2012年12月3日

『ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』 pha (著) その3



昨日の記事の続きです。

怠惰が美徳とはどういうことだろうか。それは、怠惰な人間ほど、できるだけ仕事を減らして効率的にしようとするということだ。
(中略)
「怠惰が美徳」って考え方は、「とにかく汗をかけ」「努力しろ」みたいな一昔前の日本的な努力主義とは正反対なので好きだ。
同感です。私も努力主義は嫌いなので。

会社員時代、できる人はいつも涼しい顔で余裕があるのに対して、できない人は常にいっぱいいっぱいで、デスクワークなのに本当に額に汗をかいていました。明らかに前者のほうが生産性が高いにもかかわらず、なぜか後者のほうを高く評価してしまうのが、日本人のダメなところです。

表向きは成果主義なんて言ってても、成果はおまけみたいなもので、努力している(ように見える)かどうかで評価が決まってしまうような会社では、生産性が上がるはずがありません。

もちろん楽しいことは何回やっても楽しいんだけど、一度は死ぬ前にやっとかなきゃ後悔する、というのはもうない。このあと人生がどんどん下り坂になったとしても特に未練はないと思う。いい人生だった。
私も死ぬ間際にこういう台詞が言えたらいいなと思ってます。
結局人生って、今際の際にできるだけ後悔や未練を残さないための選択の積み重ねにすぎないのかなと。

私がもし明日死んだとしたら未練が残るけど、5年後だったらそれほどでもないのかなと思ってみたり。こういう「もうやり残したことはそんなにない」って感覚は多分、今でもリタイアせずに会社員生活を続けていたとしたら、まず持ち得なかった感覚でしょうね。

物価の安い国にでも行って貧乏ニート生活でも送ろうかな。
家も家族も持たない身軽さとネットからの収入を兼ね備えた人なのに、いまだ海外生活の経験なしですか? ちょっと不思議なぐらいです。曲がりなりにも東京で賃貸暮らしができる経済力があるのだから、貧乏ニートどころかそこそこ余裕のある外こもり生活ができそうですよ。

どうしても日本が好きなら、phaさん自身がレポートしているような田舎暮らしでもいいんじゃないですかね。
田舎はオープンワールドRPGみたいだった - phaのニート日記
一軒家で家賃が月1000円とか月5000円とか、土地付きの一軒家が20万円で売られてたりいるのを買ったとかいう話ばかりで、東京に住んでるのがバカバカしくなった。
ちなみに東京なんて仕事がそこにあるから仕方なく住むところだと思います。

参考記事:
SUMMER OF FREEDOM 『ニートの歩き方』
ニート最高 Time is money  キムのお金日記
『ニートの歩き方』というか - Chikirinの日記

2012年12月2日

『ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』 pha (著) その2



昨日の記事の続きです。

僕の感覚では、別にニートに限らず何事においてもだけど、自己責任と、それ以外の自分でどうしようもないことの割合は50%50%くらいだ。
割合はわかりませんが、人生が運の要素にかなり左右されることは否定しません。

自己責任論を主張する人たちは「普通に頑張ればなんとかなるはずだ」と言う。しかし、ある人の生活がうまくいかないとき、それは本人の責任ではどうしようもない原因のせいであることが多くないだろうか。
私は自己責任論者ですが、「頑張ればなんとかなる」とは限らないことは認めます。いくら頑張っても運が悪ければどうにもならないこともあるのが現実です。

しかし、だからといって自分以外の他人にその責任があることにもなりません。著者の感覚に従えば、半分は自己責任で、半分は誰の責任でもない、ということになります。

日本国政府がやっている所得の再分配や生活保護は、よく考えると何の責任もないはずの他人に(間接的に)貧乏人に富を分け与える義務を押し付けているという点で、けっこう理不尽な制度だと思います。

ゲーム風に言うと「人生は初期設定によって難易度がイージーかベリーハードかが違いすぎるクソゲーなんじゃないの」ということだ。
はい、その通りだと思います。
ただし、ベリーハードモードでプレイしているのは日本のニートではなく、たとえばアフリカの最貧国に生まれた人たちでしょう。日本人は運が良ければベリーイージーモード、普通でイージーモード、最低でもミディアムモードでプレイできるという特権を持っています。

自己責任論を言う人たちは、そもそもある程度恵まれた環境で育って、たまたま予想外のアクシデントにも合わずにこれまでの人生を送ってこられたせいで、そうじゃない人生のことが想像できていないんじゃないだろうか。
確かにそういう人も少なくないとは思いますが、私は想像できています。
その上で、私にとってはどうでもよい他人の人生の責任のごく一部でも、意志に反して負わされることがなければいいなと思っています。

もちろん、昨日の記事で触れたように、余裕のある人々が自由な意志に基いて困っている人々を助けることは否定しません。現状ではそれが税金や社会保険料の支払い義務という形で間接的に強制されていることに問題があり、下手に公的な制度が存在するが故に、さらに私的な負担をしようという動機が失われている面もあるような気がします。

関連記事:
もう1か月前になりますが貧BPさんのブログにもう一つ気になる記事があったことを思い出しました。 貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 phaさんの『ニートの歩き方』を支持するインテリたち この本はようやく図書館に予約を入れた段階で、読むのはしばらく先になりそうなんですが、phaさん...
yumin4.blogspot.jp

(つづく?)

2012年12月1日

『ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』 pha (著) その1



図書館で2ヶ月待ちでした。

 もう一つよく言われる言葉としては「仕事をせずに食うメシはうまいか」「仕事の後のビールはうまい」というようなことなんだけど、これも、仕事をしなくてもごはんはうまいしビールもうまい、と自信を持って言える。僕が働かないことに特に後ろめたさを持っていないからなんだろう。
 というか、ごはんやビールは何もしなくてももともとうまいものだし、仕事をしているかどうかは全く関係ない。そんなところに労働とか倫理の問題を絡めるのはごはんやビールのうまさに失礼だと思う。
酒は飲まないのでビールのうまさはわかりませんが同感です。
むしろ、会社員時代昼休みに慌ててかきこんだランチよりも、無職のいま家でゆっくり食べるランチのほうが美味いのは間違いないと思います。

ネット経由で入る収入は今でも月に七、八万くらいだけど。
年収90万円ほどですか。東京で賃貸暮らしだと厳しい金額かもしれませんが、海外生活も視野に入れれば貯金する余裕も生まれるのではないでしょうか。

Bライフ研究所によると、社会保障の支払いを最小限に抑える理想的な年収のはずですが、
年収80万円くらいだった翌年の保険料は毎月八千円くらいだった。(p.185)
なぜこんなに高くなったのかは謎です。

ネットによって胴元が不要になる
(中略)
病気や事故に遭った人にみんながインターネットから少額のお金を振り込むというカルチャーが定着して順調に回っていったとしたら、それは保険制度と同じような効果を保険会社という胴元抜きで実現するようなものじゃないかと思う。
(中略)
みんなが自分よりお金がなくて困っている人に収入の2%くらいをあげるようになったとしたら、それは現在政府が行っている累進課税や生活保護などの「所得の再分配(金持ちからお金を取って貧乏人に渡すこと)」を、政府という胴元抜きでやっているようなものになるんじゃないだろうか。
その通りで、リバタリアンが目指しているのはこういう自発的な互助・再分配システムですよね。
胴元が民間企業ならまだマシですが、日本国政府のようにテラ銭をぼったくる胴元がいると、金持ちから毟り取って貧乏人に渡すまでの間にどんどんお金が目減りしてしまいます。

何もしないのが偉いってわけじゃないけど、別に何もしなくても全然構わないと思うのだ。人間のすることなんて所詮やってもやらなくてもいいようなことばっかりだ。
同意します。

それに、放っておいたら大体の場合、人間は自然に何かをしようとするものだ。
特にやることもなく時間も体力も気力も余っていて余裕があれば、大抵の人間は自然に何かをしたくなってくる。だから人間は無限に怠惰ではいられない。
そうですね。「退屈」という感情はそのためにあるんだと思います。
ただ、したくなる「何か」が生産的な活動とは限らないので、たとえば放っておいたら自然にゲームがしたくなった場合などは、勤勉な人から見たらやっぱり「怠惰」に見えるのかもしれません。

「無理して頑張らなくても構わない」ということになると、みんな怠惰になって何もしなくなって社会が崩壊してしまうとか言う人がいて、そういう人たちが怠惰な人を叱りつけたり脅したりするんだけど、くだらない。叱ったり脅したりしないと崩壊してしまうようなシステムはロクなものじゃないし、そんなんだったら別に滅んでもいいと思う。
ここも同意。
それで実際に滅んだのが共産主義経済というシステムなわけです。

(つづく)

2012年11月29日

「年金は払い損」と考えるのは間違いではない

NightWalkerさんのブログにこんな記事がありました。
「年金は払い損」と考えるのは間違い: NightWalker's Investment Blog

日経の元記事を読んでみたらなんとも言えない違和感が…。
■年金は働けないとき所得を補う社会保障であり金融商品ではない
年金って本来は社会保障とは関係なく、長生きリスクをヘッジするための「保険」という立派な金融商品だと思いますよ。国は加入を強制したり、保険料だけでは運用できずに巨額の税金を突っ込んだりして、保険を社会保障制度として運用しているにすぎません。

■年金はもともと、掛け捨てになる人もいれば得をする人もいる仕組み
一人ひとりの損得に着目すれば、得をする場合もあるし、損をする場合もあるのは保険なのだから当然です。

金融商品が投資に値するかどうか判断するときに着目すべきなのはそういう個別の事例ではなく、期待リターン、つまり一人ひとりのリターンの「平均」がどの程度なのか、これに尽きると思います。

賦課方式の公的年金の場合、人口動態によっては期待リターンが大幅なプラスになる世代や、大幅なマイナスになる世代が生まれるという大きな欠陥がありますが、ずっと以前から指摘されているにもかかわらず、欠陥は放置されてきました。急激な少子高齢化が現実のものとなった今、まさにその両世代の世代間格差が極大化しつつあります。

後者の世代にとって現行の公的年金は、期待リターンがひどく少ない劣悪な金融商品であることは紛れも無い事実です。したがって、彼らが「年金は(平均的には)払い損」と考えることは決して間違いではありません。

そう思われたくないのであれば、
私は損得にこだわる人には「人より10年長生きしなさい。そうすれば得になるよ」と言います
こんな屁理屈でごまかすのではなく、一刻も早く積立て方式へ移行して世代間格差を解消するしかないと思います。

関連記事:
非常にわかりやすい社会保障問題の入門書で、だまされない自信がある人にもお勧めしたい良書です。 まずは、 わが国が今後迎える少子高齢化は、社会保障財政にとってまさに戦慄すべき意味を持っています。現在でさえ改革に次ぐ改革で国民の社会保障に対する不満は高まり、「もうそろそろ負担増はいい...
yumin4.blogspot.jp

2012年10月10日

『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』 ちきりん (著)  その2



昨日の記事の続きです。

第10章「豊かであるという実感」
チップとは異なりますが、貧しい国では、より直接的に「施し」を迫られることがあります。昔、インドの田舎を旅した時、(中略)
彼らは、しつこくつきまとう彼らを無視する私に悪態をつき、「なんでたった少しの小銭をくれないのか?」となじるのです。
(中略)
しかしむこうは、海外からの旅行客がインドの貧しい人にお金を施すのを当然と考えています。
噂には聞いていましたが、インドって本当にこんな国だったんですね…。今でも変わってないのでしょうか。

インドは一度ぐらいは行ってみてもいいかなと思ってましたけど、金持ちにたかることを当然と考え、施しを強要する人々がまとわりつくような国なら、私とは価値観があまりにも違いすぎて、行っても不快になるだけかもしれませんね。

(当時のインドでは富の再配分制度が機能していなかったことから、)
「インドでは、個人から個人への直接的な施しが、そういった社会制度の代替制度なのだ」と言うのであれば、施しを避ける私を罵倒した人達の理屈も理解できます。
施しが拘束力のない慣習でしかない以上、それは理屈と言うより感情ですよね。みんながやってる慣習に倣わない人がたまに現れて、その自由な振る舞いが自分の不利益になるとしたら、罵倒したくなる気持ちは分からなくもないかな、ってレベルです。

しかし旅行者を罵倒して不愉快にさせたところで、気が変わって施しをしてくれるはずもなく、こんな場所は二度と来ないぞと決意させるのがオチでしょう。そして嫌な体験はこうして本やブログを通じて共有され、未来の旅行者を確実に減らすことでしょう。貧乏人がネガティブな感情をむき出しにしても、彼ら自身を含めて誰もハッピーにはなりません。

そこ(アメリカ)では、世界的な企業を興して財をなした大資産家が、自分の名前を冠した基金を立ち上げ、貧しい国や困っている人に多額の寄付をします。アメリカ社会はそういった行為を高く評価する一方で、税率を上げ、それを原資として充実した福祉制度や医療保険制度を政府が提供するという政策には大反対します。
現にそのような政策を掲げたオバマ大統領が選挙に勝ったりしていますし、アメリカ社会にもそこまで明確な小さな政府支持の傾向はないように見えます。

ただ、日本の場合、小さな政府を支持する国民があまりにも少なく、その偏った傾向に迎合した大きな政府路線の政党だらけの選挙なので、それと比較すれば、小さな政府と大きな政府が世論を二分しているというだけでも、アメリカは実に羨ましい国だと思います。

ちきりんは、貧しい人が富める人から直接的に寄付を受けるのではなく、国の制度を通して、当然の権利として福祉を享受できる仕組みを整備することを悪い選択肢だとは思いません。
日本は国を挙げてそれを実現してみた結果、現行の年金、健康保険、生活保護のように欠陥だらけの福祉制度が出来上がり、それらを維持するための国家予算がとんでもない規模に肥大化してしまったことは、皆さんご存知の通りです。

なぜそうなったかというと、政府が公金を使って福祉を提供するという仕組み自体が、特に増税によらず国債によって財源を確保している間は、まるで福祉の享受がフリーランチであるかのような錯覚を生み、人々が「当然の権利」として何でもかんでも政府に要求する癖がついてしまったからです。

つまり、自分が当然の権利として享受している福祉のコストは、どこかの誰かが払ってくれていて、その誰かとは自分自身かもしれないし自分の子や孫かもしれない、とは決して考えない。そんな奇妙な錯覚に陥った国民が、盛大なバラマキをやってくれる政治家を選挙で選んでしまうのです。この傾向は日本に限らず、民主主義の先進国でよく見られるもので、民主主義のシステムそのものに内在する欠陥の一つではないかと思います。

グアテマラでネックレスの盗難にあった友人エバさんの話。
私はアメリカで盗難保険に入っているから、ネックレスの代金は全額返ってくるわ。つまり私は、アメリカの保険会社からグアテマラの貧しい人への寄付を仲介したようなもんよね?
エバさんに支払われた保険金は自分自身を含む保険加入者が広く薄く保険料として負担していますから、フリーランチではありません。保険会社=政府、保険料=税金、と置き換えると、エバさんの錯覚は公的福祉の場合とまったく同じ構造であることがわかります。

1980年代にビルマのお金持ちの家に招待されたときの話。
「何を持っているか、ということが、これほどまでに豊かさとは無関係なのだ」と気がついた瞬間でした。
(中略)
「家や車やお金なんて持っていても、私の生活は決して豊かとは言えない。豊かな人生というのは、あなたのように希望や自由や選択肢のある人生なんだ」と、彼は言いたかったのです。
お金持ちのはずのこのビルマ人がなぜ豊かでないかというと、彼が持っていた大量のお金がビルマ国内でしか通用しないローカル通貨だったからなんですね。

第1章「お金から見える世界」にもこんなことが書かれていました。
国際市場で自由に両替可能な「ハードカレンシー」を持っている国はそんなに多くはないのです。普通に働くだけでそういった通貨が得られる国で生活していることの有利さは、普段は意識もしないけれども、実はものすごく恵まれたことなのです。
日本人がいざとなれば外こもりのような生き方を選択できるのも、どこでも通用するパスポートとお金を持っているからこそです。たまたま生まれた国が違うだけで、こんなにもスタートラインの位置が違うという冷徹な事実を、ちきりんさんの体験を通じて知ることができて良かったです。

参考記事: 
新刊、本日発売です! - Chikirinの日記
社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう! 活かす読書
見るべきポイントはガイドブックの他にも存在する。:社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!:本読みの記録:So-netブログ

2012年10月9日

『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』 ちきりん (著)  その1



ちきりんさんが世界各地を旅行しながら感じたこと、考えたことが書いてある本です。
冒頭のエピソード、セブ島のレストランで「リプトンのティーバッグ」が出てくる理由さえ知らなかった私にとっては、なるほどと思えることがたくさんありました。

訪れた場所が多彩なのはもちろん、時間(時代)の幅も広く、今となっては誰も経験することの出来ない共産主義経済下のモスクワにも行っていたり、旅人としての経験値がかなり高い人だと再認識しました。「Chikirinの日記」の面白さは、このような貴重な経験の積み重ねから生まれてきたんだろうなと。

1986年と2007年にモスクワを訪れたちきりんさん曰く。
「資本主義国になるとはどういうことなのか」、共産主義陣営のトップにあった国の変化を実際に見ることができ、とても貴重な旅となりました。
第4章「共産主義国への旅」では、国民みんなで平等に貧しくなる共産主義経済の実態がよく伝わってきます。あんな時代にあんな国に生まれなくて本当に良かったと思えます。

第9章「変貌するアジア」では、ロシアと同様、共産主義経済から脱却した中国での労働者の変貌ぶりに納得。
「動機付けのシステムが変われば、人の行動は短期間にここまで大きく変わる」という非常に興味深い事例だと思います。
経済的なインセンティブをうまく与えることによって、強制しなくても人は自発的にやる気を出すということがよくわかります。それとは逆に、格差を否定して平等主義的なシステムを採用すれば、やる気を出すインセンティブが失われます。

第7章「古代遺跡の旅」
人間なんて、いずれ露と消え、後世まで残るのは石と砂でできた無機質な建造物だけです。
そう思うと、日々のあれこれに一喜一憂することがなんだかバカらしく感じられます。どんなにじたばたしても、一人の人間が生きられるのはたかだか百年です。反対に、数千年残るものは「生きていなかったもの」ばかりです。「命ある者」は、生きているその時をこそ、目一杯楽しんですごすべきということなのでしょう。
遺跡のような建造物ではありませんが、私も山歩きをしていて巨大な岩の上で休憩しているときなどにふと、同じようなことを感じます。この大きな岩は千年前からここにあり、千年後も変わらずここにあるんだろうなと。それなのに私は千年前にここに座った人を誰も知らないし、千年後の人たちは誰も私がここに座っていたことを知らないのだと。

時間軸をそういうスケールで眺めたとき、人の一生に与えられた時間の短さ、人の存在の小ささに愕然とします。

(つづく)

2012年9月27日

『ニートの歩き方』は未読ですが

もう1か月前になりますが貧BPさんのブログにもう一つ気になる記事があったことを思い出しました。
貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 phaさんの『ニートの歩き方』を支持するインテリたち

この本はようやく図書館に予約を入れた段階で、読むのはしばらく先になりそうなんですが、phaさんの生き方についてこのような問いかけがあったので、自分なりに回答してみたいと思います。

いわゆる社会生活を立派に送ってる人が彼を前向きに評価する場合、それはほぼ例外なく「彼が自立できている」ゆえに評価している、という形式がなりたっているように思えるのは、気のせいだろうか?
気のせいではなく、そこは大いに関連がありそうです。
私も、誰か(親、配偶者など)や何か(会社、国家など)に依存した生き方よりも、できるだけ自立した生き方の方が自由で素晴らしいものだという価値観を持っているので、その形式にあてはまります。

彼を評価する人に聞きたいのは「いざphaさんが生活に困窮し生活保護を申請した場合、あなたはそれでも支持を続けられますか?」ということだ。
そういう依存的な生き方を支持することはないでしょうし、正直、失望するでしょうね。
因みに、合法的に制度を利用している人に非難の矛先を向けるのはお門違いだと思います。現行制度に問題があるならば、制度を変えればいいという立場です。どう変えるかと言えば、生活保護も年金も廃止してベーシックインカムへ一本化すべきという立場です。(関連記事: 『ベーシック・インカム』

彼はいざとなっても生活保護を申請しない、それだけのポテンシャルがあると思えばこそ、彼の「反社会生き方」を表面的に支持し、評価してるとさえ言えるのではないだろうか。
これは違います。
評価の対象は、現在どういう生き方をしているかであって、将来どうなるかとか、ポテンシャルは関係ありません。
そして、私が支持しているのはphaさんという人物ではなく、彼が今の時点で持っている価値観(の一部)や、取っている行動(の一部)です。彼の考えることや行うことが、現在も将来もすべて正しいとは思っていません。それが「表面的」な支持だと言われるなら確かにその通りです。

能力がある・金がある人間は自由な生活を送っても良い。能力がなく、人に雇われるしか能のない貧乏人は文句を言わずに働け。彼を評価する一般人からはそういうオーラを感じるのは気のせいか?
これも違うような。むしろ能力がない貧乏人こそ、phaさんや他の先人たちの生き方を参考にすれば、今よりもっと自由に生きられる余地があるのではないですかね。
能力や金に関係なく、自由に生きたい人は自由に生きれば良いのです。ただし、「責任のないところに自由はない」という大原則があります。貧乏人ほど自己責任を否定したがる傾向があるような気がしますが、もしそういう人が「雇われて生きるのは不自由で我慢ならない」とか言っているのだとしたら、それは自己矛盾じゃないかとツッコミを入れたくなるかも。

関連記事: 無職の才能 - phaのニート日記

2012年9月26日

無への道程

貧BPさんのブログ
貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 金が無いから自殺なんてバカらしすぎてする気になれない!
を読んで知りました。
あと1か月余りで自殺する予定の方(zar2012さん)のブログがあることを。
無への道程

ざっと拝読しましたが、彼の死生観や根底にある価値観には、意外なほど共感を覚えました。
もちろん、自殺するという選択を積極的に支持するわけじゃないですよ。でも逆に、それがどうしようもなく愚かな選択だからやめるべき、という考えすらも浮かんでくることはありませんでした。

貧BPさんはこう書かれています。
なんとかこの方に連絡を取れないでしょうか? 何度でも言いますよ。お金がない、働きたくない、そんなことで死を選ぶなんて、バカげてます!!!
 そのことを何とかして伝えたい、そう思うのです。
なるほど気持ちはわかります。
ですが、zar2012さんのブログを拝見する限りでは、自殺がバカげたことだという価値観の方が世間では圧倒的に支持されていることも、生き延びるための手段がまだ残っていることも既に承知しているように見えます。たとえばこの記事では、
無への道程:救いを求めて
親でも何でも頼る…という手は一応残されていますが
そこまでして生きていたいとはどうしても思えなかった。
とはっきり書かれています。
それは承知の上で、そんなものにすがりつきたくはないと考えることって、そんなに特殊で理解できない価値観なんでしょうか。自立心、自尊心の高い人はけっこう理解を示すように思うのですが。

これに対し、mushoku2006さんは次のように書かれています。
死ぬな、働け! : 年間生活費100万円! 36歳からのドケチリタイア日記
そこまでして働きたくない人間を、
なぜに他の人が税金で生かしてあげなければならないのでしょうか?
(中略)
死ね、と言いたいわけじゃないですよ。
働けよ、と言いたいわけです。
これが私の結論です。
多分この意見が、日本人の中では最も多くの支持を集めるのだろうなと想像しつつ、これも何かが違う気がするのです。
無意識のうちに、「働くことがどんなに不幸でも、死ぬ不幸よりはマシに決まってる」という前提に立ってたりしませんか? まあ多くの人にとってはその前提が成り立つんでしょうけど、そうではないケースも存在するかもしれません。私自身、今は大丈夫でも将来「死んだほうがマシ」な状況に追い込まれる可能性が一切ないと断言する自信はありません。

個々のケースにおいてより幸福な選択は何か、各人が自分の頭で考えて自分で結論を出す。これがすべてであって、他人がああしろこうしろと口出しすること自体が根本的に間違っている気がするのですが。

もしかすると貧BPさんもmushoku2006さんも、他人の人生に口出ししているつもりはなくて、こういうケースだったら自分はこうする、というレベルの話をしているものと理解すれば、それぞれの価値観の違いが浮き彫りになる興味深いテーマかもしれないですね。

2012年6月18日

『年収100万円の豊かな節約生活』 山崎 寿人 (著)



著者は東大卒という高学歴の持ち主でありながら30歳で会社員を早期リタイアし、無職生活を20年続けている、高等遊民として大先輩の方です。
無職なのに「年収100万円」なのは、遺産相続した不動産からの家賃収入があったからですが、現在はその不動産は売却済みで、年金受給開始までは貯金の取り崩しで生活する作戦のようです。

僕がまず求めているのは、日々の生活を人生もろとも楽しむこと。あくまでも、幸せが先。節約は二の次、三の次。
同意します。
節約は楽しいからやるのであって、無理して節約して不幸になったら意味がありません。

実感としては、ただ生きのびるというだけなら、あるいは今の収入の半分でも何とかなるかもしれない。
この最低限何とかなるレベルの生活コストというのも、大胆な発想の転換や視野の拡大によって、かなりの伸縮性があることがわかります。たとえば、Bライフ海外生活まで視野に入れれば、年30万円でも何とかなります。

つまり「生活の豊かさ快適さと節約とのバランスをいかにとるか」を考え、様々な智恵を絞っている時間それ自体が、僕にとっては何より楽しく豊かな時間なのだ。
考えてみると―――金のかからない楽しみを探すことが節約法のひとつなら、これこそ最強の節約術ではないだろうか。頭を使うことにお金はかからないのだから。
全く同感です。
節約は必要に迫られて仕方なくやるか、知的なゲームとして楽しむかによって、まったく別物になると思います。

何のためらいもなく割高の商品を買う人を見るたびついつい思ってしまうのは、「その割高の分だけ、タダ働きをしたことになるってことを考えないのかな、この人たちは」ということ。無駄遣いとは無駄働きと一緒、と思うのだがどうだろう。
これも完全に同感です。余分に払うには余分に稼ぐ必要がありますからね。同じ趣旨の発言をどこか見たような…。西村博之さんでした。
『そこまで言うか!』 勝間 和代 (著), 堀江 貴文 (著), 西村 博之 (著)

割高の商品を買う人たちは決してそうは考えないのだと思います。単に頭を使うのが面倒くさいだけの人もいれば、働くことが楽しいからタダ働き上等!な人もいるんですよね、不思議なことに。

もっとも、他に窮余の策としては、国民年金保険料の3/4~全額免除を申請するという手があるのだが、ただしこの場合、その分将来の受給額が減ってしまう。なにしろこの生活では、いくら年金問題で不満があるとはいえ、やはり将来の年金頼みは避けられない。老後の定収入確保を考えた場合、できるだけこの選択は避けたいところだ。
私の場合、窮余でなくても全額免除申請しましたけどね。著者の場合は公的年金制度を最大限あてにする計画のようです。

実際、僕がこの生活を続けているのは、ここには自由な時間が無尽蔵にあるからだ。言い換えれば、何もしないでよいことを、何より大切にして生きているのだ。
無尽蔵のようで実は有限ですけどね。時間が有限だからこそ、不自由な時間を最小化して自由な時間を最大化したいってことなのでしょう。

ところがこのプータローだけは、二十年経ってもまったく飽きることなく、それどころか、日を増すごとに生きることが楽しくなってゆくばかりなのだ。
(中略)
今にしてようやく気づいたのは、実はこのプータローというやつこそ僕の天職だったのではなかろうか、ということだ。
私の場合はまだ5年ですが、同じように感じています。無職生活こそが本来の姿であり、かつて学校や会社に通っていたのは世を忍ぶ仮の姿だったのだなと。
つまり私にとって無職生活に飽きるということは人生に飽きるということであり、もっと高齢になって心身が不自由な状態にならない限りあり得ないことだと思っています。

参考記事: 
年収100万円の豊かな節約生活
kabu-10.at.webry.info
山崎寿人著。以前に、コメント欄で紹介された本だと思うんですが、昨日図書館に入ったので、早速読んでみました。私も生活費は100万円でやっていますけど、方向性が著者と逆なんですね。私は幸せの量は一定でOKなので、出来るだけ支出を減らそうとしているのに対し、著者の山
blog.livedoor.jp


2012年5月29日

『定年後のリアル』 勢古 浩爾 (著)



アマゾンに「同世代に何ももたらさない唯我独尊人生論。」というタイトルの★1レビューがあるように、充実した老後人生の参考にしようと本書を手にした人にとっては知りたくもなかった、妙にネガティブで身も蓋もない現実を突き付けられたと感じる内容かもしれません。

この先わたしたちはどうすればいいのだ、なにか教えてくれ、というように具体的な方策を他人や本に求める根性がすでにだめである、とわたしは考えているからである。求めさえすれば、自分の現実を変える「方法」や「答え」をおまえは示すべきだ、という根性じたいがだめである。そんな魔法のような「方法」や「答え」など、どこにもないし、だれも知らないのである。有名人や学者や金持ちや偉い人や成功者に訊いても無駄である。
同意します。
誰かが答え(のようなもの)を示さないと不安だ、一人では何も決められないという人は、自分の人生を生きることはできないと思います。

”サンデー毎日”は、たしかに楽は楽なんだけどね。それほどうれしいことじゃない。やっと宮仕えから解き放たれたという解放感は意外なほどないものである。
ここは不同意。
人生の多くの時間を奪っていた労働義務から解放されるのは、単に気が楽になるというレベルのものではなく、やっと自分の人生を生きることができる、という根源的な解放感、幸福感を伴います。私の場合。

子どもはなんとか手が離れている。持ち家だけはかろうじて確保しているが、貯金は質素に暮らしても四、五年で食いつぶしてしまうほどしかない。
定期収入は「月十万円少々の年金だけ」とあるので、夫婦二人暮らしにしては資産が足りないかもしれませんね。奥さんの年金がどうなっているのか不明ですが、足りないなら足りないなりに、今からでも工夫して支出を減らすしかないですね。

ただ、昼食を六百円以上する外食で済ませたりしているようで、それほど「質素に暮らして」いるようには見えないんですけど…。やっぱり上の年代に行くほど金銭感覚が少しずつズレているような気がします。

いうまでもなく、欲望の合計額が現実の手持ちの額を上回るのはだめである。いい家に住んで、うまいものばかり食って、車も持って、年に何回も海外旅行に行って、などと自分の欲望を元に考えれば、手持ちの額で足りるわけがないのである。いい古されたことだが、足るを知らなければならない。世間に煽られて、不要で余計な欲望をかきたてられるなど恥である。
その通りですね。
人間の欲望には上限がないので、どこかに線を引いて諦めなければ、死ぬまでお金を稼ぎ続けることになるでしょう。

わたしはもう決めた。テレビを見て、散歩して、本を読むだけでけっこうである、と。あと時々旅行。なにかをしたくなればするし、そうでなければやらない。
そう、これでいいんです。自由時間とはそういうもの。

容姿はもうどこから見てもおっさんおばさん、なのにこころはまだ十代の頃のまま、というギャップである。年をとるにつれて、容姿(生理的年齢)とこころ(自分年齢)の乖離が激しくなっていくのである。
鏡を見ると、そこに現在の自分が見える。なんで、いつの間にこんなに老けたのだと思う。これがおれなのか? と思う。
わかります。
心は十代とは言わないまでも、二十代の頃から何も変わってない気がするんですよ。特に男性は精神的に歳を取りにくい生き物のような気がします。

べつに趣味なんかあってもなくてもどうでもいいのではないか。「趣味」という言葉にあおられることもないのだ。
同感です。

外に出れば出たで、電車に乗るにも喫茶店に入るにも、美術館や展覧会や映画に行くにも、安い昼食をとるにも金がかかる。自由とはじつに金のかかる代物である。
これは不同意。
金がかかるのは自由だからではなく、忙しかった現役時代の習慣が染み付いていて、時間や手間を惜しんで何事も金で解決しているからでしょう。つまり金が「かかる」のではなく、自ら金を「かける」選択をしているだけ。
金をかけたくなければ、たとえば高価な公共交通機関なんか使わずに40km/Lのバイクで移動すればいいし、喫茶店じゃなくマクドナルドの100円コーヒー、映画はTSUTAYAの100円レンタル、昼食は自炊すればいいんですよ。

時間貧乏な人なら時間をお金で買うしかないような場面でも、時間リッチな自由人なら時間を使ってお金を使わないという選択肢も選べるわけです。選択肢が一つしかないよりも二つあるほうが良いに決まっています。

暇はなんでもつぶさなければならない、というのが間違いである。その暇もまた退職者の特権である。もはや暇が生活の基本である。その暇のあいだに、趣味をしたり、散歩をしたり、旅行したりするのである。
その通りです。
暇な時間をつぶさないと気が済まないタイプの人は、リタイアしたら苦労すると思いますよ。

さっきから聞いていると、おまえは陰鬱なことばかりいっているが、それじゃあ夢も希望もないではないか、という人が、私ははっきりいって嫌いである。ウソでもいいから明るいことはいえないのか、という人が嫌いである。
同感です。どんなに明るいことでも、「ウソでもいい」わけがないだろうと思います。
この価値観に共感できない人は本書を読まないことをおすすめします。

参考記事:お金学 定年後のリアル(勢古浩爾著)

2012年4月25日

『人生をシンプルに変えよう!』 川田 久里央 (著)



アマゾンのレビューが星5つのみというのは不自然な印象を受けました。

ミニマリスト(最小限主義者)という言葉は初耳でしたが、本書による定義は
西洋アートを起源にした、
「美しくあるために減らす生き方」を実践する人です。
簡単にいえば、
部屋、時間、情報、体、仕事環境、人間関係、心の中……
あらゆることをシンプルにして、
クリアで穏やかな心や、本当に大切なものを手に入れる、
とっても素敵な生き方をしている人のことです。
正直、いまいちよくわかりません…。
本書の内容は全体的には余り心に響きませんでしたが、部分的には、たとえば第3章の半断食の話などは、参考になりました。本書のやり方をそっくりそのまま真似するつもりはありませんけど、一日二食かつ少食の習慣を身につけるのは健康面でも金銭面でも良さそうだなと。

インプットした情報を、アウトプットする。
だす(捨てる)ことで、整理される。
これが、情報を頭に入れる一番のコツなのです。
ブログを書くことががまさにそれですね。

「今月、クレジットカードでいくら使いましたか?」
思わずウッとなる、嫌な質問。
正確に答えられる人は、少ないはず。
家計簿を見れば簡単に答えられます。

煙にまかれて、どんどん使ってしまわないように、
できる限り現金で支払うようにしましょう。
これについては
けっこうな人気本のようですが、 資産がマイナスかもしくはゼロに近い状況にあり、このままではいけないと感じている「お金の問題児」である(かもしれない)あなたといっしょになって家計を立て直し、貯金をするための実践的なアドバイスをお伝えしたいのです。 と書かれているように、「お金の...
yumin4.blogspot.jp
にも書いたように、支払手段が変わっただけで「どんどん使ってしまう」という不思議な金銭感覚を治す方が重要です。クレジットカードを封印するのはただの対症療法であって、それを長く続ければ、クレジットカードを正しく使っている人よりも損をし続けます。

クレジットカード払いを完全にゼロにするのが、難しい場合は、銀行口座を、クレジットカードなどの「支払い用口座」と「給与振込用口座」の2つに分けます。
こうすることで、毎月手動でお金を振り込む手間が発生し、「お金の意識が高まる」そうです。
しかし、わざわざ手間を増やすやり方はあまりおすすめできません。
なぜなら、うっかり振込を忘れると支払い用口座の資金が残高不足になり、クレジットヒストリーに傷がつくからです。もちろん延滞金も取られます。
そして「人生をシンプルに」という本書の方向性ともマッチしていないように思います。

著者のブログはこちら。
www.earthinus.com

参考記事:

2012年4月13日

Time is money  キムのお金日記

新しい早期リタイア系ブログを見つけました。
Time is money  キムのお金日記

現在26歳で、40歳セミリタイアを目指しているようです。
リタイアを志向する理由はどちらかと言うと「後ろ向き」なものですが、私はとても共感できます。

Time is money  キムのお金日記 40歳セミリタイアに向けての資金計画には、きっちり100歳までの資金計画が立てられています。資産残高や収支を公開している点でも非常に具体性があり、リタイア志向の若者にとって参考になること間違いなしです。

一番大事なことは、今は嫌でも働き収入を確保し、節約を維持することだと思います。

そしたら夢のセミリタイアです。40歳ならまだ若いし、遊びまくれます。40歳で遊びまくれると考えると今からワクワクしてきます。
そうですね。会社が嫌になっても、こういう具体的な目標があることで我慢強くなれるかもしれません。


セミリタイアつながりでもう一つ、こちらのブログも。
ノマドライフ2.0  年収300万円からの資産形成/ウェブリブログ
当ブログへのアクセスランキングで常に最上位に位置するありがたい存在です。こちらの何倍も人気のあるブログなので、今更紹介するのも気が引けるのですが…。

cubさんは現在失業中のようで、仮リタイア生活に入っているようですね。ひとまずおめでとうございます!(皮肉でもなんでもなく、心の底からそう思います)
それなりの資産とローコストな生活術があれば、失業とか無職という言葉の響きもまったく違ったものに聞こえますね。

2012年3月4日

『自分のアタマで考えよう』 ちきりん (著)



御本人の紹介記事はこちら:『自分のアタマで考えよう』内容紹介(叱られたからやり直し!) - Chikirinの日記

前著の『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』は、ブログから抜粋、焼き直した本でしたが、本書は書き下ろしですから初めて目にする内容がほとんどでした。

この本に書いたのは、そんな「ちきりん独自の視点」を生み出す源となっている「思考の方法論」です。
一言で言えば、すごく「真面目な」内容です。
紹介されている具体的な思考の技術の多くは知らなかったので勉強になりました。しかし、読んでいて今ひとつ興味がそそられなかったのも事実です。現役時代ならともかく、こういった技術を総動員して何かを真面目に効率的に考える機会は、今後の人生でそうあるものではないような気がしたので。

①知識は思考の棚の中に整理すること
②空いている棚に入るべき、まだ手に入っていない知識を常に意識すること
③それらの知識が手に入れば言えるようになることを、事前に考えておくこと
これが、ちきりんが考える「知識と思考の、理想的なカンケイ」なのです。
確かに理想的なんでしょうけど、なんか型にハマり過ぎというか、敷居が高く感じるんですよね。

知識の吸収はもっと自由に、整理整頓とか何も考えずにやっていいと思うんですよ。それこそWikipediaサーフィンでも本の乱読でも、何の目的もなく浴びるようにやるのも面白いんじゃないでしょうか。