2013年10月24日

『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その5



『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4の続きです。

 僕は国立大学の教官だったから、指導していた学生はみんな超エリートだった。子供のときにはクラスで一番だった人ばかり、田舎では神童と呼ばれた人たちだ。(中略)それでも、ある年齢になったときに、相談に来る人がいる。
中には、人生に疲れたのか、自殺してしまった人もいる。仕事が上手くいかなかったというわけでもない。ローンはあるけれど、お金に困っていたわけでもない。ただ、会社、子供、ローン、両親、いろいろなものに少しずつ縛られて、身動きできなくなっていた。気づいたら、自分の自由なんてどこにもなかった。ただただ、働いて、毎日が過ぎて、酒を飲んで、疲れて眠るだけ、その連続に堪えられなくなるらしい。
いわゆる勝ち組の見本みたいな人生に疲れてしまう人…。分かる気がします。
自分の自由がどこにもない状況には私も耐えられないと想像します。不自由への耐性は人によってけっこうばらつきがありそうなので、同じ状況でまったく平気な人もいくらでもいるでしょうけど。

不自由への耐性が低いにもかかわらず、その自覚なしに上記のような人生を歩んでしまったら、それはもう「若さ故の過ち」で済まされないほど不幸なことだと思います。資産運用時のリスク許容度と同じように、人生における不自由許容度も早めに自覚しておくべきでしょう。

 これとはまったく反対に、僕の教え子で優秀な学生だったけれど、会社に就職をしなかった奴がいる。彼は今、北海道で一人で牧場を経営している。結婚もしていないし、子供もいない。一人暮らしだそうだ。学生のときからバイクが大好きで、今でもバイクを何台も持っている。毎日それを乗り回しているという。「どうして、牧場なんだ?」と尋ねると、「いや、たまたまですよ」と答える。べつにその仕事が面白いとか、やりがいがあるという話はしない。ただ、会ったときに「毎日、どんなことをしているの?」と無理に聞き出せば、とにかくバイクの話になる。それを語る彼を見ていると、「ああ、この人は人生の楽しさを知っているな」とわかるのだ。男も40代になると、だいたい顔を見てそれがわかる。話をしたら、たちまち判明する。
顔ですか…。私が見ても分かる気がしませんけど、逆に周りの人に「いい顔してるね」みたいなことを言われたことなら何度かあります。なんか楽しそうに見えるらしいです。でもそれは、私がリタイアしてることを知っているからこそ出てきた言葉かもしれないわけで。

話したら(この人は楽しそうだなと)分かるのはその通りだと思います。それの何が楽しいのかまでは理解できなくても。

 僕は、毎日もの凄く楽しいことをしていて、僕のことをよく知っている人は、少しだけその内容も知っていると思うけど、友達と会ったときには、まったくそんな話はしない。近所の人にはもちろん話したことはないし、家族にも、自分の趣味の話はしない。見せることだってほとんどない。
話をしないから、これが「生きがい」とか「やりがい」だという認識もない。そんな言葉を使う必要もないし、使う機会もない。
本当に楽しいものは、人に話す必要なんてないのだ。
確かに。
趣味の話は同じ趣味を共有する人としかしませんよね。もしそれが一人でも楽しめる趣味なら、わざわざ誰かに話そうとは思わないですし。

ちなみに著者の「もの凄く楽しいこと」とは、森博嗣 - Wikipediaによると庭園鉄道や車のようです。お金持ちだけあって趣味もなかなか高級ですね。

 やはり、現代人が最も取り憑かれているものは、他人の目だろう。これは言葉どおり、他人が実際に見ているわけではない。ただ自分で、自分がどう見られているかを気にしすぎているだけだ。
全然気にしないというのは、やや問題かもしれないが、現代人は、この「仮想他者」「仮想周囲」のようなものを自分の中に作ってしまっていて、それに対して神経質になっている。そのために金を使い、高いものを着たり、人に自慢できることを無理にしようとする。
同感です。
その仮想他者って結局自分の内面を映し出す鏡なんですよね。もし自分のような他人がもう一人いたら、自分はその人をそのような目で見る人間だということです。自分で自分の目を気にするというのはとても奇妙な振る舞いだと思います。

大学の教員時代は弁当を食べ忘れて帰宅するなど、
それくらい仕事に没頭していた僕だけれど、一度も「仕事にやりがいを見つけた」なんて思わなかったし、(中略)ただ、楽しいからしていただけで、子どもの遊びと同じレベルである。子供って、遊びに「人生のやりがい」を見つけているのだろうか? 大人だけが、そんな変な言葉を持ち出して、自分の経験を歪曲しようとするのである。
そうですね。
逆に言えば、多くの大人は「やりがい」があると思わなければやってられないほど仕事が楽しくないのだと思います。私の会社員時代もそんな感じでしたが、つまらない仕事にやりがいを見出そうとしなかったのが幸いして、早期リタイアという自分の道が見つかりました。

 なんとなく、意味もわからず、「仕事にやりがいを見つける生き方は素晴らしい」という言葉を、多くの人たちが、理想や精神だと勘違いしている。それは、ほとんどどこかの企業のコマーシャルの文句にすぎない。そんな下らないものに取り憑かれていることに気づき、もっと崇高な精神を、自分に対して掲げてほしい。それは、「人間の価値はそんなことで決まるのではない」という、とても単純で常識的な原則である。
これが本書の肝でしょうね。とても共感できる言葉です。
逆にここを読んで「え?」と思った人ほど、本書を読んでみる価値があると思います。

参考記事: 
「やりがいのある仕事」という幻想 - 脱社畜ブログ
【読書感想】「やりがいのある仕事」という幻想 - 琥珀色の戯言
「やりがいのある仕事」という幻想(上) - 読書記録

2013年10月16日

『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4



『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その3の続きです。

 不思議なものだ。僕は、べつに研究者になりたいとか、小説家になりたいと思ったのではない。目の前にあるもので、自分が金を稼げそうなことに手を出しただけである。
私が就職した時もそんな感じでしたね。今から振り返れば「何も考えてなかった」と言っていいレベルでした。大学でこれを専攻してたのだから、まあこのへんの会社にしとくか、ってな軽いノリです。ちきりんさんのブログにこんな記事がありましたけど、
20代で、一生分の「やりたいこと」を見極めるなんて無理です - Chikirinの日記:
残りの 8割近い人は、時代や環境(通ってた大学での風潮など)の影響を大きく受け、「きっと、このあたりの職に就けばいいんだろう」程度の感覚で就職しているんです。
まさにこの通り!
引用ついでに
ちきりんは、それを悪いという気は全くありません。むしろ私は、20代の若者に「お前は何をやりたいんだ?」などと聞く風潮は、まったくおかしい、というか、無駄であほらしい、とさえ思ってます。だってそんなタイミングで、そんなことがわかる人は多くないもん。わからないほうが普通なんです。
ここも全く同感ですね。
大学時代の自分は若く経験不足であることに加えて、今のような読書の習慣もなく、まだインターネットも無い時代だったので、今の自分と比べたら知識もとんでもなく乏しかったし、しかも無知をほとんど自覚していなかったというのが恐ろしい。そんな無知な若者が選んだ会社に10年以上も勤務できたのは幸運だったと言うほかありません。知識の量で言えば、今の自分ではなく今の若者と比べても余裕で負けていたと思いますね。この点ではデジタルネイティブ世代が羨ましいです。

少し話が逸れましたが本書に戻ります。
 情報化社会において人は、自分の思うとおりにならないのは、なんらかの情報を自分が「知らない」せいだ、と解釈してしまう。(中略)
検索できるものは、過去に存在した情報だけだ。知ることができるのも、既に存在している知見だけである。しかし、自分の問題を解決する方法は、自分で考え、模索し、新たに編み出さなければならないものなのである。
自分の生き方に関する問題は、どこかに解決策が書かれているはずがない。検索しても見つかるはずがない。どんなに同じような道に見えても、先輩の言葉が全面的に通用するわけでもない。自分で生きながら、見つけるしかないのである。
またまた身も蓋もない正論ではありますが、ちょっと「知る」という行為を軽視しすぎのような気もしますね。既に存在している知見だって大したもので、知っているか知らないかが人生を左右することもあるでしょう。何らかの情報を知らないよりも知っているほうが、最適な判断ができる可能性が高まります。

インターネットや本に接するのも、「解決策」そのものを探すのではなくて、考えるための材料になる情報を探すという姿勢で臨むのであれば、決して間違いではないと思います。

 たとえば、自殺しようと悩んでいる人に対しても、僕は助言ができない。僕は自殺をしたことがないから、それがどんなものなのか知らない。誰も知らないのである。ただ単に、自殺しなかった経験があるだけだ。自分はそれで良かったとしても、誰でも同じとは限らない。自殺した方が良いという場合もあるかもしれない。「自殺は絶対にいけない」と断言できる人間がいるとしたら、それは偽善者だ、と僕は思う。
ただ、感覚的に、自分の知っている人が自殺をすると、僕は嫌な気持ちになる。(中略)
だから、もし、そういう人が相談にきたら、「僕は嫌だ」と言うしかない。
温かい言葉をかけるよりも、物事に対して素直でありたいし、他者に正直でありたい。
ここはもの凄く共感しました。
以前、無への道程という記事を書いたときに感じていたモヤモヤした違和感の原因を、見事に説明してくれています。とてもスッキリしました。

(つづく?)

2013年10月10日

『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その3



『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その2の続きです。

Q 自由時間がありません
「旅行にスポーツ……、やりたいことは山ほどあるのですが、いかんせん時間がありません。無理なく時間を捻出する方法があれば是非教えてください」

不思議な質問だと思った。やりたいことがあったら、どうしてもうやっていないのだろうか。時間がない、という言い訳を考える暇があるなら、やれば良いと思う。(中略)
もし、時間がないからできない、と判断しているのが本当ならば、それは、そうまでしてやりたくないことだといえるから、一所懸命になってやる必要もないと思う。
あまりに突き放した回答になってしまったが、時間というものは本当に限られているから、自分の時間を大切にする姿勢はいつも持っていたい。何故、毎日何時間も電車に乗るのか。どうして、こんなに家族サービスに時間を取られるのか、などなど、当たり前だと思っていることを考え直すのも一つの方法かと。
「無理なく時間を捻出する方法」の回答にはまったくなっていないわけですが、一理あると思います。

たった一度きりの人生には、やりたいと思ったことをすべてやるだけの時間はない、という前提を受け入れることがすべての始まりです。その前提に立たなければ、自分が普段から無意識のうちに優先順位をつけて物事を取捨選択していることさえ気付かないでしょう。だからこんな不思議な質問が出てくるのだと思います。

Q 辞めるに辞められません
「会社を辞めたいけれど、辞められません。マンションのローンもあるし、家族もいるし……。(中略)
私の人生は私のものであるはずなのに、いろんな足枷がついてまわり、人生がちっとも楽しくありません」

少し遅い感じがする。マンションのローンがあるというが、ローンを組むときには、目先の楽しさに目を奪われ、自分に足枷をかけたわけだ。(中略)
少なくとも、自分の人生は何なのか、と考えられるだけでも優位だし、まだまだ望みはあると思う。
大事なことは、今の自分の状況は、全部自分が仕込んだ結果だということである。
ここは完全に同意。
ローンや家族を背負うという選択をしたのは紛れも無く本人の意志です。今になってそれを後悔しているのなら、若さ故の過ちだったということ。過去は変えられないので、同じ過ちを繰り返さないように未来に向かってより良い選択をするしかないでしょう。

こんな突き放したようなことをあっさり書いてしまうから、「難しい人間だ」とか「冷たい人間だ」と思われているようだ。
「難しい」というのは、よくわからない。わかりやすく書いているつもりだからだ。上手ばかり言って、飾った言葉で褒めそやして、そのくせ本当のことをなかなか正直に語らない人が多い。そういう人の方が僕は「難しい」と思う。
それから、「冷たい」というのは、まあ、そのとおりかもしれない。どうしてかというと、温かいことに興味がないからだ。温かい言葉とか、温かい態度とか、そういうものがはっきりいって嫌いである。面倒くさいと思う。「ぬくもり」なんて言葉も胡散臭い。
同感です。
どうせ時間を費やして読むなら、著者のようにわかりやすい言葉でストレートに書かれている本やブログの方がいいと思います。言葉が柔らかいだけで結局何が言いたいのかわからないものは読みたくありません。書いてあることが温かいか冷たいかという基準で良し悪しを判断すべきではないと思います。

(つづく)

2013年10月4日

『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その2



『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その1の続きです。

 この不況の世の中になると、仕事がないことを商売のネタにする業種が増えてくる。どういうものかというと、割の良い仕事を斡旋するとか、こんな儲かる仕事があるから教材を買ってみないか、といった類である。多少良心的なものになると、資格を取らせるとか、あるいは研修会などを開催しようとする。
商売というのは、破格に儲かるものと儲からないものがあるように見えるが、それは一時的なアンバランスにすぎない。儲かるものには人が集まって、やがてそれほど儲からなくなる。もうこの商売では儲からないとわかると、今まで儲かっていたことを宣伝して、その商売自体を売ろうと考える。本当に儲かる商売ならば、ノウハウを公開したり、人を集めて指導したりしない。教えないこと、知られないことが、儲かる状態を続ける最善の策だからだ。したがって、この種の宣伝に踊らされないように気をつけた方が良いだろう。
既に流行っているもの、広く人気があるものは、これからそこでビジネスをしてはいけないサインといえる。簡単な原則である。
ここを読んでいて真っ先に思い浮かんだ商売が、アフィリエイトです。
確かに黎明期にはおそろしく儲かったのかもしれませんが、パソコンとインターネットさえあれば誰でもノーリスクで参入できる商売ですから、そんな美味しい状態が長続きする筈がありません。かくして怪しい情報商材やらSEOのテクニックとやらが世の中に出回ることになるわけです。お金を払ってそんなものを求めてしまう人は、かつてゴールドラッシュで大枚はたいて道具を買い求めた人たちと何も変わりません。

この大原則は商売に限らず、日常生活にも応用できます。原則を正しく理解している人はちょっとした心がけで生活が豊かになりますが、何も考えずに需要過多の時期にモノやサービスを買う人は損ばかりします。たとえば土用の丑の日にうなぎを買う、GW、盆、年末年始などの繁忙期に旅行をする、世界遺産登録のせいで人が殺到している富士山に登るなど。

人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。(中略)
したがって、どちらが正しいでしょうか、という質問に対しては、どちらでも正しいと思える人間になると良い、というのが多少は前向きな回答になる。
どちらが正しいでしょうか?などという質問自体が愚問なので本来回答できないところを、お見事な言葉で切り返していますね。
進学、就職、結婚、出産など、人生には様々な分かれ道があって、あのとき選ばなかった方の道を選んでいたらどうなっていただろう…、と考えてしまうこともあるでしょう。その際、この言葉を思い出せば少しは気が楽になるのではないでしょうか。

誰でも、自分が望むとおりの人生を送っている。愚痴を言ったり、不満があると思い込んでいるだけで、基本的に、いつも自分が「望ましい」と選択した道を進んでいるのである。
言いたいことは何となくわかりますが、ちょっと違うと思います。
「自分が望むとおりの人生」と表現してしまうと、文句のつけようがないベストな人生のように聞こえますが、現実にそんな人生を送っている人はほとんどいないでしょう。

正しく表現するなら、「自分がベターだと思う選択を積み重ねてきた人生」といったところでしょうか。
実際に人生において現れるのは、これだ!というベストな選択肢ではなく、ベストではないけれどベターな(マシな)方を選択しなければならない状況であることが多いので、常にベターな方を選び続けたとしても、何の不満も存在しないということはあり得ないと思います。確かに不満はあるけれども、それは過去の選択のせいで存在するわけではないし、解消のしようもないので、諦めて受け入れるしかないということではないでしょうか。

(つづく)

2013年10月1日

『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その1



森博嗣さんの本を読んだのは『自由をつくる自在に生きる』以来2冊目になります。
僕は、最近ほとんど仕事をしていない。大学は47歳で辞めた。作家の方は、1日1時間だけしか仕事をしない。あとは、ほとんど遊んでいる。毎日が楽しいから、そのとおり、「楽しい」と書いたりする。
理想的なセミリタイア生活に見えますね。
ちなみに小説家の仕事は「とんでもなく」儲かったそうで、
国家公務員の30倍くらいの年収が10年以上も続いた。
ざっと年収2億x10年で20億ってとこですか。
これだけ稼いだら、蓄えた資産額も我々庶民とは比較にならないレベルに達していることでしょう。毎日遊んで暮らすことを決断するのに何の躊躇も要りません。真の経済的自由を手に入れたリタイア生活、羨ましくないと言えば嘘になります。

さらに凄いと思ったのが、
僕は小説を書くことが今でも好きではない。でも、もしかしたら向いているのかな、という感じは少ししている。
「好きな事を仕事に」と言う人をよく見かけますが、好きではない仕事で20億稼いだ人がいると知ったら彼らはどう思うのでしょうか。

彼が書いた小説がそれだけの収入を生み出したということは、「少し」どころではなく小説家に向いていたのだと思います。好きな仕事よりも向いている仕事で効率よく稼ぐ方がリタイアへの近道だった、という一つの例を示してくれています。

僕の仕事に対する第一原理というのは、これまでに幾度も書いているが、つまり、「人は働くために生きているのではない」ということだ。
人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。
ここは色々なブログで引用されているだけのことはあって、なかなかの名言です。
ここだけ読むと仕事大好き人間が噛み付いてくるかもしれないので、次の部分も追加しておきましょう。
したがって、もし一生食うに困らない金が既にあるならば、働く必要などない。もちろん、働いても良い。それは趣味と同じだ。働くことが楽しいと思う人は働けば良い。それだけの話である。そんなことは当たり前だろう。
これが当たり前と思わない人たちとは、一生分かり合えないような気がします。

(つづく)