2018年9月20日

無職は後ろめたい?

ししもんさんのブログより。
今日最初の香ばしい苦味が口の中に広がる。平日の朝。郊外のカフェで空いている席を確保するのは造作もないことだ。こうしてカフェに行きさえすれば、1杯のコーヒーが注文から僅か数分で出てくる。雨の日も風の日も。これって地味にすごいことだ。この1杯の
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平日の朝。郊外のカフェで空いている席を確保するのは造作もないことだ。こうしてカフェに行きさえすれば、1杯のコーヒーが注文から僅か数分で出てくる。雨の日も風の日も。これって地味にすごいことだ。

この1杯のコーヒーが僕の前の出てくるのに、いったいどれだけの人々が関わっているのだろう。

南米や太平洋諸国でコーヒー豆を栽培した人。果肉を取り除き洗って乾燥させた人。国際物流を通して生豆をこのカフェまで運んだ人。焙煎した人。

何も考えなければ洒落たカップに注いで僕の前に出してくれたバリスタさんしか意識しない。だけどエスプレッソメーカーを作ったエンジニアやこのカフェを建てた大工さんまで含めたら、それこそ万の単位の人間がこの1杯のコーヒーのために仕事をしたことになる。

雨の日にも300円という価格でコーヒーが飲めるのは、世界中で沢山の人たちが協力して生産性を高めた結果だ。僕は毎朝カフェに行く度に人間社会ってすごいなって思う。
同感です。

世界中の人間各々が誰に強制されるわけでもなく、自らの意思で自らの利益のために仕事をした結果として自然に生産性が高まり、みんながハッピーになっていくのは素晴らしいですね。自由市場を通じた高度な分業と交換の為せる技だと思います。

無職が恥だが癖になる。

この「恥」の感情は、この世界を構成する協力の網の目に参加していない後ろめたさだ。僕は労働の網の目に参加していないにも関わらず、その成果物はちゃっかり毎日享受している。これでいいのか。本当にずっとこれでいいのか。
もちろん、ずっとこれでいいんです。

確かに無職は生産するための労働には参加していませんが、私は「恥」とか「後ろめたさ」のような感情を持ったことは一度も無いですね。成果物を毎日享受しているのもその通りですけど、べつに一方的に施しを受けたり、誰かに労働を強制した覚えもないですからね。カフェでコーヒー飲むときも、双方合意の上で取引をしているという意識しかありません。

さらに言えば、そもそも無職の私が支払っている金銭はどこから生み出されたものかというと、会社員時代の労働すなわち私企業を通じた生産活動です。現在の私の金融資産は主に、過去に稼いだ給料の余剰が蓄積されることによって形成されました。早期リタイアしていると言うと誤解されがちなのですが、資産運用で大儲けしたからではありません。つまり、会社員時代には自分が消費したよりも遥かに多くのものを生産したからこそ、無職の今は何も生産せずに消費するだけの生活が成り立っていることになります。

生涯現役を貫く人を除けば、リタイア後は誰もが消費するだけの生活へ移行します。その時期が早いか遅いかの違いがあるだけです。生産活動に参加しない生活にいちいち後ろめたさを感じてしまっていたら、人生の後半や終盤はひどく生きづらいだろうなと思います。

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