2014年4月21日

欲の強さと早期リタイア

貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 本当に物が欲しくないのか、今一度よく考えてみよう。より:
そして彼らはこうも言います。「欲しいものがないなんて嘘だ、お金がない、稼ぐ手段がないからやせ我慢してるだけで、お金があれば欲しいものはいくらだってあるはずだ」
 この問いかけはなかなか真相を突いてると思います。
お金がないからやせ我慢…ですか。
これは違うと思います。

お金があれば欲しいものはいくらだってある…。
こちらは確かに正しいかも。ただ、「もしお金があれば」という仮定はお金を手に入れるためのトレードオフを無視しているので、天からお金が降ってくるような――たとえば親から遺産を相続するなどの――お金の入手方法の場合にのみ言えることでしょう。

「お金がないからやせ我慢」の方がおかしいと感じる理由を説明してみます。
人間の食欲や性欲にも大きな個体差があるように、後天的に形成された物欲の強さなんか本当に人それぞれで、同じ人でも人生のステージによって違うでしょう。世の中にはいろいろな欲が強い人の方がまだまだ多いのはわかりますし、資本主義経済が成長を続けているのも彼らのおかげです。でもいくら物質的に豊かになりたいと言っても地球の資源もエネルギーも有限だし、それ以前に人生の時間そのものが有限だから、無限の欲求を満たすことは不可能です。そうするとどこかに必ず線を引いてその向こう側にある欲求は切り捨てるしかありません。弱欲な人はその線をかなり手前に引いているだけのことで、強欲な人の場合でも必ずどこかに線があるのは同じです。

自分の欲の強さに応じた線を引くことを「お金がないからやせ我慢」と表現するならば、お金があって欲が強い成金・セレブ系の人たちも同じように、自らの線の向こう側にあるものが手に入らない状態をやせ我慢していることなりますが、果たしてこれは正しい表現でしょうか? 

資本主義社会においてお金があることが選択肢を広げるのは間違いのないことで、逆に言えば、お金がないと選択肢は狭まらざるを得ません。無限に選択肢を広げようとすると多額のお金を稼がねばならず、どこかで我慢を強いられることになります。それが嫌だから必死に働くという人は、たしかにいるんですよ。
まさにその通りです。
ただ、ここでも欲が弱い人にとっては「我慢を強いられる」と言うほど大層なことではなくて、お金を稼ぐ代償として失うはずだったものを失わない代わりに、それ以上選択肢を広げることを諦めるだけのことなんです。
選択肢が広がらない不自由と、働く不自由を天秤にかけて、前者が重たいと思えば働けばいいし、後者が重たいと思えば早期リタイアすればいいのです。

結局はトレードオフの話ではありますが、外こもりを目指すという人は、実際のところ自分という人間がどういう性格なのか、よく考えておいたほうがいいと思います。
同意します。
早期リタイアを目指す人も同じですね。

早期リタイアまで無事辿り着きリタイアに成功したとしても、その後のこともちゃんと考えたほうがいい。想定してる生活レベルがずっと続くことに耐えられますか? もっと豊かな生活を送るためにお金を増やすチャンスをちらつかされたら、そこに飛びつきたいと思ってしまいませんか?
私は想定している生活レベルがずっと(7年)続いていますが全く問題ありません。必要以上にお金を増やしたいとは思わないし、リスク資産を保有しているのはもっと豊かな生活を送るためではなく、長期にわたって資産の購買力を維持するためです。

たとえばリタイア後の生活レベルを現役時代よりも大きく下げることを想定している人は、落差が大きすぎて耐えられなくなるかもしれませんね。そういう意味でも、そしてお金を貯めるスピードを上げるためにも、現役時代に一度、目標とする生活レベルまで落としてみることが重要だと思います。実験の結果問題があるとわかったら、目標金額を上方修正してリタイアを遅らせるという手が使えます。

本人がこれ以上下げたら苦しいと感じる生活レベルの限界点を知らないままリタイアしてしまったら、そりゃ確かに危ういと思いますよ。リタイアした後になってからお金を増やすチャンスが気になってしまうようでは、そのあたりの計画性がまだ足りなかったということでしょう。

2014年4月7日

分散投資で早期リタイアは不可能?

こんなタイトルの記事が目に止まりました。
 無職さんのブログを見ていて、こんなことを考えました。  債券投資も含む分散されたポートフォリオで早期退職することは極めて困難≒事実上不可能なのではないか?  株式投資で分散されたポートフォリオの代表といえば、インデックス投資です。  1306やVTに投資した場合、1,2年で2,3倍になることはないと思います。..
heiseitureduregusa.blog.so-net.ne.jp

私の頭にある常識とは正反対の結論なのでちょっと驚きました。中身を見てみましょう。
 株式投資で分散されたポートフォリオの代表といえば、インデックス投資です。
1306やVTに投資した場合、1,2年で2,3倍になることはないと思います。
これに債券投資が加われば、リスクが減る分リターンも減少し、資産の増加ペースはさらに減少するでしょう。
つまり、債券投資も含む分散されたポートフォリオで早期退職することは事実上不可能なのではないかと思うのです。
1~2年で2~3倍というと、年率42%~200%という驚異的なハイリターンです。このようなペースで資産を増やせなければ早期退職できないという意味でしょうか? そうだとしたら明らかに論理の飛躍だと思います。

リタイアのための資産を増やす方法は資産運用だけではありません。毎年、働いて得た収入から支出を引いた残りのお金が資産に繰り入れられます。普通は誰でも資産ゼロからのスタートですから、収入の一部を使わずにとっておくことが資産形成の唯一の手段ですし、資産形成のスピードは、その「一部」の大きさ次第と言えます。

実際のところ、インデックス投資で早期リタイアしたとは聞いたことがありません。
確かに、
「インデックス投資のリターンが素晴らしく、驚くほど儲かったから早期リタイアできました!」
という人は聞いたことがないかもしれません。
ですが、早期リタイアを実践している人の中にも私のようなインデックス投資家は実在します。おそらくもっと多いのはインデックス投資すらやらずに、せいぜい銀行の定期預金のみで早期リタイアした人でしょう。彼らの共通点は、十分な資産を持つに至った主たる理由が資産運用ではないことです。

 もし、インデックス投資で早期リタイアができるとすれば、○○危機とか●●ショックで株価が大暴落した時にドルコスト平均法で資金を投入し、株価低迷時はじっと我慢、ある程度戻ったら、少しずつ売却して儲けを確定する。

これを、数千万円体単位で2,3回繰り返すしかないのではないでしょうか?
こういう手法はインデックスを利用しているだけで、その実態はアクティブ運用です。相場が低迷しているから買い時だとか戻ったから売り時だとかいうのは、あくまでも後になってから判明することであり、その時点で将来の相場は予想できません。実際、アクティブ運用をしているプロのファンドマネージャーの多くがインデックスに負けています。アクティブ運用がリタイアへの近道とは思えません。近道をしようとして、かえって遠回りになるリスクが大いにありそうです。

ちなみに私が考える早期リタイアへの一番の近道は、
「収入より遥かに少ない支出で生活すること」
です。

関連記事: 
けっこうな人気本のようですが、 資産がマイナスかもしくはゼロに近い状況にあり、このままではいけないと感じている「お金の問題児」である(かもしれない)あなたといっしょになって家計を立て直し、貯金をするための実践的なアドバイスをお伝えしたいのです。 と書かれているように、「お金の...
yumin4.blogspot.com

2014年4月3日

早期リタイアしても他人の目は気にならない

人の目を気にしない環境で暮らしたい・・・以前にも書いたかな?: 無謀なリタイア生活(70歳まで生きのびれるか?)より:
アーリーリタイアすると、どうしても住んでる地域に縛られる。
自由な暮らしのつもりが、どうしても人の目が気になり、
毎日は、フラフラ出歩けない。
自由であって自由でない感じがします。

大都会の真ん中か、あるいは山奥で生活したほうが、
もしかしたら、人を気にせずに自由に暮らせるかもしれない。

都会なら、誰も他人のことなど気にしないので、
自由に行動ができる。
山奥なら人と会うこともないので、
まわりを気にする必要がない。
こういう意見、けっこうよく見かける気がします。
が、私はリタイアしてから他人の目が気になったことは一度もありません。

確かに住んでいる環境によってまったく違うのかもしれません。私の住んでいるところは大都会の真ん中ではありませんが、一応都市圏です。わりと規模の大きな集合住宅で近所付き合いなどは皆無です。隣人が何をしているかは知りませんし、関心もありません。
とは言え、平日の昼間に外出すれば、掃除のおじさんおばさんや管理人さんに出会うこともよくあります。彼らの目が気になるかといえば、まったく気になりません。

実際に平日の昼間に出歩いてみるとわかりますが、都市圏では高齢者ではない成人男性が平日の昼間に仕事をしていない姿をいくらでも見ることができます。もちろん女性と比べたら圧倒的に少ないですが、それでも「この人はこの時間になんで仕事をしていないんだろう?」とかいちいち気にしていたらきりがないレベルの数です。その人は、もしかしたら私と同じように早期リタイアして無職の人かもしれないし、平日が休みの職業の人かもしれないし、夜勤労働者かもしれません。「成人男性は平日の昼間に働いているのが当たり前」という法則は、都会では例外が多すぎて成り立たないように思います。

こんな具合に、私はその気になれば毎日でもフラフラ出歩けますので、人目が気になるという理由で山奥へ引っ越すことはないと思います。

2014年3月23日

『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その2



『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その1の続きです。

近藤 ぼくが本を書いてきたのは「みんなに知らせたい」というより、誰かが、がんの治療について正しいことを知りたいと思ったときに、情報が欠けてると困るだろうから、選択肢のひとつとして知るチャンスがあるようにしたいと思ったんです。
本書でもそのような意図を十分に感じることができ、多くの日本人に欠けているであろう情報のピースが詰まっています。

近藤 いままではたいていの日本人に「命の長さが絶対」という思い込みがあったし、医者の方も「家族に一生懸命やってるところを最期だけでも見せなきゃ」というのがあったんですよね。夜中に容体がおかしくなると「家族は死に目に立ち会うべきだ」という通念があるから、医者が「お~い家族はまだか」と言いながら、死んでるのに形だけでも心臓マッサージを続けるとか。
中村 そうそう。「死に目に立ち合わせたい人がひとり到着してない。なんとかなりませんか」とか。患者さんもよく「みんなに囲まれて死にたい」と口にしますし。だから、死んでいく人間を無用に苦しめて随分痛めつけましたよ。家族には、とても感謝されましたけれど。
このあたり、医療現場の本音と建前のギャップが伝わってきてとても興味深いです。医師という立場上は書きにくいはずの本音の部分がズバズバと書かれています。

中村 家族としてはつらくても、本人が死ぬべきときにきちんと死なせてあげるのが、本当の愛情でしょう。本人と話ができるならともかく、虫の息の状態を引き延ばすなんて、視点を変えれば「鬼のような家族」でもあるわけです。
まさにその通りで、私も両親の臨終の際には鬼のような家族にならないように気を付けたいと思います。

中村 ほとんどの日本人が医療については思考停止状態で、「病気のことはなにもわからない」と医者に命をあずけてるから、聞きたいことも聞けないですしね。
介護するときも、病人が苦しもうがなにしようが「生かすことはいいことだ」って生活の質まで考えてない。
医者自身が思っている医者の存在価値はまず第一に病気を治すことですから、医者に判断を丸投げしてしまえば、かなり絶望的な状況でもQoLは二の次で治療を薦められるのではないかという不安がありますね。

著者たちのように、治療で期待できるメリットと失われるQoLを冷静に比較衡量して、時には「放置しましょう」という判断ができる医者に出会いたいものです。そういう医者が増えるためには、患者やその家族が「医者が匙を投げること」に対してもっと理解を示さないとダメだろうなと思います。

中村 いまの健康保険制度は、なだらかな改革では追いつきませんからね。もう若い世代が支えきれないから一気につぶれるでしょう。そしたら今度は、いままでと同じようにはいかなくなる。年寄りがちょっと具合が悪いと病院に行く、弱ったら病院に行くっていうのが難しくなってきますよ。
本来、医療のコストはそんなに安いものじゃないのに、国民皆保険制度、しかも高齢者ほど優遇される仕組みのせいで異常に安く見えてしまってますからね。そんな美味しい健康保険制度なら、本来もっと保険料を高くしないと大赤字になって即座につぶれるはずですが、そこは日本国伝家の宝刀「国庫負担」によって無理やり帳尻を合わせているわけです。

近藤 ぼくはもう、特にやりたいこともないから、なんでもいいですね。前にも言ったように、早くお迎えが来ないかなあと思ってる方ですから。長く生きることに価値はないです。寿命は70歳ぐらいでいいですよ。
近藤先生は1948年生まれなので現在65~66歳。私もそれぐらいまで生きて、こういうセリフが言えるようになるのが一つの目標です。でも70歳になったらなったで、もうあと5年、生きられたらいいなとか言ってるかもしれませんけどね。
「長く生きることに価値はない」という言葉には「QoLが伴っていなければ」という条件付きで同意します。

そして2人は、異なった道を歩んできたものの、同じ結論に達しています。
がんで自然に死ぬのは苦しくなくて、むしろラク。がん死が痛い、苦しいと思われているのは、実は治療を受けたためである、という結論です。そして、検診等でがんを無理やり見つけださなければ、逆に長生きできるとも。
今まで常識だと思い込んでいたことと余りに正反対なので、にわかには信じがたいと思います。私もこの結論を100%鵜呑みにするつもりはありません。
この結論がすべてのケースに当てはまるのではなく、(今のところはどの程度の確率なのかわからないけど)そうなることもあるのだな、という認識に留めておいて、もし自分や家族に何かあったとき治療をするのか否かなどの重要な判断をする際に、自分の頭で考えるための材料にできればいいと思います。

2014年3月19日

『どうせ死ぬなら「がん」がいい』 近藤 誠 (著), 中村 仁一 (著) その1



近藤 検診によるがんの早期発見は、患者にとって全く意味がないです。それどころか、必要のない手術で臓器を傷つけたり取ってしまうことで身体に負担を与えますから、命を縮めます。
「全く意味がない」はさすがに極論かなと思いますけど、がんは早期発見さえできれば助かるという刷り込みから解放されるには、これぐらいのことを言う医師がいたほうがいいのかもしれません。

中村 これまで、70歳前後の有名人が何人も、よせばいいのに人間ドックを受けたためにがんが見つかり、目いっぱいの血みどろの闘いを挑んだ末に、玉砕して果ててますよね。
がんと闘うという賭けに出て負けたのは結果論でしかないので、どんな場合でも賭けに出るべきじゃないとは言えませんが、相当に不利な賭けだなという印象を受けますね。

一般人よりも充実した人生を送ってきたはずの有名人でさえ、それぐらいの歳になってもまだQoLを犠牲にしてまで余命を延長する賭けに出るのが不思議でしょうがないです。もし私が70歳でこんな悪あがきをしたくなるほどこの世に未練があるのだとしたら、残念ながら私の人生は失敗だったということになります。

近藤 がんには、見た目は同じでも「早い段階でさまざまな臓器に転移し、命を奪う本物のがん」と「転移しない、命にも支障のないがんもどき」があります。
(中略)つまり本物のがんは、早い段階で多数の臓器に転移している。だから、検診で見つかってから標準治療(外科手術、放射線、抗がん剤)をしても治りません。
これが検診無意味の理由です。
ここも「治りません」は極論で、中には治るケースもあるでしょう。
しかし私は結果がどうなるかよりも、がんの標準治療はどれもQoLを著しく下げるということが大問題だと思います。このトレードオフを勘案せずに治療を選択する愚だけは避けたいところです。

ひとつ覚えておくといいのは「痛い、苦しい」など、日常生活で不便を感じる症状がなく、検査や人間ドックや会社の検診などで見つかるがんはほとんど、がんもどきだということです。
がんもどきであれば放っておいても命に支障はないので、結局、会社員時代に毎年受けていた健康診断っていったい何だったんだろうということになりますね。

近藤 CT装置(人体にエックス線をあて、輪切り画像をコンピュータ上に展開する装置)の台数は、日本がダンゼン世界のトップ。CT検査による被ばく線量も、検査が原因の発がん死亡率も世界一です。
(中略)
日本で行われているCT検査の8~9割は、必要のないものです。
このように検査が原因で死亡するリスクもあるのですが、ほとんど認知されていませんね。がんが怖いというイメージは必要以上に刷り込まれてますけど。

中村 日本人は「後期高齢者」と呼ばれるのをイヤがるように、老いや病から目をそむけて、その先にある「死」を異常なものとして、見ないように、考えないようにしている。
 検診も「がんと言われたらこうしよう」じゃなくて、とりあえず健康証明がほしいからいろいろ受けている。「生きる」ことしか考えていない年寄りが多いです。
やれやれ。いくつになっても生に執着するのが人間の性なんでしょうかね~。

近藤 みんな「老化だから仕方ない」と言われたくなくて、「病気だからこうしたらいいですよ」と言ってほしい。年を取ったら、腰が痛い、肩が痛い、足が痛いっていうのは当たり前で、それを全部よくしてくれって望むから、変なことになる。
中村 年のせいっていうのを認めたがらないですよね。医者のところまで来て「年のせい」と言われたくない(笑)。「そんなことはわかってる」「わかってるなら来るな」ってケンカになっちゃいますから。
やっぱり病院は、ホイホイ行くところじゃないですよ。みんな、どんな病気で来てるかわからないんだから、軽い病気で行って、重い病気をおみやげにもらって帰ることって十分あるから。本来“いのちがけ”で行くところなんですよ。
老いるということは、こういうことなんですね。
老化は20代から既に始まっているとはいえ、実際に老いを顕著に感じ始めるのは老眼、頭髪の変化、肌のシワ、体力の衰え、が着実に進行する40代あたりになるのではないでしょうか。私が今まさにそれらを実感しています。これが老化というものか! みたいな(苦笑)。
この老化の延長線上に今の老人たちがいるのかと思うと、彼らの悩み、苦しみは十分想像できます。今の私でさえ、これ以上小さい文字が読めなくなるなんて、これ以上階段登りがしんどくなるなんて、これ以上髪の毛が(以下略 etc.
ちょっと信じたくない、こんな老いた姿は自分ではない、と思いたくなりますからね。

気持ちは分かるのですが、その感情の赴くままに振る舞い、医者にないものねだりをする老人は正直言って醜いし、そういう老い方だけはしたくない反面教師だなと思います。

(つづく)