『貧困ビジネス』で紹介されていた湯浅誠氏の本です。
貧困の最大の特徴は「見えない」ことであり、そして貧困の最大の敵は「無関心」です。確かにその通りなのでしょう。しかし、
どうか貧困問題に関心を寄せてもらいたい。残念ながら、こうしてブログに感想を書く程度の関心が私には限界です。本書を読み終えても、「所詮は他人事」という思いが消え去ることはありませんでした。貧困を他人事と思っている多くの人間の関心を引き寄せるには、道徳論や「明日はわが身」の恐怖心を煽るような主張ではなく、経済学的な視点から明確なインセンティブを提示する必要があるのではないかと思います。
本書の核になっている「貧困は自己責任ではない」という主張については、人材派遣会社ザ・アールの社長・奥谷禮子氏の物議を醸した発言を引用した上で、
先に奥谷発言に触れたように、自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ議論である。他方、貧困とは「他の選択肢を等しく選べない」、その意味で「基本的な潜在能力を欠如させた」状態、あるいは総合的に、”溜め” を奪われた/失った状態である。よって両者は相容れない。と書いていますが、この主張に対しては以下のように反論しておきます。
人は何の意思決定も下さないないまま、「他の選択肢を等しく選べない」状況に陥いるものなのでしょうか? そのような状況に陥る前には「他の選択肢を等しく選べた」状況が存在したのではありませんか? 現在 ”溜め” を失った状態を招いたのは、それ以前の自らの選択の積み重ねではないと、どうして言えるのですか?
「貧困は自己責任ではない」という主張に説得力が生まれるのは、自らが置かれている状況が、完全に外的要因のみによってもたらされた場合に限られ、現実に日本という豊かな国に生まれた人が、「自己責任ではない貧困」に陥る事例は極めて稀ではないかと思います。たとえば、第1章に出てくる夫婦の事例でも、
最初に勤めたのは、ガソリンスタンドだった。時給690円のアルバイト。まじめに働いていたのが評価されて、向かいのメッキ工場にスカウトされる。そこをやめたのが18歳。理由は「自衛隊に入るため」だった。
自衛隊を3年で除隊した久さんは、大阪に帰って、おもちゃ販売、パチンコ、旅館と衣食住完備の仕事を転々とする。2005年に上京してくるまで、17年間で約30ヶ所の職場を転々とした。
高校卒業後、服飾の専門学校に入るが、2、3ヶ月で中退。その後、家にひきこもる生活が始まる。20歳のときアルバイトもしたが、3週間しか続かなかった。彼らが仕事を転々としたり、学校を中退したりしたときに、「他の選択肢を等しく選べない」何らかの事情が存在したという説明は見当たらず、そうした理由は単に「自分がそうしたかったから」にすぎないと思われるのです。
健全な社会とは、自己責任論の適用領域について、線引きできる社会のはずである。ここまでは自己責任かもしれないが、ここからは自己責任ではないだろうと正しく判断できるのが、健全な社会というものだろう。それにしても本書で著者が引いた線というのは、逆に「自己責任と言える場合って本当に存在するんですか?」と聞きたくなるぐらい、あまりにも自己責任論の適用領域を狭くしすぎであり、とうてい受け入れられそうにないと感じました。
はじめまして、いつもブログを楽しく拝見しております。「努力」「根性」が苦手な者で、早期リタイヤをうらやましく思います。
返信削除遅いコメントですみませんが、人はかなりの部分を無意識に選択していると思います。それが、結果的に外部環境の変化を大きく受けたり受けなかったりする(それを運と言うのでしょうか)と思います。そうした無意識の行動でも、正社員でいる人と派遣になっている人がいると言う意味で、その選択結果は自己責任ではないといっているのではないでしょうか。
また、個々人の無意識の選択は、その育った家庭環境・地域環境・出会った教師(人々)の影響も多分に受けるためどこまでを自己責任というべきかは難しいのではないでしょうか。
生まれてからすべてを意識的に選択することは不可能ですし、そうしなければと気づくこともまた、難しいでしょう。