『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その3の続きです。
不思議なものだ。僕は、べつに研究者になりたいとか、小説家になりたいと思ったのではない。目の前にあるもので、自分が金を稼げそうなことに手を出しただけである。私が就職した時もそんな感じでしたね。今から振り返れば「何も考えてなかった」と言っていいレベルでした。大学でこれを専攻してたのだから、まあこのへんの会社にしとくか、ってな軽いノリです。ちきりんさんのブログにこんな記事がありましたけど、
20代で、一生分の「やりたいこと」を見極めるなんて無理です - Chikirinの日記:
残りの 8割近い人は、時代や環境(通ってた大学での風潮など)の影響を大きく受け、「きっと、このあたりの職に就けばいいんだろう」程度の感覚で就職しているんです。まさにこの通り!
引用ついでに
ちきりんは、それを悪いという気は全くありません。むしろ私は、20代の若者に「お前は何をやりたいんだ?」などと聞く風潮は、まったくおかしい、というか、無駄であほらしい、とさえ思ってます。だってそんなタイミングで、そんなことがわかる人は多くないもん。わからないほうが普通なんです。ここも全く同感ですね。
大学時代の自分は若く経験不足であることに加えて、今のような読書の習慣もなく、まだインターネットも無い時代だったので、今の自分と比べたら知識もとんでもなく乏しかったし、しかも無知をほとんど自覚していなかったというのが恐ろしい。そんな無知な若者が選んだ会社に10年以上も勤務できたのは幸運だったと言うほかありません。知識の量で言えば、今の自分ではなく今の若者と比べても余裕で負けていたと思いますね。この点ではデジタルネイティブ世代が羨ましいです。
少し話が逸れましたが本書に戻ります。
情報化社会において人は、自分の思うとおりにならないのは、なんらかの情報を自分が「知らない」せいだ、と解釈してしまう。(中略)またまた身も蓋もない正論ではありますが、ちょっと「知る」という行為を軽視しすぎのような気もしますね。既に存在している知見だって大したもので、知っているか知らないかが人生を左右することもあるでしょう。何らかの情報を知らないよりも知っているほうが、最適な判断ができる可能性が高まります。
検索できるものは、過去に存在した情報だけだ。知ることができるのも、既に存在している知見だけである。しかし、自分の問題を解決する方法は、自分で考え、模索し、新たに編み出さなければならないものなのである。
自分の生き方に関する問題は、どこかに解決策が書かれているはずがない。検索しても見つかるはずがない。どんなに同じような道に見えても、先輩の言葉が全面的に通用するわけでもない。自分で生きながら、見つけるしかないのである。
インターネットや本に接するのも、「解決策」そのものを探すのではなくて、考えるための材料になる情報を探すという姿勢で臨むのであれば、決して間違いではないと思います。
たとえば、自殺しようと悩んでいる人に対しても、僕は助言ができない。僕は自殺をしたことがないから、それがどんなものなのか知らない。誰も知らないのである。ただ単に、自殺しなかった経験があるだけだ。自分はそれで良かったとしても、誰でも同じとは限らない。自殺した方が良いという場合もあるかもしれない。「自殺は絶対にいけない」と断言できる人間がいるとしたら、それは偽善者だ、と僕は思う。ここはもの凄く共感しました。
ただ、感覚的に、自分の知っている人が自殺をすると、僕は嫌な気持ちになる。(中略)
だから、もし、そういう人が相談にきたら、「僕は嫌だ」と言うしかない。
温かい言葉をかけるよりも、物事に対して素直でありたいし、他者に正直でありたい。
以前、無への道程という記事を書いたときに感じていたモヤモヤした違和感の原因を、見事に説明してくれています。とてもスッキリしました。
(つづく?)
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