2010年11月30日

『9割の病気は自分で治せる  岡本 裕 (著)』



著者のような医者こそ本当の名医として評価されるべきだ、という感想を持ちました。

病気は次の3つのカテゴリーに分けられます。
カテゴリー1 医者がかかわってもかかわらなくても治癒する病気
カテゴリー2 医者がかかわることによってはじめて治癒にいたる病気
カテゴリー3 医者がかかわってもかかわらなくても治癒に至らない病気
医者が日常診療で遭遇する疾患の70%~95%が、カテゴリー1にあたるそうです。そして、医療業界にとっては、そのような患者は薄利多売に貢献する「おいしい患者」なのだとか。

最近よく聞くようになった「メタボ」も、カテゴリー1の代表選手です。
メタボリックシンドロームを一言で言うと、ただの食べすぎ、運動不足で、それ以上でもそれ以下でもありません。
メタボは病気の範疇にすら入らないのかもしれません。
こういう生活習慣を改善しないまま医者に何とかしてもらおうと考えることは、かえって事態を悪化させるようです。

特に薬については、
薬を処方するということは、すなわち毒を盛るということです。
このように、基本的には毒であることが繰り返し強調されています。薬が効くということは、「毒をもって毒を制す」ことにほかならないわけです。

医者ができることは、ただ、患者さんが治るきっかけを作るだけです。
適切なきっかけを作ってあげ、あとは患者さんの自己治癒力が病気を治すのです。
(中略)
風邪をひいて、不要な解熱剤を用いたり、抗生物質をのんだりすると、自分で治す力が著明に妨げられます。そのあげくが、治りが遅くなったり、治りが悪くなったりしてしまうのです。医者が余計なことをしないほうが、風邪はずっと治りがいいのです。
ちょっと風邪の症状が出ただけで医者にかかったり、早めに風邪薬を飲んだりする人がいますが、やめたほうが良さそうです。

要するに現在の診療報酬システムでは、できるだけ毒を少なくして治癒へ導こうとする医師の努力は報われることがなく、何も考えないでただただ毒をたくさん投与した医師が報われるという非常におかしなシステムなのです。しかも毒性のある薬の処方が多いほど、多く点数加算されるのです。
医者の言いなりになって薬を飲むべきでない理由がよくわかりました。
とは言え、報われない努力はしないという医者たちを責める気にはなれません。患者のためにならない医療行為にインセンティブを与えるという歪んだ設計の制度下で、経済合理的に行動しているだけですからね。医者も現行の国民皆保険制度における社会主義的な価格統制の犠牲者と言えるでしょう。

健康にいいと言われたら何でも取り入れ実践する人たちを、世間では健康オタクと呼びますが、意外にも、慢性疾患で相談に見える方には、健康オタクが多いのです。
まあこれは、健康オタクほどすぐ医者に相談したがる傾向があるのかもしれないので、健康オタクと健康の逆相関については何とも言えないと思いますね。

非常にシンプルですが、「自分のやりたいことをやる」「嫌なことはできるだけやらないように工夫する」「あまり我慢をしない」、これが意外にも自己治癒力を高める強力な手段なのだということを、数多くのがん患者さんやがんサバイバーの方たちから教わりました。
これはそれほど意外ではありませんでした。「病は気から」とよく言われていますし。
衰えを感じる年になってからの我慢、忍耐、根性、がんばり、競争などはすべて身体には悪く作用します。また、義理、約束、責任感、義務なども同じく、自己治癒力を低下させます。
本書で「衰えを感じる年」とは、40歳以降のことです。「40歳を過ぎたら~」のような記述が随所に出てきます。若い時には何歳で衰えを感じるかなんてあまり想像できませんでしたが、今は40歳で分ける意味というのが実感としてよくわかります。

肉体的には明らかに下り坂という現実は冷酷でも、そのような歳になって、上に列挙されたストレス要因からは離れているという事実をポジティブに捉えたいと思います。

少し極端な言い方になりますが、病院の中だけで医者と会っている限り、みなさんにとって有用なことは何もないと思います。医者が患者と本音でつき合えるほどの余裕を持つことを、病院という舞台は執拗に拒むのだということを、みなさんにはぜひ知っていただきたいのです。
なぜそうなってしまうのかは、本書を読めばよくわかります。

主治医は「薬をしっかりとのまなくてはいけない」と言うが、親しい医者に相談してみたら「ここだけの話だけど、この薬は確かに効果は抜群だけど、のみ続けるとがんになる可能性がけっこう高いので、どちらかといえば服用は勧めない」と言われたというのです。ちなみにこの場合、主治医も親しい医者も、いずれも某国立大学病院の教授です。
ここだけの話にしないでほしいと、いつも思います。
初めて聞く人にはショッキングですが、こういう話はわりとよく見聞きします。
本当に親しい間柄でないと本音で物を言ってはいけないのが、この業界の不文律のようです。近親者に医者がいてくれたらいいのにと思いました。

我々も、本音でものが言えない医者の言いなりになるのではなく、それなりの付き合い方に変えていかなければならないでしょう。

参考記事: お金学 9割の病気は自分で治せる(岡本裕著)

2010年11月25日

アーリーセミリタイア生活日記

最近また一つ、早期リタイアブログが開設されたようです。
アーリーセミリタイア生活日記

ブログ主の大庭夏男さんは52歳の男性の方です。
この世代はブロガー自体の数が少ないので、早期リタイアされている方のブログはさらに希少だと思います。

リタイア後の贅沢について: アーリーセミリタイア生活日記
定年まで働いて、その後自由な時間を・・・でもちっとも構わないのですが、
私は、老い、を意識して早期退職しました。
会社から自由になっても、例えば体の自由が低下したら、それは自由な時間と言い難いのではないか、と考えたからです。
今、10年前の自分を思うと、今よりもっと好奇心旺盛で行動力があり、冒険をすることがもっと簡単でした。
ということはアト10年後に退職したのなら、もうなにもかもが面倒になり、やりたかった事ももはや気力が出ないのではないかと考えました。
同感です。
私も最近「老い」を意識することが多くなりました。老眼の症状が出始めたり白髪が増えてきたり…。

もっと冷酷な現実は、70代の老親の姿ですね。金銭的には余力十分でありながら、体力的にはかなり衰えてきています。たとえば余命があと10年あるとしても、この歳になってからの10年は、もう体力的にはぜんぜん自由ではなさそうに見えるのですよ。本人たちも今のうちに楽しんでおこうと、金遣いはだんだん大胆になっているようです。

私もこれから30年かけて、今の老親が感じている不自由に向かって坂を下っている途中なのだなあと。自分に残された本当に自由な時間って、(平均余命-年齢)よりもずっと少ないのではないかという気がします。

2010年11月23日

残りの人生で必要な金額

橘玲公式サイトにこのような記事がありました。

お金と幸せの法則を教えましょう〈週刊現代インタビュー〉 | 橘玲 公式サイト
日本人はいま、かつてなく大きな不安に怯えています。家族、会社、国家など、これまでは絶対的に信頼できた存在が大きく揺らぎ、「倒産やリストラで収入がいつ途切れるかわからない」「年金が崩壊したら老後はどうなるのか」……といった恐怖に誰もがさいなまれています。

ではこの不安を解消し、あなたが今後の人生で経済的な独立を手に入れるためには、どのくらいのお金が必要なのでしょうか。1億円? 5億円? 答えは一概には言えません。それは、あなたが求める生活によって異なってくるからです。
そうですね。それと年齢によっても。
家計簿で生活コストを把握して、残りの人生にかかる総コストをエクセルで計算すれば、おおまかな金額はわかると思います。

私は会社を辞めて独立する時、「いくらあれば公園のホームレスにならずにすむか」を真剣に考えました。答えは3000万円でした。ずいぶん少ないと思うでしょうが、日本を捨ててタイやフィリピンなどの東南アジアに移住すれば、これで一生それなりの暮らしができるとわかったからです(円高の今ならもっと少額ですむでしょう)。
3000万円が少ないかどうかは置いといて、このように移住も視野に入れておくことは、ある一つの国と運命を共にしないという意味で、今の時代に必要な考え方だと思います。そういう選択肢がない人は、将来の増税やインフレで人生のコストが予想以上に跳ね上がるリスクを抱えたまま、身動きできなくなるかもしれません。

かく言う私は、いざとなれば移住する覚悟はありますが、今ぐらいのコストで生活できるうちはできるだけ日本に留まりたいと考えています。既に家を所有してしまったというのもありますし、なんだかんだ言っても日本より快適に暮らせる国は、そうそうあるものじゃないでしょう。

これを知って、私は精神的に非常に楽になりました。3000万円という実現可能な目標を設定したことで、それを達成した後は、「好きなことだけやって生きていけばいい」と気楽に考えられるようになったからです。
私も早期リタイアを目標に会社員をやっていた頃は、同じような気持ちでした。特に、仕事がつまらないと感じている人にとって、目標が視界に入っていることの意味は大きいと思います。

好きなことを評価されれば、そのことがもっと好きになり、市場の評価が収入につながります。お金と仕事との幸福な関係は、こうしたサイクルの中でしか成立しないのだと思います。
橘氏にとって好きなことの一つが、本を書くことなのでしょう。好きでやっていることが評価されて収入にもつながっているわけですから、理想的な生き方に見えます。

生活の基本コストを下げれば、人生に余裕が生まれます。逆に生活コストが高いままだと、永遠に不安は解消されません。

日本人は世界中でもっとも要求水準の高い国民です。高級住宅地の一戸建てに暮らし、子どもは幼稚園から私立に通わせ、車はベンツかBMWで、年に一度はヨーロッパ旅行を……などと考えていては、1億円や2億円あっても不安なのは当然です。

べつに日本を脱出しなくても、マイカーをあきらめたり、マイホームを賃貸に切り替えたり、生活の基準を見直すだけで、人生をよりポジティブに考えられるようになります。将来への漠然とした不安が払拭されれば、おかしな投資に手を出すこともなくなるでしょう。私たちにとって、それがお金と幸福を両立させる最良の道ではないでしょうか。
本が売れるなどして収入が多くなるとコスト意識が麻痺してくる人が多いのですが、さすが橘氏は一味違います。

生活コストを下げれば人生に余裕が生まれるというのは、ほんとその通りだと思います。

橘玲公式サイトには他にも面白い記事が満載です。リンク集に追加しておきます。

2010年10月20日

『日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学』 原田 泰 (著)  その2



『日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学』 原田 泰 (著)  その1 の続きです。

第3章「人口減少は恐いのか」
結論を先取りすれば、人口減少は恐くないが、高齢化は恐い。しかし、それは高齢者が少ない時代に作った高齢者を優遇する制度を、高齢者が多くなっていく社会でも維持しようとしているからだ。そんなことをすれば若者の負担が高まり、日本が活力のない社会になっていくのは当然だ。高齢者優遇の制度を改めなければならない。
すごくシンプルで当たり前の事実なんですが、マスメディアは相変わらず「かわいそうな高齢者」というイメージを刷り込むのが大好きなようですし、いつになったら改まるんでしょうか。
現在の年金は、過去の高度成長期の惰性により、きわめて高いものになっている。日本人は気がついていないようだが、日本の年金制度は世界一気前の良いものだ。
支給額3割カットしてもまだ世界トップレベルだとか。

少子化の原因について。
子育てコストには
母親が子供を育てるためにあきらめなければならない所得が含まれる。
直接負担する養育費が大卒までで2千万円とか聞きますが、実は母親の逸失所得のほうがはるかに大きく、割り出された数字はなんと2億3719万円。(下図参照)

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女性でこれだけ稼げる人は一握りかもしれませんが、この半分としても1億ですからね。
これはあまりにも高いコストである。日本の子供が減少するのも驚くべきことではない。
という感想以外、何も出てこないです。

以上のような議論に対し、「子供が生まれるか生まれないか(親からすれば「子供を産むか産まないか」)は子供への愛情が一番重要だ。すべてを金銭評価する風潮はいかがか」という意見もあるだろう。
本当にありがちな意見ですが、著者は個人としては賛同すると前置きした上で、
「エコノミスト」という立場からは、愛情について意識的に書かないようにしている。
と切り返しているところにプロ意識を感じました。その理由が秀逸なので、長くなりますが引用させてもらいます。
 なぜかと言えば、通常、エコノミストの主張は政策提言に結びついているからだ。政策とは、権力を持つ国家が行うことである。私は、国家が個人の問題である愛情について語ることは、遠慮した方がいいと考えている。
その通りですね。
 もうひとつ、もっと子供を産むべきだという国家は、本当に子供を愛しているのだろうかという疑問もある。昨今かまびすしい少子化で大変なことになるという議論のポイントは、高齢化社会の国民負担が大変なことになるからということにある。そこには、たくさん子供が生まれて、皆で負担を分担してくれという意図が見える。これは、本当に子供を愛していることになるのだろうか。
愛が無償のものなら、高齢者の負担なんかしなくてもいいから、どんどん生まれてきて下さいというのが正しい国家のあり方だ。下手に生まれてくると何をさせられるか分からないから(自分の子供を愛している親からすれば、子供を産むと、その子がどんな重い負担を背負わされるかわからないから)子供は生まれてこないのではないか。子供を愛する国家とは、まず子供の将来負担を減らす国家ではないか。現在の年金給付額を減らして将来の負担が重くならないようにする国家が、子供を愛している国家ではないだろうか。
愛情とは多義的で、様々な意味に使われる言葉である。子供たちに、彼らには責任のない負担を押し付けることを、政府は、子供への愛情と言いかねない。エコノミストは、多義的な言葉は扱わない方が良い。
ほんと、ここに書かれているような国家の「意図」は既にミエミエですから、この分析は「愛情」論の矛盾を的確に突いています。
皮肉なことに、生まれてくる子供たちに幸せになってほしいという気持ち(愛情)が強ければ強いほど、この不遇な時代には子供を産まないという選択をすることになり、コストの問題とはまた別の少子化の原因になっているのではないかと思います。

人口が減るだけなら問題ない。(中略)
人口が減れば国力は低下するだろう。(中略)
また、そもそも国力が重要だろうか。私たちがあこがれる国は、人口の多い国ではなくて、一人一人が豊かな国、そして、その豊かさを魅力的に使っている国ではないだろうか。
はい、国力とかどうでもいいです。
日本の都市部に住んでいると、人口が多すぎて不快に感じることがどうしても多くなります。リタイアしてからは開放されましたけど、満員電車や交通渋滞にはもうウンザリです。
このまま順調に人口が減って、少しでも快適な社会になることを望みます。

2010年10月19日

『日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学』 原田 泰 (著)  その1



編集者による紹介記事はこちら。
日本はなぜ貧しい人が多いのか―「意外な事実」の経済学― - 選書・編集者のことば

第2章「格差の何が問題なのか」では、最初に出てきたグラフが興味深かったです。
図1 豊かな国と貧しい国の出自.jpg
紀元1年から2006年までの国別の一人当たり実質GDP(購買力平価)の変化を示しているのですが、1000年の時点ではほとんど差がなく、1820年でも最大3.6倍だったのが、2006年で12倍まで拡大しました。
要するに、1700年ごろまで、世界はほとんど一様に貧しかった。ところが、その後の300年で、世界のある国は豊かになり、他の国は貧しいままだった。これは、豊かな国が豊かなのは、他の国を貧しくしたからではないことを示唆する。
格差とは相対的なものなので、豊かな国がより豊かになるだけで格差は拡大します。ところが、より貧しくなった国はなく、世界全体で見ても豊かになっているわけです。素晴らしいことです。

国だけでなく個人の豊かさについても同様で、所得格差の拡大を好ましくないことだとする考え方は、豊かな人の足を引っ張る制度に結びつきやすいので注意が必要です。

この後
豊かな国が豊かなのは、他の国を貧しくしたからではないということは、現在、話題になっている個人間の所得格差を縮小する方策にも示唆を与える。
と続くのですが、そもそもなぜ個人間の所得格差を縮小する必要があるのだろうか?と思ってしまいます。

たとえば豊かな人の所得(購買力)が3倍になっても、貧しい人の所得が2倍になれば、格差は拡大しますが誰も不幸にはなっていません。所得格差の縮小を目指すこと自体がナンセンスな気がします。

ある人の所得が低すぎて、日本国憲法の保障する生存権を満たせないとき、どうすれば良いだろうか。仕事を与えるのは良いことに違いないが、その仕事が、自動車の走らない道路、船の来ない港湾、飛行機の飛ばない空港を作ることだったら、格差の縮小はとてつもないコストがかかる。
(中略)
それよりも、生存権を満たすためのお金を直接配ってしまった方が安上がりなのではないだろうか。ヨーロッパ諸国はそうしている。アメリカですら、日本よりもそうしている。
ということで、負の所得税を「気の利いた方法」として提案しています。
上記のような公共工事などに限らず、直接配ったほうが安上がりになるほど「とてつもないコスト」がかかる仕事というのは、意外に身近なところにも存在しています。関連記事:
著者本人の紹介記事はこちら。 社会保障の不都合な真実 - 学習院大学教授・鈴木亘のブログ(社会保障改革の経済学) - Yahoo!ブログ 前著の 『だまされないための年金・医療・介護入門』 よりも幅広く社会保障問題の真実を解説する本です。とりあえず年金問題だけを知りたいのであれば...
yumin4.blogspot.jp


長くなりそうなので続きは記事を分けます。