『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4の続きです。
僕は国立大学の教官だったから、指導していた学生はみんな超エリートだった。子供のときにはクラスで一番だった人ばかり、田舎では神童と呼ばれた人たちだ。(中略)それでも、ある年齢になったときに、相談に来る人がいる。いわゆる勝ち組の見本みたいな人生に疲れてしまう人…。分かる気がします。
中には、人生に疲れたのか、自殺してしまった人もいる。仕事が上手くいかなかったというわけでもない。ローンはあるけれど、お金に困っていたわけでもない。ただ、会社、子供、ローン、両親、いろいろなものに少しずつ縛られて、身動きできなくなっていた。気づいたら、自分の自由なんてどこにもなかった。ただただ、働いて、毎日が過ぎて、酒を飲んで、疲れて眠るだけ、その連続に堪えられなくなるらしい。
自分の自由がどこにもない状況には私も耐えられないと想像します。不自由への耐性は人によってけっこうばらつきがありそうなので、同じ状況でまったく平気な人もいくらでもいるでしょうけど。
不自由への耐性が低いにもかかわらず、その自覚なしに上記のような人生を歩んでしまったら、それはもう「若さ故の過ち」で済まされないほど不幸なことだと思います。資産運用時のリスク許容度と同じように、人生における不自由許容度も早めに自覚しておくべきでしょう。
これとはまったく反対に、僕の教え子で優秀な学生だったけれど、会社に就職をしなかった奴がいる。彼は今、北海道で一人で牧場を経営している。結婚もしていないし、子供もいない。一人暮らしだそうだ。学生のときからバイクが大好きで、今でもバイクを何台も持っている。毎日それを乗り回しているという。「どうして、牧場なんだ?」と尋ねると、「いや、たまたまですよ」と答える。べつにその仕事が面白いとか、やりがいがあるという話はしない。ただ、会ったときに「毎日、どんなことをしているの?」と無理に聞き出せば、とにかくバイクの話になる。それを語る彼を見ていると、「ああ、この人は人生の楽しさを知っているな」とわかるのだ。男も40代になると、だいたい顔を見てそれがわかる。話をしたら、たちまち判明する。顔ですか…。私が見ても分かる気がしませんけど、逆に周りの人に「いい顔してるね」みたいなことを言われたことなら何度かあります。なんか楽しそうに見えるらしいです。でもそれは、私がリタイアしてることを知っているからこそ出てきた言葉かもしれないわけで。
話したら(この人は楽しそうだなと)分かるのはその通りだと思います。それの何が楽しいのかまでは理解できなくても。
僕は、毎日もの凄く楽しいことをしていて、僕のことをよく知っている人は、少しだけその内容も知っていると思うけど、友達と会ったときには、まったくそんな話はしない。近所の人にはもちろん話したことはないし、家族にも、自分の趣味の話はしない。見せることだってほとんどない。確かに。
話をしないから、これが「生きがい」とか「やりがい」だという認識もない。そんな言葉を使う必要もないし、使う機会もない。
本当に楽しいものは、人に話す必要なんてないのだ。
趣味の話は同じ趣味を共有する人としかしませんよね。もしそれが一人でも楽しめる趣味なら、わざわざ誰かに話そうとは思わないですし。
ちなみに著者の「もの凄く楽しいこと」とは、森博嗣 - Wikipediaによると庭園鉄道や車のようです。お金持ちだけあって趣味もなかなか高級ですね。
やはり、現代人が最も取り憑かれているものは、他人の目だろう。これは言葉どおり、他人が実際に見ているわけではない。ただ自分で、自分がどう見られているかを気にしすぎているだけだ。同感です。
全然気にしないというのは、やや問題かもしれないが、現代人は、この「仮想他者」「仮想周囲」のようなものを自分の中に作ってしまっていて、それに対して神経質になっている。そのために金を使い、高いものを着たり、人に自慢できることを無理にしようとする。
その仮想他者って結局自分の内面を映し出す鏡なんですよね。もし自分のような他人がもう一人いたら、自分はその人をそのような目で見る人間だということです。自分で自分の目を気にするというのはとても奇妙な振る舞いだと思います。
大学の教員時代は弁当を食べ忘れて帰宅するなど、
それくらい仕事に没頭していた僕だけれど、一度も「仕事にやりがいを見つけた」なんて思わなかったし、(中略)ただ、楽しいからしていただけで、子どもの遊びと同じレベルである。子供って、遊びに「人生のやりがい」を見つけているのだろうか? 大人だけが、そんな変な言葉を持ち出して、自分の経験を歪曲しようとするのである。そうですね。
逆に言えば、多くの大人は「やりがい」があると思わなければやってられないほど仕事が楽しくないのだと思います。私の会社員時代もそんな感じでしたが、つまらない仕事にやりがいを見出そうとしなかったのが幸いして、早期リタイアという自分の道が見つかりました。
なんとなく、意味もわからず、「仕事にやりがいを見つける生き方は素晴らしい」という言葉を、多くの人たちが、理想や精神だと勘違いしている。それは、ほとんどどこかの企業のコマーシャルの文句にすぎない。そんな下らないものに取り憑かれていることに気づき、もっと崇高な精神を、自分に対して掲げてほしい。それは、「人間の価値はそんなことで決まるのではない」という、とても単純で常識的な原則である。これが本書の肝でしょうね。とても共感できる言葉です。
逆にここを読んで「え?」と思った人ほど、本書を読んでみる価値があると思います。
参考記事:
「やりがいのある仕事」という幻想 - 脱社畜ブログ
【読書感想】「やりがいのある仕事」という幻想 - 琥珀色の戯言
「やりがいのある仕事」という幻想(上) - 読書記録