2017年7月20日

定年退職後の不幸自慢みたいな記事を読んで思ったこと

Taoさんのブログより。
タイトルを見て、「誰も知らない」とか「誰も守ってくれない」なんて映画が頭に浮かんだ記事があった。読んでみると映画の話ではなく、会社依存症のまま定年を迎えてしまった人々の苦悩が、これでもかとばかりに語られるせつない内容だった。私にとってはまったくの他人事だ
worldsend.blog.jp
Taoさんの感想にたいへん共感しました。良記事なので一読をおすすめします。

ダイヤモンド・オンラインの元記事がこちら。
定年退職の直後に感じるのは、「現役時代は、いかに社会と関わりが持てていたか」ということだ。組織から切り離されたときから、人は「名前を呼ばれない」日々を生きることになる。60歳からを「黄金の15年」にするために、このリアリティショックを乗り越える必要がある。
diamond.jp
退職から1ヵ月余り経過したゴールデンウィーク前の金曜日に繁華街に出た。夜の8時頃だったが、居酒屋、飲み屋、レストランは、どこもかしこも超満員だった。これからの連休を控えて仕事から解き放たれた様子の会社員であふれていた。そのときに「自分にはこのような週末はもうやってこない」ことに気がついた。
外食するならガラ空きのド平日の方が良くないですか? わざわざこんな超満員のときを選ぶ必要がない自由な身分であることを、幸福だとは思えませんかそうですか。それに、休日限定で仕事から解き放たれるよりも、休日も平日も仕事から解き放たれている方がいいとは思えませんか。
参考記事:
同時期に退職した学生時代の友人は、「今は一つのことをずっと考え込んでしまうが、会社では電話や上司の指示でいつも考え事が遮られる。これが精神衛生上とても良かった」と語っていたのが印象に残っている。
人の都合も考えずに割り込んでくる電話や上司こそ、会社員の大敵じゃないですか。それが精神衛生に良いなんて…。

また彼は、若い人から年配者までが一緒に集まっている場所は、会社のほかにはないことに気がついたとも話していた。
この人どんだけ観測範囲狭いねんとしか…。
反例を一つ挙げると、安宿ですね。会社なんかよりも遥かに多種多様で多国籍な人々が集まる場所は、他にいくらでもあるでしょう。

名前を全く呼ばれないということは社会とつながっていないことを意味する。
べつに名前を呼ばれなくても、リタイア後も市場経済の中でお金を払って他者から必要なものを入手しながら生活する以上は、社会と緩くつながっていると思うのです。彼らの言う「社会とつながっていない」とは、ただ他者との(対面の)コミュニケーションがないという意味にすぎないのではないかと。

お金があって、必要なモノやサービスが買えて、やりたいことをやる時間もまだあって、だけど他者とのつながりが希薄だから私は不幸だ、って言われてもね…。既に手の内にあるものを無視して、手に入らないものにばかり意識を向ける癖を治さない限り、心が満たされることは永久にないと思います。

1 件のコメント:

  1. 記事を取り上げていただき、ありがとうございます。
    これからも精進してまいりますので、なにとぞよろしくお願いします。

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