2015年7月14日

『素直に生きる100の講義』 森 博嗣 (著) その2



その1の続きです。

p.162
 ブログやツイッターなどで、一般大衆が書いている文章を読むと、そもそも始めから最後までが個人的な意見であって、そのなかで「個人的には」と断って書かれている部分があっても、単なる「ちょっと本音を言えば」くらいの強調でしかない。つまり、「個人的には」の意味を成していない。
これは同感。意味のない前置きだと思うので、私は使わないように気をつけている言葉です。

正直、他人様のブログを読んでいて「個人的には」が出てくるたびに違和感がありました。この言葉が出てくると、それより前に書いてあることは個人的でないと宣言しているようなものだからです。個人ブログに書いてある内容が個人的でない何かであることの方が例外なので、個人的でないことを書き始める場合にのみ断りを入れれば済むと思います。

p.177
 電話はかかっても出ないし、ファックスもない。仕事は、全部断れるものばかりだが、ときどき、これくらいはやっても良いかな、というものだけOKする。疲れるから、仕事は一日に一時間以上しない。仕事関係では人に会わない。だから、自分のためだけに、ほとんどの時間を使うことができる。
本も沢山読めるようになったし、調べものもゆっくりとできる。なによりも、じっくりと取り組んで、新しいものに挑戦ができる。そう……、これは小学校のときの夏休みなんかに、「毎日がこんなふうだったら良いのにな」と空想した理想の生活だ。
素敵なリタイア生活ですね。
一日一時間以内とは言え、まだ仕事をしているのは意外です。お金はもう要らないはずなのに。
小説を書く仕事はとんでもなく儲かったけど好きじゃなかったそうです(関連記事:『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その1)から、リタイアしてからやっと好きな仕事が見つかったということかな。

小学校の夏休みの喩え、分かります。毎日全力で遊んでましたからね。時間リッチだった学生時代の楽しい経験が、早期リタイアを渇望する原動力になっていたような気がします。

学生時代の場合、楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、宿題や新学期という現実が待ち構えているわけですが、大人になってからのリタイア生活には宿題もない上に、使えるお金は桁違い。学生時代よりずっと幸せなのは間違いありません。

p.177
 時間的な余裕の大切さがわかった。物事をとことん考えることができる。また、余裕があれば、下らないことで腹が立たないのもわかった。
同感です。
時間の余裕はどれだけあっても困りません。その点はお金と同じ。

(つづく)

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