「高等遊民のすすめ」というサブタイトルに引かれて読んでみた本です。
まえがきに「高等遊民になるための20ヵ条」があり、著者が描く高等遊民像がどんなものかわかります。自分にどれだけ当てはまるか見てみました。
高等遊民は
○お金持ちよりも時間持ち、物持ちよりも心持ちをめざす
○世俗の欲望を半分捨てる
○いつも”ほどほど”をめざす
×お金がなくてもいつも楽しい (より少ないお金でも人生を楽しめるというならわかりますが、本当にお金が「無い」人生が楽しいわけがない…)
○行列してまでモノを望まない
△ブランド品は持っていないが電子辞書を持っている (どちらも持っていません)
○スケジュール帳など持たない
×義理と人情に弱い
△どのような人とも対等に付き合う (価値観が合わない人とはそれなりの付き合いに…)
△人から与えられるより与えることを望む (どちらも望みません)
△いつも笑顔でグチや不満をいわない (喜怒哀楽自体が少ないので)
○人にたかって飲食などしない (高等遊民でなくても人として当たり前では?)
○ボロは着てても心は錦 (ファッションに全く興味ナシ)
△正義を愛しウソは洒落でしかつかない (「正義」という言葉は胡散臭く感じます)
○形式よりも中身を大事にする
○儒教思想よりも老荘思想に親しむ
×信条として新渡戸稲造のクリスチャン「武士道」を愛する
×司馬遼太郎と山田風太郎を併読する
○なによりも知的好奇心を愛する
○誰からも束縛されない自由人である
まあこれだけ当てはまっていれば、同じ高等遊民の看板を掲げるブロガーとして問題ないですよね。
極論するなら、今日のわれわれを取り巻く多忙はまさに諸悪の根源といってもさしつかえないほどである。だからこそセネカはいうのだ。いい人生を送ろうと思ったら「多忙から開放されろ」と。
その通りです。極論とは思いません。
仏教語では他と比較しないことを「無分別」といい、すなわち唯我独尊であることを絶対的幸福観としているが、その真髄は「私はこれで十分」という「知足心」(足ることを知る心)である。(中略)
だからこうした絶対的幸福観を持っていない人は、いかに金持ちになろうと、どんなに立身出世しようと、いつまでたっても幸福にはなれないのである。
同意します。
アメリカの作家、ヘンリー・D・ソローが、高学歴でありながら定職につかない生活を非難されたときに返答した
「みなさんは仕事、仕事というが、われわれの多くは大切な仕事などほとんどしていない。カネを稼ぐだけなら、かならず稼がせてくれた制度に身を売ることになる」
という言葉にも大変共感しました。
自由時間の使い方については、
とはいっても、最初から気張って何かをやることはない。自由な時間が持てたとなると、即座に「何か」をしなければならないと思う人は、貧乏人根性であり、「何もしない」というのも立派なストレス解消策なのである。
という考え方に賛同します。
このような自由な立場にいることがどれほど幸せかは、会社員時代は当然のこと、リタイアして2年以上が経つ現在でも、ずっと実感していることです。
いわゆる「仕事人間」について、
最近つくづく思うのは、たとえ役員や社長になった人でも、人間的に面白みのない男たちが多くなったということだ。学歴や地位がいかに立派でも、長年の人生で培った仕事以外の趣味や教養というものがないと、リタイアしたあとでも仕事の自慢話ばかりで、感心して聞くような話はまったくない。
彼らの話はいつも決まっていて、まずは過去の自分の手柄話、ついで病気と健康維持の話、ゴルフ、食い物、子供自慢に孫自慢といったものだ。(中略)ましてや「××のステーキは最高だった」「焼酎は○○が最高だな」などと、さも通ぶって語られるほど気色悪いものはない。
たまには面白かった本や映画の話をしたらどうだと思うのだが、こういう人に限って本も読まなきゃ映画などまったく観ていない。これでは若者たちの雑談の延長線上であり、まったく大人になりきっていないのである。かつて”仕事人間”といわれた人ほどこの傾向が強い。
このように痛烈に批判しており、著者の感性には私も共感するところではありますが…。まあこればかりはどちらが良い悪いの問題ではなく、興味の対象がまったく異なる人間同士で話をしてもお互いにつまらない、という当たり前のことかと思います。時間があるからといって誰とでも付き合うのではなく、やはり相手はじっくり選ばないといけないという教訓を与えてくれます。
じゃ、人生とはなんだ、と人生経験の浅い若者ならそう聞き返したくもなるだろう。だが、われわれはすでに知っている。人生とはどっちに転んでも、たいしたことはない、ということを。社長になろうと一生ヒラ社員で終わろうと、どんな職業に就こうと、その立場立場に悩みがあり、苦労と喜びがあり、トータルで見れば結局は同じことなのである。要は、違う世界を知らないがゆえのないものねだりであり、その立場になればこうじゃなかったはずだと思うものである。
実際には転び方次第でけっこう大きく振れるのが人生であり、「結局は同じ」とまで楽天的に考えるのは問題があるような気がします。しかし、必要以上に悲観して悩む人の場合、このような考え方がちょうどいいのかもしれません。