2009年8月31日

『払いません。―ナンデ?モッタイナイ!』


本書はとても過激な行動の書であり、同時にとても役立つ実用の書でもあります。
とありますが、実際に実用に耐えるのは、第3章の交通違反反則金、第4章の国民年金ぐらいかなあと。しかもこの二つは過激でもなんでもなく、比較的簡単に実践できることです。

私は過去20年ほどの間に交通違反嫌疑で2回ほど青切符を切られた経験があります。せっかくの機会なので正式裁判を受ける権利を行使したのですがあいにく起訴されることはなく、反則金や罰金の類は一銭も払ったことがありません。本書に書いてある通り、青切符の場合の不起訴率がかなり高いのは真実だと思います。検察官も裁判所も雑魚にかまっている暇はないということでしょう。

国民年金を合法的に払わない「免除」は、無職でなくても低所得者であれば拍子抜けするほど簡単に実行できて、しかもデメリットはほとんどないと言って良いと思います。同じ早期リタイア組のぬこさんは律儀に全額払っているという事を知って、正直驚きました。私は当該記事の
1円も払わずもらえるなら、これほどの投資はない
というコメントと同じ考えで、敢えて払うことに合理性はないと思っています。関連記事:
早期リタイア後の懸案事項の一つは国民年金です。 ほとんどの場合、失業者、低所得者として免除申請すれば全額免除になるはずです。私の場合も既に全額免除2年目に入りました。 年金の損得勘定は死亡年齢によって変わってくるので混乱しがちで、免除を受けると将来の支給額が減額されて損をする、と...
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第5章の国民健康保険では、
保険料のシステムが「高額所得者」には軽く、「低所得者」には負担の重い仕組みになっています
などと書いてあるのですが、いったいどこが?と思いました。
年収154万円の母子家庭の保険料が年額86,776円、一人当たり43,388円なのに対して、年収1,180万円の4人世帯の保険料が満額の61万円、一人当たり15万5千円という例が示されているのですが、同じ内容の保険に3.5倍も多く払っていてなお「軽い」などと言われたのでは堪らないでしょう。

第8章の介護保険料では、
住民税の大増幅、介護保険料の天引きなど、高齢者に対する「収奪」はあまりにもひどい。
などと書いてありますが、今までタダ同然だった高齢者の負担と比べて何倍増えたとか言われても・・・。ようやく適正な負担になりつつあるだけのことで、現役世代に対する理不尽な「収奪」に比べたらまだまだ可愛いものだと思いますよ。

2009年8月26日

政治ポジションテスト

かえるさんのブログで紹介されていた政治ポジションテストが面白そうなのでやってみました。

結果は、「リベラルかつ小さな政府を目指すタイプ」でした。
政治ポジションテスト結果.JPG

外交編では「グローバル指向のハト派」でした。
政治ポジションテスト結果外交編.JPG

普段当ブログに書いていることからして、予想通りの結果と言えましょう。特に小さな政府、グローバル指向が最高の+4なのははっきりとした自覚があります。しかし端へいくほど円は小さくなり、そういう政策は政治的に実現困難なのでしょうね。

2009年8月25日

『非属の才能』



漫画家の著者が、取材で何百人もの「才能のカタマリ」のような人たちに会って話を聞いた経験から、
「才能というものは ”どこにも属せない感覚” のなかにこそある」
と説く本です。
 学校は、人生でもっとも同調圧力が強い閉塞空間だろう。
「これが正解」「これがふつう」「これがあたりまえ」「これが常識」という同調を、教師は毎日これでもかというほど生徒に押しつけてくる。
やっかいなのは、それが生徒のためだと教師たちが本気で信じ込んでいることだ。完全に協調と同調を混同してしまっている。
同感です。
このような行動の根源にあるのは、中島義道氏が『人生に生きる価値はない』の中で「みんな一緒主義」と呼んでいるものと同じだと思いますね。

やや話がそれますが、ブランドの価値については次のような意見を述べています。
 とはいえ、バッグ一つに100万円は高すぎる。
バーキンでなくても、たかが財布やたかが時計に大金を払うのは、やはり少しどこか「ズレている」と言わざるを得ない。
━━みんなが認めるタグには価値がある。
こうなると価値の判断は「自分」ではなく、常に「みんな」だ。
時計ならロレックス、財布はヴィトン、車ならベンツかBMW、住むなら世田谷区か港区などと言う人間の多くは、ピンからキリまですべてを吟味してそう結論づけているわけではなく、みんなが称賛するブランドを選んでいるだけだったりする。
ブランドの価値が理解できない人間として、完全に共感しました。
 特にテレビは一切、見る必要はない。
同意します。しかし、
もちろん、インターネットも絶対につないではいけない。
携帯電話は一刻も早く解約しなければならない(もしくは電源を切る必要がある)。
これはちょっと・・・。
「誰ともわかり合えない」という危機感を持ち、小さな群れにさえも属さないためだそうですが、そこまで自分を追い込まないと芽が出ない才能なら自分は要らないかな、と思います。

2009年8月20日

『偽ロレックスを買う人は、どうして一生貧乏なのか?』



 世の中で金利を赤の他人に払ってあげるほどバカバカしくて、くだらなくて、無駄なことはない、と思っていただけるようになったでしょうか?
借金をして物を買うとどれだけ損をするかということを、バランスシート上の数字を使ってわかりやすく教えてくれます。
 物を購入する際は、極力ローン、キャッシングを避けキャッシュ(もしくはカードの一括払い)で購入することを心がけましょう。
いまさら言われなくてもそんなことは当たり前、と感じる人は読む必要のない本だと思います。
 あなたは住宅ローンをそのままにして、一生懸命貯蓄(金融資産)を増やしていませんか。
(中略)
その100万円でいったいいくらの金利を支払う必要がなくなるか、それを計算してみると解約手数料を払ってでもローン返済に充てるほうがお得かどうか、わかってくると思うのですけれど。
繰り上げ返済に勝る資産運用なし、とはよく言ったものです。

本書で変だなと思ったのは、
・偽ロレックスなどのブランド物の話
タイトルで釣るには良かったのでしょうけど、自分がBMWの虜になった経験などを紹介して、高級ブランドに余分な金を払うことをお勧めしている点は蛇足だなあと思いました。

・「カモ」にならないための資産運用スタンス
運用のプロたちがしのぎを削っているマーケットにお金を置きっぱなしにしていると、素人はカモにされるという趣旨のことを書いていますけど、いかにもありがちな誤解だなあと思いました。

『なぜ投資のプロはサルに負けるのか?』より:
「投資のプロってどうやって利益を上げているのですか?」
(中略)
答えは「投資のプロは利益を上げていない」です。
お金を置きっぱなしにしている素人はカモではないばかりか、プロのおかげで楽をさせてもらえるフリーライダーとさえ言えると思います。

2009年8月17日

『ウェブはバカと暇人のもの』



ネット漬けの日々を送っているという著者が、インターネットの理想論ではなく現実論を、しかもダークサイドに焦点を絞って語る本です。このように挑発的なタイトルで釣るあたりは、流石にニュースサイトの編集で飯を食っているだけのことはあるなと。これは皮肉ではありません。
現在、私はとあるニュースサイトの編集者をフリーランスでやっている関係で、ネット漬けの毎日を送っている。何がネットでウケて、何がウケないか、どんなことをすれば叩かれ、どんなことをすればホメてもらえるか、そんなことをいつも考えている。
何だか大変そうな仕事ですね。顔の見えないネットユーザーの顔色を窺うというのは。
 私たち運営当事者が相手にしているのは、善良なユーザーがほとんどではあるものの、「荒らし」行為をする人や、他者のひどい悪口を書く人や、やたらとクレームを言ってくる「怖いユーザー」や、「何を考えているかわからない人」「とにかく文句を言いたい人」「私たちを毛嫌いしている人」も数多い。
 いや、暴言を吐いてしまうと、「バカ」も多いのである。
その通りです。ただし、ここで「バカ」とひとくくりにして呼んでいるのは「頭が悪い人」というよりは、「自分に何らかの害を及ぼしそうな人」という感じでしょうか。
リアルの世界がそうであるように、ネット上にも各種の「バカ」を含む多様な人々が存在するのは当然と言えるでしょう。
 そして、タチの悪いことに、この「バカ」の発言力がネット上では実に強いのである。
これもある意味当たってます。
ネットはフラットな世界であり、「バカ」もそうでない人も匿名で自由な発言ができるため、リアルの世界では自制していた「バカ」が急に目立ち始めたと見るのが妥当ではないかと。
 悲しい話だが、ネットに接する人は、ネットユーザーを完全なる「善」と捉えないほうがいい。集合知のすばらしさがネットの特徴として語られているが、せっせとネットに書き込みをする人々のなかには凡庸な人も多数含まれる。というか、そちらのほうが多いため、「集合愚」のほうが私にはしっくりくるし、インターネットというツールを手に入れたことによって、人間の能力が突然変異のごとく向上し、すばらしいアイディアを生み出すと考えるのは、あまりに早計ではないか?
完全なる善とか突然変異とか、そこまで楽観的に捉えている人はいないような気が・・・。
集合愚が生まれる場合もあることは否定はしませんが、集合知との二者択一というわけでもないでしょうし。
・ネットはプロの物書きや企業にとって、もっとも発言に自由度がない場所である
・ネットが自由な発言の場だと考えられる人は、失うものがない人だけである
あたらずといえども遠からず。
プロの物書きであるが故に自由に発言できないというのは何とも皮肉ですが、プロが書いた記事よりも個人のブログのほうが断然面白いという傾向と見事に一致しています。
 そうこうしているうちに、男性からは「韓国を叩く件はどうなったか?」という連絡が入るようになり、そこで私はもはや「双方向」を諦めた。「Web2.0」とやらはあくまでも頭の良い人のための概念であると結論づけ、コメント欄をあまり見ないようにすることにして、携帯電話番号の公開もやめたのである。
ここで著者が諦めたと言う「双方向」とは、読者との直接的な質疑応答やコメントのやりとり、すなわち「キャッチボール」を意味しているようですが、本来のインターネットの双方向性というのはそのような狭い概念ではなく、リンクやトラックバックなども含む広い概念です。単に「キャッチボール」ができないケースがあるからといって、「双方向」そのものに問題があって機能していないかのように言うべきではないでしょう。
・全員を満足させられるコンテンツなどありえない
価値観の多様性を考えればそんなことは当たり前だと思うのですが、自ら様々な苦労を重ねた上での結論には重みがありますし、プロの物書きの悲哀すら感じます。
 ここで、ネットでうまくいくための結論を5つ述べる。(略)
2. ネガティブな書き込みをスルーする耐性が必要
この適性は絶対に必要ですね。これがないためにちょっと炎上しただけで閉鎖してしまったり、内容が無難すぎてつまらなくなってしまうブログがあったりすると、もったいないなあと思います。
基本的に「ネット世論は怖い」と大企業の人は思っているようだ。
 それでいて、「これからはWeb2.0の時代ですなぁ、ガハハ」などと言うのだ。
(中略)
 だが、ネットの書き込みを恐れている人間が、「これからはWeb2.0の時代ですなぁ、ガハハ」などと言うのは噴飯モノである。もし本気で「これからはWeb2.0の時代ですなぁ、ガハハ」と言いたいのであれば、その前にWeb1.374ぐらいは身につけろ、と言いたい。
 Web1.374とは今ここで思いついた適当な数字でしかないが、「ネットの書き込みに対する耐性をつけ、スルー力を身につけるレベル」ということである。
同感です。
 もう私は結論づけているが、ネットでいくらキレイなことをやっても消費者は見向きもしない。
(中略)
ネットでは、身近で突っ込みどころがあったり、どこかエロくて、バカみたいで、安っぽい企画こそ支持を得られるのだ。
(中略)
これを言うと企業の人は、「ネットってバカみたいじゃないか!」と驚く。だが、「はい、バカみたいなんです。そういうものなんです。人々の正直な欲求がドロドロと蠢いている場所なんです。(略)」と答えることにしている。
これも同感。
要はネットだからといって(良くも悪くも)特別視するのではなく、リアルの世界と同じと思っていればいいのです。

第5章では「ネットはあなたの人生をなにも変えない」と題して持論を展開していますが、やや言い過ぎという印象です。
ネットよりも電話のほうがすごい
ネットよりも新幹線のほうがすごい
異議あり。
新幹線なんか無くたって在来線があるし、今は電話がなくなってもネットで代用できるけど、ネットが無くなったら代替手段はありません。
故にネットのほうがすごいと思います。

2009年8月14日

無職生活開始~ by ぬこ

33歳で早期リタイアした方のブログを見つけました。
無職生活開始~ by ぬこ

ざっと拝見したところ、5000万円の資産は給与収入からこつこつ貯めて築いたもので、現在も定期預金のみの運用のようです。無理にリスクを取らなくても、生活コストを抑えることによってそれなりの資産を積み上げることができるというひとつの実例であり、具体的な金額やライフスタイルを公開している点でも、そこをわざとボカしている当ブログなどよりもはるかに、早期リタイア志向の人の参考になるブログだと思います。

「5000万円じゃ足りない」という趣旨のコメントも多く寄せられているようですが、現在の生活コストが年100万円であることを考えると、一体何が足りないのだろうというのが素直な感想です。

「33歳じゃ早すぎる」という意見に対しては、

これが答です。この考え方には私も共感するところが多いですね。

2009年8月10日

『一流の人は空気を読まない』



私は「KY」などという言葉が流行語になってしまう風潮を好ましく思わない一人ですので、タイトルに惹かれて借りてきたわけですが・・・

空気を読む読まないという話は、料理にたとえれば前菜扱いでしかなく、かなり期待外れでした。
本書のメインディッシュは、コテコテの努力主義者の著者が暑く語る仕事観と人生観であり、努力主義を好まない私にはとても食べられたものではありませんでした。(苦笑)

たとえば、次のような記述が随所に見られます。
努力を続けている限りは可能性はなくならないし、「完走」といえるほど努力を持続できたなら、結果を問わない達成感が生まれてくることは保証できる。
(中略)
だからこそ、「空気を読む」といったつまらない行為は放棄して、がむしゃらな努力をしてほしいと願うわけである。
年齢や境遇などには関係なく、誰もに夢や目標を持って、それに向かってたゆまぬ努力を続けてほしいということである。
(中略)
お金を貯める余裕や暇があるならば、勉強しろ、チャレンジを続けろ、ということである。
 チャレンジをしないで生きているということは、私に言わせれば死んでいるのとも変わらないことである。
(中略)
いちど力尽きて倒れるぐらいまでチャレンジしてみてこそ、自分の限界というものが見えてくる。そのときに初めて、自分の持つ可能性というものが見えてくるのだ。
もう、これでもかというぐらい煽ってます。1ページの中に出てくる「努力」や「チャレンジ」といったNGワード(笑)の密度が非常に高い。

本書は成功者にありがちな「自身の成功体験の一般化」の典型と見ました。
一つの成功物語として楽しむ分には問題ありませんが、本書に書いてあることを信じて真似する人が出てこないことを祈るばかりです。

関連記事:
『人生に生きる価値はない』 で著者の考え方に興味をもったので読んでみた本です。 私は、一生懸命生きれば人生に成功も失敗もない、という単細胞的きれいごとを言いたいのではない。それは完全なウソである。一生懸命に生きても(いわゆる)失敗に足を絡まれる。ノラクラ生きても(いわゆる)成功は...
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2009年8月3日

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』



『貧困ビジネス』で紹介されていた湯浅誠氏の本です。
貧困の最大の特徴は「見えない」ことであり、そして貧困の最大の敵は「無関心」です。
確かにその通りなのでしょう。しかし、
どうか貧困問題に関心を寄せてもらいたい。
残念ながら、こうしてブログに感想を書く程度の関心が私には限界です。本書を読み終えても、「所詮は他人事」という思いが消え去ることはありませんでした。貧困を他人事と思っている多くの人間の関心を引き寄せるには、道徳論や「明日はわが身」の恐怖心を煽るような主張ではなく、経済学的な視点から明確なインセンティブを提示する必要があるのではないかと思います。

本書の核になっている「貧困は自己責任ではない」という主張については、人材派遣会社ザ・アールの社長・奥谷禮子氏の物議を醸した発言を引用した上で、
先に奥谷発言に触れたように、自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ議論である。他方、貧困とは「他の選択肢を等しく選べない」、その意味で「基本的な潜在能力を欠如させた」状態、あるいは総合的に、”溜め” を奪われた/失った状態である。よって両者は相容れない。
と書いていますが、この主張に対しては以下のように反論しておきます。

人は何の意思決定も下さないないまま、「他の選択肢を等しく選べない」状況に陥いるものなのでしょうか? そのような状況に陥る前には「他の選択肢を等しく選べた」状況が存在したのではありませんか? 現在 ”溜め” を失った状態を招いたのは、それ以前の自らの選択の積み重ねではないと、どうして言えるのですか? 

「貧困は自己責任ではない」という主張に説得力が生まれるのは、自らが置かれている状況が、完全に外的要因のみによってもたらされた場合に限られ、現実に日本という豊かな国に生まれた人が、「自己責任ではない貧困」に陥る事例は極めて稀ではないかと思います。たとえば、第1章に出てくる夫婦の事例でも、
 最初に勤めたのは、ガソリンスタンドだった。時給690円のアルバイト。まじめに働いていたのが評価されて、向かいのメッキ工場にスカウトされる。そこをやめたのが18歳。理由は「自衛隊に入るため」だった。
自衛隊を3年で除隊した久さんは、大阪に帰って、おもちゃ販売、パチンコ、旅館と衣食住完備の仕事を転々とする。2005年に上京してくるまで、17年間で約30ヶ所の職場を転々とした。
 高校卒業後、服飾の専門学校に入るが、2、3ヶ月で中退。その後、家にひきこもる生活が始まる。20歳のときアルバイトもしたが、3週間しか続かなかった。
彼らが仕事を転々としたり、学校を中退したりしたときに、「他の選択肢を等しく選べない」何らかの事情が存在したという説明は見当たらず、そうした理由は単に「自分がそうしたかったから」にすぎないと思われるのです。
 健全な社会とは、自己責任論の適用領域について、線引きできる社会のはずである。ここまでは自己責任かもしれないが、ここからは自己責任ではないだろうと正しく判断できるのが、健全な社会というものだろう。
それにしても本書で著者が引いた線というのは、逆に「自己責任と言える場合って本当に存在するんですか?」と聞きたくなるぐらい、あまりにも自己責任論の適用領域を狭くしすぎであり、とうてい受け入れられそうにないと感じました。