2008年10月31日

『フラット革命』



プロのジャーナリストの視点から、インターネットがもたらした言論のフラット化について書いた本です。
 マスコミが考えている<われわれ>というのは、つまるところ社会全体である。
 社会全体を構成している<われわれ>は、不二家という会社の体質に反発を感じ、この会社が今後どのような対応をしていくのかということを厳しい目で見守っていこうと考えている。新聞はその<われわれ>を代弁しているだけなのであって、そこに記者や新聞社の一方的な主観を差し挟んでいるわけではない━━━新聞は、そういうスタンスに立って記事を書いている。
 一方、インターネットの世界には<われわれ>は存在しない。そこに存在するのは<わたし>だけである。
 そのようなインターネットの世界がマスメディアに突きつけているのは、言論のフラット化である。
 ブログが日本のマスメディアと決定的に異なるのは、ブログは<われわれ>という仮想の世界に拠って立っていないということだ。なぜならブログというのはどこまでいっても<わたし>という個人が書くものであり、個人としてのブロガーが社会全体としての<われわれ>を背負う理由も義務も、そして必要もないからだ。
こうやって並べてみると、やはり従来のマスメディアのスタンスの特異性が目に付いてしまいます。何らかの言論を目にしたとき、それが私的な意見ではなくて、「社会全体を代弁する」という意味で公的な意見だと解釈すべきケースはほとんどないと思うのです。
 インターネットの世界は、マスコミにフィルタリングされずに世の中をダイレクトに、生々しく見ることのできる世界である。ノイズは大量にあふれているが、しかしそのノイズはわれわれの世界に生々しいリアルの実態を表現したものにすぎない。その膨大なリアルの中から、リアリティを失わずに、本質をつかみあげることができるのが、インターネットによってフラット化された世界の本質である。
素晴らしい世界だと思います。ノイズでないものまでノイズとして除去するフィルターなど無いほうがマシです。

本書の終盤に頻出する「公共性」という言葉を、著者は次のように定義しています。
 公共性というのは、異なる意見や異なる立場にいる人たちのさまざまな意見をとりまとめ、民主主義の中へと落とし込んでいく社会の機能のことである。
ウィキペディアの編集合戦などに見られるような「収拾がつかない」状態になることを問題視し、
 フラットな社会の中で、公共性は保証されるのか? インターネットは公共性を保証できるのか?
と問う展開になりますが、ここらへんがいかにもジャーナリストらしい視点だと感じました。

単なるブロガーとして私的な意見を述べるしかない私にはそのような発想は無く、上記の問いへの答は、
「インターネット上の言論に公共性などないし、そんなものは必要ない。」
で終わりです。「ことのは事件」についても本書を読んで初めて知りましたが、率直に言ってそれほど大騒ぎするような事件とは思えないです。
 全員が単なる一個人としてのブロガーになってしまって、すべてがフラットになってしまうと、そこでは公共性が保証されなくなる。オウム真理教のような反社会的存在が出現したとき、その反社会的行為に立ち向かうべき「公共」はどこかに担保されるべきであって、少なくともジャーナリズムを標榜する者はそうした公共性の担保をきちんととらえなければならない。
そういう偏った意味での「公共」なら尚更、不要です。そもそも「反社会的」という概念自体が非常に曖昧で危険なものです。そんな意味の「公共」に言論が拘束される世界なんて、想像したくないです。(反社会的=違法という意味なら話は別ですが・・・)

インターネットに公共性がなくても民主主義は機能すると考えるためのヒントは、『みんなの意見は案外正しい』の中に書いてあったような気がします。

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