2015年7月12日

『素直に生きる100の講義』 森 博嗣 (著) その1



p.035
 お金がないから、体力ないから、才能がないから、時間がないから、などの「できない理由」のうち、切実だなと思うのは、時間がないからという言い訳だけである。時間さえあれば、ほかのものはなんとかなる。そして、生きている人間には、必ず時間はある。
概ね同意。
他のすべてが揃っていても、時間がなければ何もできないですからね。時間の確保が最優先なのは確かです。

ただ、どんなに時間リッチでもどうにもならないものもあって、それは肉体的な限界である体力や思考力、記憶力、視力、聴力などです。老化や病気でそれらの能力が劣化するのもけっこう切実だと思います。肉体的能力がある程度高くないとできないことはいっぱいあって、いつかそれをやりたかったのだけどいつの間にか歳をとってできなくなってしまった、というパターンの後悔は避けたいですね。

p.114-115「43/100 国が悪い、と声を上げるまえに、自分にやれることを少しは考えよう。」
 災難というものは誰にでも降り掛かる。地震も事故も台風も大雨も大雪も、誰かが起こそうと思って企てた悪事ではない。そういう災難に自分が遭遇したとき、なんとか助かったけれど甚大な害を被った。自分は被害者、被災者だ。自分はなにも悪くはない。普通に生活していただけだ。それなのにこんなに損をした。国になんとかしてもらわなくてはならない。援助が必要だ。こんな事態なのに対処が遅れた。予防が不十分だった。これは人災だ。こういうふうに考えていくと、悲しみが怒りに変換される。悲しむよりは怒る方が楽だ。何故なら、責める相手がいるからである。この気持ちは大変よくわかる。
しかし、まずは、自分になにかできることがなかっただろうか、と少しは考えてもらいたい。「そんなこと考えられるか。まったく予期しない事態だったのだ」と叱られるかもしれないが、宇宙人が攻めてきたというのではない。自然災害はすべて考えられるものだ。事故だって、絶対に起こらないとは絶対にいえない。たいていの場合は「まあ、大丈夫だろう」という解釈を自分がしているのである。
大雪が降ってビニルハウスが壊れたから、政府が援助するというニュースを聞いて、僕は、「雪が降ったら壊れるものでしょう?」と呟いてしまった。そのつもりで、作ったものではないのか(援助が出ることが歴史的な認識なのかもしれないが)。
万が一こうなったら、そのときはこうする、というくらいは自分で考えておいてほしい。もし考えていなかったとしたら、まずは、その点を反省してほしい。「人災だ」と怒るのはそのあとにしてほしい。つまり、「信じた私にも責任の一端はあるけれど」という言葉をまず発してもらいたい。「助けてもらって当然だ」では困るということである。
(中略)
自分を責める気持ちがなければ、またいずれ同じ災難に遭うだろう。避けられるものをまずは自分の知恵で避けていく、という気持ちが大事なのではないか。
引用が長くなりましたが、本来は全文引用したいくらいに、この2ページに書いてあることに共感しました。

自然災害なら誰の責任でもないはずです。しかし、何が何でも誰かの責任にしないと気が済まない人々(主にマスメディア関係者)が少なくないように思います。たとえば昨年の御嶽山の事故でも、噴火をまったく予知できなかった火山噴火予知連絡会の責任を問うような報道が見られました。

「まあ、大丈夫だろう」という判断でリスクを引き受けたのは自分自身であって他者ではない以上、いかなる結果が生じても他者のせいにしてはいけないでしょう。関連記事:
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どうしても避けたいリスクなら保険をかけるなど自分でコストを払ってヘッジすべきだし、登山のように楽しみとリスクが背中合わせのものは、リスクを受け入れて楽しむか、楽しみを放棄してリスクを避けるかの二択になります。

(つづく)

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