2017年9月15日

差別する自由

きっかけは柴田英里さんのこのツイートだと思うのですが、
ツイッターやブログで「差別をする自由」が話題になっています。

ツイッターの反応は「そんな自由などない!」などと骨髄反射的に全否定するものが多く見られますが、もう少し落ち着いて考えてみましょうや。

まず第一に、「自由」の意味について。

自由や権利の概念が本来の意味よりも広くなりすぎてわけがわからなくなる現象は、今までに何度も見てきました。
表現の自由といった自由権の話をしている文脈で、家を燃やすとか人を殴るといった物理的暴力を行使することも「自由」の中に含まれると考えている人は、少なくとも表現規制反対派の中にはいないと思います。他害禁止原則は自由権の基本ですので。

柴田氏の発言における「自由」にも当然、物理的暴力は含まれないと解釈するのが妥当です。

次に、「差別」の意味について。

なるほど、

差別=「力づくで」不利益を与えること

と定義している人もいることはわかりました。そりゃ話が噛み合うわけがありません。

力づくではない「差別」もたくさんありますよ。
嫌いな奴を無視する、無職にはアパートを貸さない、映画館のレディースデー、女性専用車両、スーパーのシニア割引などなど。

①ある基準に基づいて,差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また,その違い。 「いづれを択ぶとも,さしたる-なし/十和田湖 桂月」
②偏見や先入観などをもとに,特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また,その扱い。 「人種-」 「 -待遇」
この辞書の定義にあるように、強制力を伴わない意味で「差別」という用語を使っている人もいます。私もその一人です。力づくで何かやる行為をピンポイントで表すには、「暴行」や「強要」といった別の用語を選びます。

特に、柴田氏の「差別する自由もある」の文脈では元々ヘイトスピーチのような差別表現のことを指していたのであり、「力づくで」どうこうする行為が含まれていると解釈するのは無理があります。

以上のような解釈から、柴田氏の「人間には差別をする自由もある」発言には何の問題もないと考えます。

参考ツイート:




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