人の自由という権利を行使しているだけなのに、なぜか周囲からお節介な横槍が入って面倒なことになってしまいます。まあ、口出しされただけなら無視すればいいのですが、相手との関係次第では無視するのにも精神的エネルギーを消耗します。そういう嫌な経験が積み重なるうちに、人は無意識に世間の常識という楽なレールの上を歩くようになるのでしょう。

「常識的に生きる」ことも、それが無意識であるうちはそれほど不幸ではないのかもしれません。しかし、周囲からの同調圧力に屈した結果、常識から外れることができなかったとわかれば、とてつもない敗北感が襲ってくるのではないですか。私なら耐えられません。そういう意味では、本書を読まないほうが良い日本人も少なくないと思います。

(つづく)

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