日本は手遅れだ。どんな名政治家が出てきても、どんな提言が為されても、どんな少子化対策が実行されても「遅すぎる」ということに気付かなければならない。
もう、どんな名政治家が出てきても、どんな提言が為されても、どんな少子化対策が実行されても「遅すぎる」ということに気付かなければならない。政治の力で経済を何とかしよう、という前提を捨てない限りはその通りでしょうね。
逆に政治の力が衰退して、大きな政府というモンスターが退治されるようなことになれば、日本経済の持続的回復も夢ではないと思います。
減り続ける若年層と、増え続ける高齢層の同時並行で、日本は今の社会を維持できなくなり、あと数十年で国家の衰退は目を覆うほどの惨状となる。この手の悲観論を目にするたびに思うのは、なぜいつも「社会」≒「国家」または「政府」という前提で語るのだろうかと。
現代の社会保障制度が破綻する確率の高い2050年で、外部からの攻撃や侵略がなかったとしても日本の国家は維持できているかどうか分からない。
今の日本民族は少子高齢化が解決できないという一点で、絶滅が避けられないのである。日本社会は、持続可能な社会ではなくなった。
一般に「社会」の定義は「人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営み」ですので、国家の有無と関係なく存在するのが「社会」です。国家は社会の真部分集合、つまり「国家⊂社会」という関係になります。
A=国家
B=社会
主語が「日本の国家は」なら正しいと言えることでも、主語が「日本社会は」まで広がると正しいとは限りません。この区別は重要です。
上で引用した3文の内容はどれも「国家」が主語なら正しいものの、「社会」が主語なら正しくありません。たまたまその時代に存在していた国家が衰退、消滅したとしても、社会が滅ぶわけではないのです。かつての大日本帝国政府や江戸幕府が滅んだときのように。
参考ツイート:
日本が滅亡するというのときには、まずその文脈での日本というものの定義を明確にしないと何がどうなるのか分からなくなる。
— Angama(個人主義) (@Angama_Market) 2017年8月22日
それ以前に、日本人は少子高齢化という「静かなる国家存続の危機」を止められないのだから、それを無視して日本に投資するということ自体が間違っている。これも「国家」と「日本」の混同です。
「日本に投資」とは民間企業への投資を中心とする広い概念であり、国家(国債)への投資はその部分集合です。国家が現状のまま存続できないとしても、資本主義が終わらない限り民間企業は存続するでしょう。
日本は若年層の人口が消えて高齢層の面倒を見るために国家予算が消えていくので、当然だが技術の継承もできなくなり、技術革新も生み出せなくなっていく。国家予算と民間企業の技術革新との間にどういう因果関係があるのかよくわかりません。あらゆる民間企業が国家と癒着し、補助金を吸い取っているという前提でもあるのでしょうか。
国家予算不足を補うための増税で民間企業が痩せ細っていくだろう、という話ならわかりますが。
いずれにせよ、もし国家が衰退して国家権力の及ぶ範囲が縮小していく未来が到来するのなら、癒着していたゾンビ企業は自然に潰れ、まともな民間企業が増税で苦しむことも無くなるのですから、日本社会にとっては好ましいことだと思います。
国家と社会は運命共同体どころか、むしろ利益相反の関係にあるとさえ言えるでしょう。
(つづく?)
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