『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その1の続きです。
この不況の世の中になると、仕事がないことを商売のネタにする業種が増えてくる。どういうものかというと、割の良い仕事を斡旋するとか、こんな儲かる仕事があるから教材を買ってみないか、といった類である。多少良心的なものになると、資格を取らせるとか、あるいは研修会などを開催しようとする。ここを読んでいて真っ先に思い浮かんだ商売が、アフィリエイトです。
商売というのは、破格に儲かるものと儲からないものがあるように見えるが、それは一時的なアンバランスにすぎない。儲かるものには人が集まって、やがてそれほど儲からなくなる。もうこの商売では儲からないとわかると、今まで儲かっていたことを宣伝して、その商売自体を売ろうと考える。本当に儲かる商売ならば、ノウハウを公開したり、人を集めて指導したりしない。教えないこと、知られないことが、儲かる状態を続ける最善の策だからだ。したがって、この種の宣伝に踊らされないように気をつけた方が良いだろう。
既に流行っているもの、広く人気があるものは、これからそこでビジネスをしてはいけないサインといえる。簡単な原則である。
確かに黎明期にはおそろしく儲かったのかもしれませんが、パソコンとインターネットさえあれば誰でもノーリスクで参入できる商売ですから、そんな美味しい状態が長続きする筈がありません。かくして怪しい情報商材やらSEOのテクニックとやらが世の中に出回ることになるわけです。お金を払ってそんなものを求めてしまう人は、かつてゴールドラッシュで大枚はたいて道具を買い求めた人たちと何も変わりません。
この大原則は商売に限らず、日常生活にも応用できます。原則を正しく理解している人はちょっとした心がけで生活が豊かになりますが、何も考えずに需要過多の時期にモノやサービスを買う人は損ばかりします。たとえば土用の丑の日にうなぎを買う、GW、盆、年末年始などの繁忙期に旅行をする、世界遺産登録のせいで人が殺到している富士山に登るなど。
人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。(中略)どちらが正しいでしょうか?などという質問自体が愚問なので本来回答できないところを、お見事な言葉で切り返していますね。
したがって、どちらが正しいでしょうか、という質問に対しては、どちらでも正しいと思える人間になると良い、というのが多少は前向きな回答になる。
進学、就職、結婚、出産など、人生には様々な分かれ道があって、あのとき選ばなかった方の道を選んでいたらどうなっていただろう…、と考えてしまうこともあるでしょう。その際、この言葉を思い出せば少しは気が楽になるのではないでしょうか。
誰でも、自分が望むとおりの人生を送っている。愚痴を言ったり、不満があると思い込んでいるだけで、基本的に、いつも自分が「望ましい」と選択した道を進んでいるのである。言いたいことは何となくわかりますが、ちょっと違うと思います。
「自分が望むとおりの人生」と表現してしまうと、文句のつけようがないベストな人生のように聞こえますが、現実にそんな人生を送っている人はほとんどいないでしょう。
正しく表現するなら、「自分がベターだと思う選択を積み重ねてきた人生」といったところでしょうか。
実際に人生において現れるのは、これだ!というベストな選択肢ではなく、ベストではないけれどベターな(マシな)方を選択しなければならない状況であることが多いので、常にベターな方を選び続けたとしても、何の不満も存在しないということはあり得ないと思います。確かに不満はあるけれども、それは過去の選択のせいで存在するわけではないし、解消のしようもないので、諦めて受け入れるしかないということではないでしょうか。
(つづく)
この種の脱力推奨の本は、どれも本質的に欺瞞だと感じます。筆者はいわゆる特権階級です。それは、儲かりもしないのに本が出せるという階級です。そうしてニヒリズムを説いたふりをすることが、それが生きがいであるにも関わらず、ジオラマが生きがいであるなどと嘘を言うわけです。いや、ジオラマごときが生きがいであるなら、罪は重くはありません。それすら言わないのが最悪です。人は他者に認めてもらって価値を把握する生物です。承認、追認無くして人生無しと、反面教師として教える書物でしょう。
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