タイトルの意味するところは、著者が「岩盤のように硬い」とする次の前提さえ理解できれば、自然に導けるものだと思います。
私が死んだあとでも、世界は「ある」という前提。あるいは、もっと簡単に言うと、未来は「ある」という前提。その理由を書くと何百枚になるから控えて、とにかくこれを私は断じて認めない(後略)これだけだと一見わかりにくいですが、続いて
このすべてを、単なる偏屈と片付けられても困る。私はこう考える自分を、目を輝かせてあれを伝えたいこれを伝えたいと語る評論家たちよりもずっと「まとも」だと信じている。彼らは、自分が死ぬことの意味、自分の存在が無に帰しもう二度と有に戻ることのない凄まじさに対して真面目に向き合っていないのだ。この不真面目さは、やがて自分の子供たちも孫たちも、そして人類も地球も太陽系もなくなって灰燼に帰するという凄まじさを直視しないという不真面目さとリンクしている。未来はない。ここまで読めばわかるのではないでしょうか。まあ、そもそも直感的に信じられていることと違いすぎる前提なので、わからないと言われればそれまでですが。
さらに、
じつに不思議なことだ。こういう考え方をする人がきわめて少ないということは。彼らは、大真面目な顔つきで「未来社会の倫理」とか「地球温暖化問題」とか議論している。あと50年したら海面は数メートル上昇して東京は水没する!と警告を発する。しかし、そのとき自分はいないのだよ! そのほうがよっぽど差し迫った「問題」ではないかと思うのだが。そのことに全力で取り組むべきだと思うのだが。どうも思考回路がそういう具合にでき上がっていないようである。と畳み掛けられ、私は、確かにおっしゃる通りだと納得してしまいました。
いままで、放置自転車をけり倒したり、駅員のマイクを奪って線路に投げ捨てたり、酒屋のスピーカーを引き抜いて民家の池に捨てたり……この程度の軟弱な抵抗に留めておいたが、それ軟弱じゃないです…。さすがは戦う哲学者。
スピーカーは結局3万円で弁償したそうですが。(笑)
では、気晴らしでないものとは何か? それはただ一つ、各人が自分の投げ込まれている「たまたまたった一度だけ生まれさせられ、もうじき死んでいく、そして二度と生きることはない」という頭が痺れるほどの残酷な状況をしっかり見据えて━━これだけを見据えて━━生き抜くことだけです。
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いろいろな意味で面白い内容で、私にとっては久々の「当たり」本でした。 Wikipediaによれば著者は「戦う哲学者」だそうで、たとえば こちらのブログ で引用されているような奇特な行動を積極的に行う様子は、強烈に印象に残ります。世間からは「変人」とか「KY」というレッテルを貼られ...
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