2014年2月16日

近視と老視の決定的違いがわかる、7インチタブレットとリモートデスクトップの組合せ

寒い季節にはデスクトップPCの前に座るのが辛くなりますね。
そこで、手持ちのタブレットPCをコタツトップPCにして、家庭内LAN経由でデスクトップ機の画面にアクセスするという方法があります。外付けのBluetoothキーボードやマウスを接続すれば、タブレットPCが簡易ノートPCに早変わりします。

デスクトップPCへのアクセスには、
Splashtop 2 Remote Desktop - Google Play の Android アプリ
を使ってみましたが、解像度1280x800でNexus7の画面に表示すると文字がかなり小さくなってしまい、老眼が進行中の私には虫眼鏡が必要なほどでした。

その一方で、
目にやさしいiPad mini+キーボードのもう一つの使い方 | Step to Next Lifeより:
表示される文字やボタンがかなり小さくなってしまうことが難点ですが、iPad miniの場合は手で持って視点を近づけることができますので、あまり苦になりません。

この使い方をしていて気がついたのは、iPad miniを10?20cm程度の至近距離まで近づければ、視力0.1以下でメガネが手放せない自分でも、Mac上の文字を肉眼で読めることです。
同じ7インチのiPad miniに表示しても、私とは対照的に「目にやさしい」と感じる人も…。

これが近視老視の決定的な違いなんですよね。
老視が進行すると、文字が小さいからといって画面を至近距離まで近づけるのは逆効果で、ますます見えなくなるんですよこれが。私も自ら老視の症状を体験する前は、近付けるほど見えなくなるとはどういうことなのか、よくわかっていませんでした。

老視の人にとっては、小さい文字を如何に大きく表示するかが重要です。具体的には、もっと解像度を下げて表示できるリモートデスクトップアプリを使う、もっと大画面のタブレットPCを使うなど。

近視や老眼でディスプレイを見るのが辛いと感じている方は、一度試してみてはいかがでしょうか。
ということで、近視と老眼では対処法がまったく異なるので注意が必要です。

2014年2月1日

リタイアした人の投資法

「年金の奴隷」から解放されることで、老後の不安をなくす - 内藤忍の公式ブログより:
年金生活を前提にすると、年金の支給額によって自分の老後の生活が縛られることになります。支給が減れば、生活は苦しくなり、インフレになっても、実質的に年金支給額が減るのと同じことが起こります。

国から支給されるお金に縛られながら、ずっと不安なまま大切な人生の最後の時間を過ごす。そんな、悲しい展開から脱却するためには、自らの力で、「年金の奴隷」から解放されるようにすることです。
賛成です。
特に年金支給開始まで20年以上待たねばならない40代以下の世代にとって、現行制度のような大盤振る舞いの年金収入を計算に入れることは、できるだけ避けたほうがよいと思います。

やや挑発的ですが「年金の奴隷」という言葉が、国の制度に依存するリスクをうまく表現できています。

しかし、良記事の期待が高まったのも束の間、その後の展開がぶっ飛んでます。
リタイアした人は、値上がりを目的とした投資ではなく、継続的なインカム収入を目的とした投資をしなければならないのです。
えぇっ?
継続的なインカム収入を目的とした投資をしなければならない!? 
まったくそんなことは無く、値上がり目的の投資をしても、あるいは投資自体をしなくても一向に構わないと思うのですが。
残念ながらこの記事にその理由は書かれていません。続きはセミナーで、ってことなんでしょうけど…。

リタイアするまでに、複数の不動産を保有しておく。これが「年金の奴隷」から解放されるための方法だと思います。
えぇっ?
現物の不動産に集中投資ですか!?
ますますあり得ません…。

以前内藤氏の本『預金じゃイヤだけど投資はコワい ボクの“負けない”人生戦略』 内藤 忍 (著)を読んだ時点での彼のイメージからすると、最近になって唐突にワイン投資や不動産投資の話が出てきたように見えるので、かなり頭が混乱しますね。

2014年1月14日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その3



ここでもうひとつ、興味深いアンケート調査を紹介したい。
「楽しい時間を過ごすことが重要ですか」という質問だ。
「非常に重要」と回答した日本人はわずか1.8%しかおらず、「重要」でも5.1%であった。このふたつを合わせた6.9%は世界51カ国中で断トツに少ない。
6.9%という数字は嘘みたいに少ないですね。
多忙な現実に追われて未だ実現できていないのは仕方ないにしても、いずれ楽しい時間を過ごしたいという願望まで現実に合わせて抑圧する必要はないと思うのですが…。

楽しい時間を過ごすことが否定されるのは、「幸せな人生」の否定に等しい。日本人が世界では2番目の経済大国となり、平均寿命が世界最長、治安も比較的よい社会であるのにもかかわらず、幸福度が低い理由は、この「人生を楽しむ」という姿勢がないことが大きな原因のひとつではないだろうか。
日本人も別に楽しい時間を過ごすことを「否定」まではしていないと思うんですよねー。他にもっと重要なこと、すなわち世間の常識に従って、面倒やリスクを回避しながら生きることを優先した結果、人生を楽しむことの優先順位が低くなっているだけじゃないかと。

日本人は75%が「新聞や雑誌」を信頼し、70%が「テレビ」を信頼している。この結果は、他の先進諸国と比べて比較にならないほど圧倒的に高い。
他の先進諸国では日本とは対照的に、信頼していない人の方が60%~75%という結果だそうです。
私はもちろん日本人の少数派で、どちらも信頼していません。というか、最近はこれらのメディアに触れる時間がほぼゼロになったので、信頼性を評価することさえ難しくなりました。ごく稀にNHKの番組をネットで見たりしても、こんな感想しか出てこないので、信頼しないという判断は今でも外れてはいないと思います。
つまり日本人の世論の6割以上が、メディアによって一方的につくられている可能性が非常に高いということである。
インターネットという新しいメディアが登場してから20年ぐらいしか経っていないので、まだマスメディアの影響力には遠く及ばないのはわかるのですが、歯痒いですね。
特に日本は人口分布がいびつなので、オールドメディアしか知らない高齢世代が政治的なパワーを持っているのが厄介です。

ひとりひとりが真剣に考え、そして人と対立することを恐れずに、もっと対話や議論をすることが、変革への第一歩ではないだろうか。個性を育むのと、対立を恐れない議論を奨励するのは、同時に行われなければ意味がない。
フランスの哲学者ヴォルテールは、かつてこう語っている。
「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は、命をかけて守る」
これが対話の基本精神であり、また真に個性を尊重する姿勢である。
とても共感できる言葉です。
日本人は集団主義思想の影響で、意見の対立自体が好ましくないことだと思い込んでいて、少数意見を自ら抑圧して沈黙する人が多いのではないですか。

ネット上では誰もが匿名で自由に表現できるので、これまで抑圧されていた多様な意見が見られるのはとても良いことだと思います。

ただ、ネット上の表現を見ていると、匿名性の悪い面が現れ、意見そのものへの反論ではなく人格攻撃のようになってしまっていることがよくあります。これでは、お互いの個性を尊重する議論の仕方がまだまだ根付いているとは言えません。

人格攻撃によって気に入らない意見の持ち主を黙らせたり萎縮させることを狙っているのだとすれば、結局は「一つの正しい意見にみんなが従うべきだ」という集団主義的思想から抜け出せていないと思われます。

(つづく?)

2014年1月13日

お詫び

先ほどブログのデザインをカスタマイズしようとしてSeesaaブログのコンテンツHTMLを弄っていたら、なんとブログ記事の中身がまったく表示されなくなってしまって焦りました。

標準で用意されている記事用テンプレートを新たにカスタマイズする方法で何とか元の形に近いところまで戻りましたが、その2時間ほどの間に当ブログを訪問した方は、左右のサイドバーと中央のバナー広告だけが表示された奇妙な画面を見て驚かれたかと思います。失礼しました。

不具合が発生した原因は未だに不明です。

2014年1月10日

『幸福途上国ニッポン ~新しい国に生まれかわるための提言~』 目崎 雅昭 (著) その2



「社会が発展する意義は、個人の選択の自由を広げることにあり、豊かさはその次である」と、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授はいっている。
なるほど。たいへん共感できる考え方です。

 では実際に、人々はどの程度の自由を感じているのか。次のアンケート調査が世界56カ国の人を対象に行われた。「あなたにとって、選択の自由と、自分の意志を反映できる人生がどの程度ありますか」
結果は驚くべきものだった。日本人が世界最低レベルの自由度を感じていたのだ。それも厳格なイスラム教国のイランや、最貧国のエチオピアよりも低い結果だった。世界で最も自由と感じている国は、メキシコ、コロンビアといった中南米諸国だった。
これまた衝撃的な調査結果です。
日本人は50年前よりも経済的には遥かに豊かになったものの、それと比例して選択の自由が増えたわけではなく、自由な人生を送っているとは感じていないようです。
今の私ならこのアンケートにはかなりポジティブな回答をすると思いますが、ネガティブな回答をする人の気持ちも分かります。なぜなら、
 日本では、個人がどんなに好きな人生を送ろうとも、必ずといっていいほど、いろいろな「しがらみ」があり、「常識」という制約のために好きなことができないと思っている場合が多い。周囲と同じことをするかぎり、恥ずかしいとは感じない。つまり「恥」と感じる心の奥底には、集団へ同化する圧力が背景にある。
早期リタイアを決意する頃にはすっかり世間の「常識」から解き放たれていたとは言え、しがらみや常識によって自分を縛り、選択の余地がないと思い込んでいた時期が私にもありました。親や教師の教えを無批判に受け入れていた子供時代だけでなく、たとえば大学時代に就職を決めたときもです。(関連記事:『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その4

「常識的に生きる」という発想は、多くの日本人が共有しているだろう。しかし常識とは、ある特定の集団での平均的な振る舞いにすぎない。したがっていつも常識を意識することは、いつも集団と同じ行動をすることでもある。家族、親戚、友人、近所の人々と、いつもどこかで誰かが、「常識」を盾に「見えない抑圧」で個人を制約しようとする。
もちろん、どこの文化にも常識は存在する。常識がなければ、社会は成り立たない。しかし日本では、何が正しくて何が間違っているかという判断基準が、「それが常識的であるかどうか」なのである。
日本に個人主義や自由主義が根付かない原因がはっきり見えた気がします。
なにか世間の常識から外れたことをしようとして、周囲の人間から何らかの同調圧力を受ける経験をしたことのない日本人はいないと思います。憲法上は保障されているはずの個人の自由という権利を行使しているだけなのに、なぜか周囲からお節介な横槍が入って面倒なことになってしまいます。まあ、口出しされただけなら無視すればいいのですが、相手との関係次第では無視するのにも精神的エネルギーを消耗します。そういう嫌な経験が積み重なるうちに、人は無意識に世間の常識という楽なレールの上を歩くようになるのでしょう。

「常識的に生きる」ことも、それが無意識であるうちはそれほど不幸ではないのかもしれません。しかし、周囲からの同調圧力に屈した結果、常識から外れることができなかったとわかれば、とてつもない敗北感が襲ってくるのではないですか。私なら耐えられません。そういう意味では、本書を読まないほうが良い日本人も少なくないと思います。

(つづく)