(承前)人間には差別をする自由もあるでしょうが、それは当然に批判されるものです。ですが、いくら批判されるものであっても、その表現そのものを取り締まることは、「思想信条の自由」「表現の自由」などの侵害です。私は、それらの自由を他者から奪うことがあってはならないと考えます。
— 柴田英里 (@erishibata) 2017年5月4日
ツイッターやブログで「差別をする自由」が話題になっています。
ツイッターの反応は「そんな自由などない!」などと骨髄反射的に全否定するものが多く見られますが、もう少し落ち着いて考えてみましょうや。
まず第一に、「自由」の意味について。
自由や権利の概念が本来の意味よりも広くなりすぎてわけがわからなくなる現象は、今までに何度も見てきました。
表現の自由は何にもまして絶対守られるべき主義の方は本当にそれでいいんですかね?
— つらお (ズボラ) (@tsurao) 2017年9月13日
嫌いな人の家を燃やすのも嫌いという気持ちを表現する行為だから自由?ムカつくやつをぶん殴るぶん殴りアートだから自由?それでいいんですかね。
表現の自由といった自由権の話をしている文脈で、家を燃やすとか人を殴るといった物理的暴力を行使することも「自由」の中に含まれると考えている人は、少なくとも表現規制反対派の中にはいないと思います。他害禁止原則は自由権の基本ですので。
柴田氏の発言における「自由」にも当然、物理的暴力は含まれないと解釈するのが妥当です。
次に、「差別」の意味について。
差別が心の問題なのか。少し前に電車に乗ろうとした黒人に対して「俺らは人種差別主義者だ。黒人は電車に乗るな」と電車から力づくでホームに押し出した白人達が話題になったけど、これは心の問題? https://t.co/N5SqsWEEqg
— つらお (ズボラ) (@tsurao) 2017年9月13日
そちらの理屈だと「黒人を電車に乗せない行為は差別ではない」という話になりますが、そんな理屈は通りません。社会的な差別の定義を調べて貰えば分かりますが、暴行や強制を伴って不当な不利益を与える扱いは差別です。黒人を追い出すのは差別ではないってのはない。
— つらお (ズボラ) (@tsurao) 2017年9月14日
なるほど、
差別=「力づくで」不利益を与えること
と定義している人もいることはわかりました。そりゃ話が噛み合うわけがありません。
力づくではない「差別」もたくさんありますよ。
嫌いな奴を無視する、無職にはアパートを貸さない、映画館のレディースデー、女性専用車両、スーパーのシニア割引などなど。
①ある基準に基づいて,差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また,その違い。 「いづれを択ぶとも,さしたる-なし/十和田湖 桂月」この辞書の定義にあるように、強制力を伴わない意味で「差別」という用語を使っている人もいます。私もその一人です。力づくで何かやる行為をピンポイントで表すには、「暴行」や「強要」といった別の用語を選びます。
②偏見や先入観などをもとに,特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また,その扱い。 「人種-」 「 -待遇」
特に、柴田氏の「差別する自由もある」の文脈では元々ヘイトスピーチのような差別表現のことを指していたのであり、「力づくで」どうこうする行為が含まれていると解釈するのは無理があります。
以上のような解釈から、柴田氏の「人間には差別をする自由もある」発言には何の問題もないと考えます。
参考ツイート:
差別って、相手によって対応を変えるということ。買いたくない相手からは買わないし、売りたくない相手には売らない。助けたくない相手は助けない。
— ユキノシバリ (@yukinoshibari) 2017年9月13日
殴るとか、殺すとかいうのは、単に暴力だね。言うまでもなく許されないことだよ。他人の自由を奪う行為だからね。
嫌な相手との取引を拒否したり嫌いな人を助けてやることを拒否する差別はもともと個人の自由なのに、言うまでもなく犯罪である脅迫とか強要とか危害を加える行為と抱き合わせて差別とよんで、個人の自由を制限する口実にしようとする。これが、政治によって捻じ曲げられた「差別」の概念だね。
— ユキノシバリ (@yukinoshibari) 2017年9月13日
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