お金学 | 楽しく生きるのに努力はいらない(池田清彦著)で紹介されていた本です。
まえがきに
人生で一番大事なのは楽しく生きることである。大金持ちになるよりも、大天才になるよりも、楽しく生きることのほうがずっとステキだ。そのためには、世間にはびこっているいかがわしい道徳や倫理やおためごかしの人生訓とおさらばして、ものごとを根源的に考える必要がある。といっても別に難しいことじゃない。頭をちょっとだけ切り替えればよいのだ。この本はそのためのヒント集みたいなものだ。と書いてあるのですが、本当にその通りの内容です。楽しく生きることを目指す人にとっては本当にためになる本だ思います。
あなたは楽しく生きる権利があるし、自分の欲望をとことん追求したって、悪いことは何もない。それはあなたの自由である。しかし、そのために、他人に何かをしてくれと無理に要求することはできないのである。人が自立するとは結局こういうことなのでしょう。
(中略)
人は他人を愛したり、やさしくしたり、バカにしたりする権利をもつが、他人から愛されたり、やさしくされたり、バカにされなかったりする権利はない。
他人にやさしくしてもらったり、ちやほやしてもらったりしないと、楽しく生きられない人は、だから楽しく生きるのが、なかなか大変なのだ。反対に、そういうことをしてもらわなくても、いつも楽しく生きられる人は人生の達人である。
いかに経済的に自立した大人であっても、他人の振る舞い次第で自分の幸福が大きく揺らぐような人生である限り、精神的に自立しているとは言えないと思います。
なお、本書では一貫して「他人」は自分以外の人という意味ですから、親子や配偶者などの近しい人も含みます。「他者」と読み替えるほうがわかりやすいかと思います。
遅刻した人を待つのは自由だが、その相手に対して怒るのはお門違いだ。遅刻した人も、相手が待っていると期待するのはいけない。ここで修学旅行の集合時刻に10分遅刻した生徒を待つという例え話が出てきます。遅刻した生徒に怒るぐらいなら待たなければよいという結論なのですが、筋は通っていますし、何よりも自由の価値を重んじるリバタリアニズムの特徴がよくわかると思います。
逆の立場に立った場合。
ここであなたが、10分くらい待っていてくれてもよいのに、と思ったとしたら、あなたは自由の意味がわかっていない。というよりも、あなたは自由よりも不自由のほうが好きなのである。ここ、非常に重要なポイントです。
不自由のほうが好きな人、案外多いのではないでしょうか?
自由と不自由、どちらを好むかによって、人生観や労働観にも大きな違いが出てきます。不自由のほうが好きな人なら、たとえば早期リタイアという生き方は向いていないかもしれません。自由のほうが好きな人なら、たとえば結婚は向いてないかもしれません。
自分は一体どちらなのか、ある程度若いうちに判定しておいて損はないと思います。
自由より不自由のほうが好きな人たちにとって、迷惑をかけるとは、他人の能動的な権利を侵害することではなく、他人のやさしさ(と彼らが思っているもの)を踏みにじることである。ここでいうやさしさとはたぶん親切の押し売りのことなのだ。他人に親切にするのは、もちろんあなたの能動的な権利である。しかし、だからといって、親切にされた人があなたに感謝しなければならないいわれはない。親切にされるのはむしろ迷惑なことも多いのである。それは経験のある人にはよくおわかりであろう。はい、よくわかります。
押し売り側にその自覚がないのがまた厄介だったりします。
やさしさは自由であることを許さない装置である。こういったたぐいのやさしさが好きな人は、自由よりも不自由のほうが好きなのだ。真の自由とは、こういった種類の甘えが許されず、自分の行動の責任を全部自分で引き受けねばならないことだ。自由になりたい、と多くの人は言うけれど、自由であるとはそれほど楽なことではないのである。たいへん共感しました。
人の脳は妙なクセをいくつももっているが、何のためにと問いたがるのもその一つである。私はカミキリムシ集めという趣味をもっているが、最もよくされる質問は「何のために集めているんですか」である。答えは楽しいから集めているに決まっているが、虫集めの趣味のない人にとって、この答えはそもそも理解ができないのである。ほんと、「何のために~」は愚問だと思いますね。
人の一生ははかない。生きるため(と本人は思っている)にあくせく働いて、気がつけば初老にさしかかってしまった。いったい私は何のために生きているんだろう、と一度ぐらいは思った人は多いだろう。そこで、できる範囲で人生を楽しもう、と思える人は健全である。なかには悠久の大義のために生きなければ、と思ってしまうヘンな人たちがいる。ここは100%共感しました。
それで、国家のために、組織のために、あるいは思想のために、命を懸けようなんてことを本気で考える人たちが現れることになる。
(中略)
だいいちこの世の中に悠久の真理などはないし、永久の同一性を保つものも存在しない。読売巨人軍も陽子(女の名前ではない。中性子と陽子の陽子である)もいつかは必ず消滅するのである。無限に比べれば、悠久の大義も神も国家も、あなたの一生と同じくらいの一瞬の出来事にすぎない。人は刹那に生きて、刹那に死ぬべきである。
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そもそも、人間は中途半端な生き物だと、私は思う。たとえば、体調が完璧であることはめったにない。完璧になってから始めようと思っていると、そのうち人生は終わってしまう。私は今のところ健康に問題はありませんが、歳を重ねるにつれて健康も少しずつ失われていくということを、肝に銘じておきたいと思います。
特別な才能に限らず、普通の才能であっても、生まれつきの潜在能力の差というのは大きく、たとえば知能指数の50パーセントは遺伝的に決まるといわれており、残りの50パーセントのかなりの部分も、子宮内環境によって決まるらしい。要するに、本人の努力によっては、いかんともしがたいのである。これは初見の数字ですが、意外に先天的な要素が大きいようですね。
努力主義に毒された人たちは、このような事実を無視または過小評価しているのでしょうか。
よく、生きがいのない人生はつまらないから、生きがいのために趣味をもつべきだ、と言う人がいるが、そういうのは発想からしてそもそもダメである。人は何かのために趣味をもつわけではない。同感です。
(中略)
ただボーっとしているほうが楽しい人は、「人生は短い。忙しくしているヒマはない」とうそぶいて、ボーっとしていたほうがよいのである。人生に目的など本当はないのだ。学問も趣味もセックスも楽しいからするのであって、それ自体に目的があると思ったとたんに、恐ろしくいかがわしいものとなる。
病気を全部シャットアウトして、完全健康でいなければいけない、と考えるのは、近現代に特有のビョーキなのだ。これは健康シンドロームとでも名づけるべき病理である。同意します。
以前読んだ『「健康」という病』にも同じようなことが書いてあったと思います。
日本の小中学校は、努力するのが何より大事という偏向したイデオロギーに支配されているので、会社に入っても同じ考えが通用すると思っているアホがいる。この世界で評価されるのは結果であって努力量ではない、ということがわかっていないと、ただひたすら努力することだけが生きがいという人がまれに現れる。これは精神のマゾヒズムとでも呼ぶべき病理現象だと私は思う。正論だと思いますが、現実に目を向けると、「アホ」の一言で済まされないほど日本全体が努力主義に毒されているような気がします。私の会社員時代も成果主義とは名ばかりで、結果よりも努力を重視するという日本的偏向は根強く残っていました。
なかなか面白い視点の本ですね。
返信削除(私の会社員時代も成果主義とは名ばかりで、結果よりも努力を重視するという日本的偏向は根強く残っていました。
なんとなく分かります。
人間は感情の動物でもあり
才能(一般には少数派)ある人間に対する
嫉妬心の裏返しかもしれないですし
もっと言えば、そんなモロモロの感情が社会を形成しているとも言えます。
しかし、そもそもそいった感情は、進化の過程で形成・変化したものですからある意味「生まれつき」とも言えますし・・・
少し気になる点が・・・
返信削除(他人の振る舞い次第で自分の幸福が大きく揺らぐような人生である限り、精神的に自立しているとは言えないと思います。
確かマズローの欲求の5段階というのがあって、人間は段階的に1生理的欲求2安全の欲求3愛情の欲求4承認の欲求5自己実現の欲求といった欲求を満たす性質があるそうです(その詳細・真偽はさておき)
つまり、3以上の欲求の満足は、他者との関係性において得られることから、
人間の幸福感は、他者との関係性に大きく依存すると解釈することもできます。
例えば、無人島で、外との連絡・情報も遮断して一生を終えた場合、どの程度の幸福感が得られうるかという疑問もあります。
しかし、その他者も同様な性質があるわけで・・・そう考えると、一定水準以上の幸福感(満足感)は、一種の相互依存から生まれると考えることができます。
もっとも他者というのは、具体的な人間をさすだけでなく父性・母性像、平均的な社会人像や自分の理想像といったものと考えれば、
他人の振る舞い次第で自分の幸福が大きく揺らぐような人生にはならないと思いますが・・・
いずれにしても、各人にとって適度な他者依存性を見極めることも大切なのかもしれないです。