2012年9月27日

『ニートの歩き方』は未読ですが

もう1か月前になりますが貧BPさんのブログにもう一つ気になる記事があったことを思い出しました。
貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 phaさんの『ニートの歩き方』を支持するインテリたち

この本はようやく図書館に予約を入れた段階で、読むのはしばらく先になりそうなんですが、phaさんの生き方についてこのような問いかけがあったので、自分なりに回答してみたいと思います。

いわゆる社会生活を立派に送ってる人が彼を前向きに評価する場合、それはほぼ例外なく「彼が自立できている」ゆえに評価している、という形式がなりたっているように思えるのは、気のせいだろうか?
気のせいではなく、そこは大いに関連がありそうです。
私も、誰か(親、配偶者など)や何か(会社、国家など)に依存した生き方よりも、できるだけ自立した生き方の方が自由で素晴らしいものだという価値観を持っているので、その形式にあてはまります。

彼を評価する人に聞きたいのは「いざphaさんが生活に困窮し生活保護を申請した場合、あなたはそれでも支持を続けられますか?」ということだ。
そういう依存的な生き方を支持することはないでしょうし、正直、失望するでしょうね。
因みに、合法的に制度を利用している人に非難の矛先を向けるのはお門違いだと思います。現行制度に問題があるならば、制度を変えればいいという立場です。どう変えるかと言えば、生活保護も年金も廃止してベーシックインカムへ一本化すべきという立場です。(関連記事: 『ベーシック・インカム』

彼はいざとなっても生活保護を申請しない、それだけのポテンシャルがあると思えばこそ、彼の「反社会生き方」を表面的に支持し、評価してるとさえ言えるのではないだろうか。
これは違います。
評価の対象は、現在どういう生き方をしているかであって、将来どうなるかとか、ポテンシャルは関係ありません。
そして、私が支持しているのはphaさんという人物ではなく、彼が今の時点で持っている価値観(の一部)や、取っている行動(の一部)です。彼の考えることや行うことが、現在も将来もすべて正しいとは思っていません。それが「表面的」な支持だと言われるなら確かにその通りです。

能力がある・金がある人間は自由な生活を送っても良い。能力がなく、人に雇われるしか能のない貧乏人は文句を言わずに働け。彼を評価する一般人からはそういうオーラを感じるのは気のせいか?
これも違うような。むしろ能力がない貧乏人こそ、phaさんや他の先人たちの生き方を参考にすれば、今よりもっと自由に生きられる余地があるのではないですかね。
能力や金に関係なく、自由に生きたい人は自由に生きれば良いのです。ただし、「責任のないところに自由はない」という大原則があります。貧乏人ほど自己責任を否定したがる傾向があるような気がしますが、もしそういう人が「雇われて生きるのは不自由で我慢ならない」とか言っているのだとしたら、それは自己矛盾じゃないかとツッコミを入れたくなるかも。

関連記事: 無職の才能 - phaのニート日記

2 件のコメント:

  1. (>貧乏人ほど自己責任を否定したがる傾向があるような気がします
    残念なことながら、私もそれを感じます。不平不満があるのは分かるのですが、それを自らの手で解決しようとする意欲を感じられない人が多いような気がするのです。もちろん、そうでない方もそれなりにいるとは思うのですが。
    動物園なら口を開けていれば餌がもらえますが、その代わり、檻の中にいることも忘れないでいて欲しい。

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  2. それは、自己責任感は自己の有能感と切っても切れない関係にあるからでしょう。
    成功したら、それは自分の努力や能力の結果であり、他者のお陰ではないと思いたがる。
    逆に失敗したら、それは自分が悪いのではなく他者のせいだと思いたがる。
    貧乏というのは資本主義社会における失敗者ですから、当然、自己責任は放擲したくなります。
    資産家や金持ちは、自らの責任や能力をより大きく評価したくなるはずです。
    これが大逆転する現象が、いわゆる革命ですね。既存のルールに従わない暴力によって、ルールを上手く活用した成功者を引きずり落とすわけです。
    極端な例がカンボジアのポルポト派。それまでの成功者であった資産家、知識階級が一気に引きずり落とされ、敗者であった貧困層が支配層に駆け上がったわけです。
    もちろんこれは肯定されるべきではありませんけども。

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